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出会いと別れ

 思えばつまらない人生だった。


 子どもの頃から本の魅力に取り憑かれ、人と関わり合うのが面倒だと割り切ってきた。

 実家は田舎だったが体を動かす遊びよりもとにかく本を読んでいた。

 だからといって頭が良いわけでもない。確かに小学生の頃は楽勝だった。親が買い与えてくれた本のおかげで学校の授業には問題なくついていけた。お山の大将気分だった。


 ただ、あの頃から宿題や夏休みの課題はやっていなかった気がする。

 何かを積み上げることが出来なかった。三日坊主だったのだろう。


 当時ことわざの本で見たある一つのことわざを見て思ったことがあった。


『十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人』


 ああ、きっとそうなるんだろうなと予感めいた思いがずっと心を占めていた。


 そして二十どころか四十を過ぎればどうなるのか。


 ゴミのような人もどきが出来上がっていた。




 結婚はしておらず、というより女性は苦手で恋愛はしたことがなく、コミュニケーション能力が壊滅的なので友人と呼べるような人すらほとんどいない。そもそも人の名前も顔も覚えられないので土台無理な話なのだが。


 休日は家の中でまんじりと過ごしている。

 外に出ることも出る用事も遊ぶことすらない。ただだらだらと食べるだけ食べ、パソコンに向かってSNSやゲームをしているだけだ。


 体重も100の大台を越え、自分の見た目に嫌気がさしているのに、自己管理も出来ず自分から何かをしようとはしない。


 おまけに借金もしている。


 何も積み上げられない、三日坊主。ただの努力をしないゴミ。



 唯一幸いだったのは就職出来たことだろうか。それもホワイト企業。

 この不況の中、自分のようなゴミでもなんとか捨てられず会社にしがみついてこれた。

 ただし現在は鬱で休職中である。




 ここまで生きてきたのは惰性。


 死ねないから。

 死ぬのが怖かったから。


 たったそれだけの理由で社会にしがみついていた。



 だけどそれも今日で終わり。いや、終わらせる。








「部屋は片付けてきた、遺書はテーブルに置いてきた、保険金もちゃんと支払われる……」


 芹緒優香せりおゆうかはコンビニの駐車場に停めた狭い車内の運転席で、丸々太った指をゆっくり指おりながら自分が死んだ明日以降の身の周りのことを考える。もう少しで明日だ。明日の朝日は拝めない。

 そろそろ春になろうかというのに、芹緒の吐く息でフロントガラスが少し曇る。

 真っ暗の車内にコンビニの明かりが目に刺さるように眩しい。


 死ぬにあたって方法はずっと考えてきた。

 住居は賃貸だ。ここで死ぬのは家族に迷惑がかかる。


 そう、芹緒の両親はまだ健在だし、弟もいる。

 さすがに両親に迷惑はかけられないし、弟は結婚して甥っ子たちも産まれている。彼らにも迷惑はかけられない。


 車内での練炭自殺も考えたが、車だって資産。借金返済に充てることもできるはずだ。


 交通事故は誰かを巻き込むことになる。自殺志願者を跳ねてしまう不幸な人を出したくない。仮に異世界転送トラックがあったとしても、喜んで人を跳ねたくはないだろう。


 同じ理由で飛び降りも却下した。落ちた先に誰かがいて相手を巻き込んでしまうなど考えたくもない。


 オーバードーズはそもそも致死量となる量の薬が手に入らない。

 やろうと思えば社会の闇から手に入れることも出来るだろうが、芹緒は面倒くさがった。

 そも、外に出ないのに、人との交流がないのに、そんな伝手なんて見つかるわけがない。





 結局芹緒が取った方法はシンプルなものであった。

 首吊り。糞尿を垂れ流すことになるがこれくらいは許してほしい。どの方法で死んだってどうせ何かを撒き散らすのだから。


 ただ首吊りも失敗すると地獄を見るという。半身不随となったり自殺失敗者として精神病院に管理されたりといったネット記事を見て震え上がったものだ。 

 管理なんてされたくない。自由が欲しい。


 ……それをいえば今だって管理なんてされていない。むしろ住む場所があり、ネットも使え、一人暮らしだ。誰はばかることなくそこにいれる。在る。

 ただ、この人生が先細りなのもまた確か。

 この先が見えてしまう。


 一番あり得るのは孤独死。


 自分の意思が存在しない死に方なんてまっぴらだ。


 死に方が選べるなんて、最高の贅沢だ、芹緒は本気でそう信じている。

 このまま生きていたら選択肢はどんどんなくなるばかり。


 結婚? 無理むり。


 お金持ち? ありえない。


 健康? 今は体が動くがこんなデブがいつまでも健康なわけがない。



 誰とも関わることなくうっすらと消えていく。

「芹緒優香」は「私」ではなく、「芹緒優香」という「文字」としてしか社会には認識されていないのだと感じている。もしくは醜いモンスター。


 誰かを傷つけたことはないが、誰かに関わったこともない。


 そんな芹緒はただじっと、横顔を照らすコンビニの明かりから目を背けて運転席に座っていた。







 芹緒が住んでいる場所は実家から遠く離れている。

 実家よりは都会だが、都会から見れば十分田舎だ。

 その証拠に市街地から山へものの五分も車を走らせれば生活の灯はまばらになり、十分も経てばその灯すら失われる。







 舗装された道が終わったあとも山道を走ること数分。

 芹緒は目的地に到着した。




 先ほどのコンビニで踏ん切りはつけた。 


 入店した自分を見るなり店員は嫌な顔をしたようだが、それはしょうがないだろう。こんなデブでゴミみたいなモンスターが店に入って来たらそりゃ驚く。驚くに決まっている。驚いたに違いない。


 最期に買ったものは肉まん。結局自分は最期まで食べることしか興味がないらしい。




 肉まんを買ってほぼ空っぽになった財布を後部座席に放り投げる。その先には先日ホームセンターで買ったロープが置いてあった。

 ネットで解けない縛り方を調べ、事前にある程度結んである。

 トランクには小さな脚立。


「ロープよし、脚立よし……」


 芹緒は粗忽者だ。自覚があるのにそれでも忘れ物をしたりする。

 最期に忘れ物をして死にきれなかったら、そもそもそこまでいけなかったら情けないにもほどがある。

 後ろを振り向いてしっかりと指さし確認を行う。

 忘れ物はないはずだ。




 目的地は山林だった。

 背の高い木々がうっそうと茂っており、すぐには見つかるまい。


 今宵は満月だがあいにく厚い雲に覆われその姿を見ることは出来ない。


 暗い中、芹緒は足元や進行方向に注意しながら歩を進め、やがて良い感じの大木を見つけた。

 幹の太さは自分の腕では抱えきれないほど太い。手を伸ばして上を見る。

 自分の体重に耐えきれるほどの太さと高さを備えた枝を見つけると、それにロープをかける。

 念のために全体重をかけロープを引っ張ってみるが、びくともしない。 

 その真下に脚立を据えれば準備完了だ。




 あっけないほど簡単に準備が終わってしまった。



 ここに汚い遺体を遺すこと、そしてそれを片付ける人に心の中で謝罪を済ますと、芹緒は脚立の一段目に足をかけた。


 ことここに至っては考えることなど何もない。雑念が入ってはこの先進むことが出来なくなってしまう。


 ただやはり集中力はなかったのか、がさり、という落ち葉を踏む音が聞こえてしまった。


 人か動物か。しかし確認する間はない。ここで止めてしまえばもう自殺失敗と変わらない。人ならば止められて次のチャンスは訪れない。


 躊躇わずに二段目に足をかける。

 脚立は三段の持ち運びサイズ。あと一歩踏み出して脚立を蹴飛ばせば終わる。


 だというのに―――



「私も後を追っていいですか?」



 この時間帯、この場所には似つかわしくない、鈴を転がすような幼い女の声が芹緒の耳を打った。





「……」


 芹緒は首の入っていないロープから手を離し、辺りを見回して声の主を探した。



 ある一角に目を向けたその時。

 月を覆っていた雲が流れ、地上に月光が降り注ぎ、その光が人の形を取ったような気が、した。



 もちろんそんなことはあるわけはなく、そこにいた少女の姿を照らし出しただけだったが、芹緒にはそうとしか感じられなかった。



 芹緒との距離はおよそ3m。真夜中とはいえ、この距離に近づくまで人の気配を感じられないものなのか。


 月の光をキラキラと反射させる腰までありそうな長い金髪。小さな顔。どこの学校だろうか、制服姿はこの場所にはあまりにも似つかわしくなくかえって目立つ。そして小柄だが制服の上からでもわかる胸の膨らみ。


 暗闇で距離があるため顔の詳細までは分からなかったが、雰囲気は完璧な美少女だった。若い。声で予想はついていたが、姿を見るとなおさらに、明らかに未成年だ。



「こんなところで何をしている?」


 芹緒は脚立から降り地に足をつけると、少女に向かって問いかけた。


「おじさんと同じです。私も死にたいんです」


「だめだ」


 少女の返答に芹緒は反射的に答えた。

 何か事情があるにせよ、一時の判断の過ちの代償として自殺未遂は大きすぎる。


「どうして死にたいの?」


 話だけでも聞いてみよう。



「おじさんに言いたくありません」


「それじゃあやっぱり見過ごせない」


「おじさんが使わないならそれ、私に下さい」


 少女が芹緒が手にした脚立を指差す。


「誰かの自殺の手伝いなんてしたくない」


「どうせ死ぬならいいじゃないですか!」


「死ぬからこそ、来世のために悪いことはしたくない」




「……わかりました」


 少女が語気を和らげる。ふうと芹緒がおでこの汗を拭うと――


「どうせ死ぬのでその前にこの身体好きにしてください」


 少女が服を脱ぎ始めていた。



「わあああああああ!!!」


 芹緒が大声を上げ、脚立を持ったまま少女から距離を取るがすぐに木々に背後を阻まれる。



「おじさんも男なんだから、私の身体見て欲情しますよね? 私処女ですよ? 私を好きにしていいですから、そのあと死なせて下さい」



 少女が靴以外の全ての衣類を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になると、芹緒に近づいてきた。月明かりが少女の肌を優しく照らす。



 芹緒は少女から目を逸らして叫ぶ。


「自分を大切にしてくれ! 僕は君を抱けない!」


「そんなこと言ったって、男性の身体は正直なんです」


 ついに少女が芹緒に密着する。

 やはり美少女だった。

 二次元しか愛せない(愛されない)芹緒ですら息を飲むほどの美少女だった。

 長い睫毛。柔らかそうなほほ。大きな目には悲しみが浮かんでいる。

 少女の白い胸のふくらみが芹緒との間に挟まれ形をつぶしていく。細い指がそっと芹緒の股間を撫で回す。


 そして―――



「あれ……?」



「何をしてるんだ!もう!」


 少女がまさぐった意味を知り、真っ赤になりながら芹緒は脚立を手放すと、少女の身体を反転させ、衣類が落ちている場所まで両手で肩をぐいぐいと押していく。


「服を着てくれ……着て下さい」


 懇願するように声を絞り出すと芹緒は少女に背を向けた。背後からは動揺する気配が漂ってくる。





 月が再び雲に隠れる。


「……私って魅力ありませんか」


 しばらくして衣擦れの音が聞こえ始めた。声は心なしか沈んでいる。



「魅力がないんじゃない、僕にはもったいないんだ。君ならもっと相応しい相手がきっと見つかる。やけになっちゃいけない」



「おじさんは」少女がつぶやくように言う。「おじさんは自殺するのにやけじゃないんですか?」


「やけじゃないな」



 芹緒はゆっくりと少女から離れる。


「もう未来に希望はないからね。今死ぬか未来野垂れ死ぬかの違いでしかない。選べるうちに死にたいだけだ」


「私は」少女の声がはっきり聞こえる。着終わったのだろう。


「私も同じです。したくもない相手と結婚が決まっています。父もさくらも誰も話を聞いてくれません。こんなのいやです……」


 声が震えている。


「許嫁か……」時代錯誤な話だがあるところにはあるのだろう。現にそれで絶望している少女がいる。



 ただそれでも。

 芹緒はゆっくりと振り返る。少女はちゃんと服を着ていた。


「死にたい位の気持ちがあるなら死に物狂いで両親を説得するんだ。それでもダメなら家を出たらいい」



「おじさんは死に物狂いで努力したんですか? その結果がこれなんですか?」



「いいや」


 芹緒は素直に答える。


「僕は努力なんてしなかった。いつもなんとかなっていたから。でも今から努力したって結婚出来るわけでもないしお金持ちになれるわけでもない。ただおじさんが一人この世から消えるだけさ」


「人には努力とか言っておいて自分はしてないなんて。説得力の欠片もないですね」


 少女の言葉は厳しい。



 それでも口だけなら芹緒も何とでも言える。お説教おじさん上等だ。


「そうだね。でも君はまだ若い。可能性は僕よりはるかにたくさんある。そんな若い子を目の前で死なせるわけにはいかない。どうせ死ぬなら現世では悪いことをせずに徳を積んでいきたい」


「来世には希望があるんですか?」


「どうだろうね。ただ今よりは可能性にあふれていると思う。来世は可愛い女の子になって人に愛されたいな」


「可愛い女の子だからって単純に愛されるわけじゃないですよ。……証拠は私」



「はは、言うねえ。……気持ち悪いこと言ってごめん」


「なにがですか?」


「こんなおっさんが可愛い女の子になりたいとか気持ち悪いことこの上ないよね? だからごめん」



「さっき私を抱けないって言ったのは、おじさんの心が女性だからなのかなと納得しましたよ」


「そういうわけじゃないけど……」



 芹緒は童貞だ。女性の扱いは疎い。それにアレも小さい。さっきだって少女が触っても気付かなかった位に。こんな少女に見られて笑われたくない。いやもう気付かれたか。



「まあその話もこの話もいい。君を送っていくよ」


「自殺しないんですか?」


「少なくとも君を家族か警察に引き渡すまではやめとく」


「私は!」


 芹緒の言葉に少女が色めく。


「君の気持ちは分かった。でも僕に邪魔された。多分神様が今日は止めなさい、と言ってきたんだ。そういうことだと思おう」


「……」


 俯いて黙り込んだ少女の腕をそっと掴む。

 細くて、とても手触りが滑らかだ。そして温かい。

 普段人と関わらない芹緒にとってこの行動がもうすでにいっぱいいっぱいだ。

 だがそれを覚らせぬよう、埃を被った穴だらけの大人の仮面を付け直すと芹緒は腕を引いて車へ向かった。






「後ろに乗って」


 芹緒は鍵を開けると少女にそう声をかけた。


「助手席じゃないんですか?」


「助手席は普段物置なんだ。それに君の姿が外から見えても困る」


「そうなんですか」


「こんな時間に見知らぬ未成年の女の子を車に乗せていたらそれだけで捕まるのがこの時世だからね」


「そんな危険な橋を渡ってまで私を送るのってさっきの徳の話と矛盾してませんか?」


「こんな暗い山の中に置き去りにする方がダメだろう」



 ロープは置いてきた。そもそもしっかりと結んであるので外すのに苦労するだろうし。脚立はトランクだ。


「シートベルトしてね」


「おじさん本当に落ち着いてますね……」


「いや、女の子を車に乗せるの初めてだからすごい緊張してるよ」


「いえ、さっきまで自殺しようとしていたのに」


「それはお互い様だ」






 車を発進させる。

 車で来たとはいえ、本当に山深い。


「君はどうやってここまできたの?」


「それがよく分からないんです。何もかも嫌になってて……気付いたらいつの間にかあの場所にいて、目の前でおじさんが首吊ろうとしていて」


「いつの間にかって……君妖怪とかの類じゃないよね?」


「人間のつもりではいるんですが」


「まあ化け物は僕のほうか」


「はい?」


「こんな太って見た目が醜いからね。こんな状況じゃなきゃ君だって叫び声上げて逃げ出すはずさ」


 はは……と自虐的な乾いた笑いを上げる。


「そんなことないと思いますが」


「ありがとう」お世辞でも嬉しいよ、とでも返せればいいのだがそんなわけないのは自分が一番よく知っている。見た目も中身もただのゴミだ。


「おじさんは被害妄想が過ぎるんじゃないですか?」


「かもしれない。治るとも思えないけど」


 それはそれとして。






 山道を抜けた。


「警察と家。どちらに行くか決めた?」


「家……がいいんだと思います。警察だと大事になってしまうので……」


「家どこ? 案内してくれる?」


「はい……」


 しょぼくれながらも自宅への道案内をする少女。その案内に従って車を走らせる。


「家に帰ったら怒られるかもしれないけど、怒ってくれる人がいるだけマシだよ、本当に。それに君は間違ってるわけじゃないからね。思う存分一人の人間としてぶつかっていけばいい」


「また口だけですか……」


「年齢だけでも大人の人間として、言うだけは言っておきたい」


「それって余計なお世話、っていうものですよ」


「分かってる。分かってるからこそ余計なお世話。でもきっと君が黙って死ぬより反抗してくれるほうがご両親に後々喜ばれると思うよ」


「おじさんは?」


「生きてるほうが迷惑かかる。死んでも葬式には片手ぐらいしか集まらない。それだけの人間関係しかないからね」もちろん遺書には葬式不要と書き添えてある。


「僕も君が生きてくれてたほうが嬉しい」


「え?」


「自殺を止めて生きる選択をしてくれたら、こんなに嬉しいことはないじゃないかな」


「でも、それは私でなくても誰でもいいんですよね?」


「そうだね、誰でもいい。でも僕の人生でこんなことで関わり合いになる人なんて君くらいだと思うから、君が生きてくれたら嬉しいよ」


「私もおじさんが……」


「止めてくれ」少女の言葉を遮る。「言わせたいわけじゃないから。気にしないで。こっちは生きてても何もないからね。すぐに忘れたらいい」



 少女の長い人生、これからも多くの波乱があるはずだ。カッとなった人生の一瞬で関わった名前も知らない相手のことなど、すぐに忘れてしまうに違いない。まあ見た目だけは残りそうだが尚更忘れてほしい。


 少なくとも芹緒は数年もすればこんなに印象に残る少女の顔立ちを、あの一糸纏わぬ姿を忘れてしまうだろう。今だって二人しかいないから認識出来ているだけで、別れて数日も経てばすれ違っても気付けない自信がある。

 漫画やドラマのように一瞬顔を見ただけで「あ、あの時の!」という気付きはフィクションだと信じている。





 くぅ~。

 可愛らしいお腹の音が後部座席から聞こえてきたのはちょうどコンビニ前の信号に捕まった時だった。


「何か食べる?」


 芹緒は車をそのままコンビニの駐車場に入れながら聞く。


「あっあの、これはその」


「こんな時間に女の子は食べないものかな?」


「そういうわけじゃなくて、えと、夕食を食べ損ねて……」


 語尾は小さくなり、ただでさえバックミラーにようやく映り込んでいた体をさらに縮み込ませる。顔は真っ赤だろう。


「落ち着くために何かお腹に入れよう、何がいい?」


「それじゃあこの美味しそうな匂いのものを……」


「?」


 くんくんと芹緒は鼻を鳴らす。すると先ほど食べた肉まんの匂いが漂ってきた。

 ゴミを運転席後ろの車内ゴミ箱に入れていたので、その匂いが車内に充満していたらしい。



 女の子を車に乗せるのにこういうことに気付けない、やっぱり自分はダメダメだと意気消沈しながらも努めて明るく話す。


「分かった肉まんだね。飲み物は?」


「紅茶をお願いします」


「はいよ」





 入ってから気づいた、ここは山に行く前に寄ったコンビニだった。

 時間も一時間と経っていない、当然店員も同じ男だろう。


「らっしゃっせー」


 男で陽キャっぽい風貌。自信はないがおそらく同じだ。

 芹緒はビクビクしながらもペットボトルの紅茶、缶コーヒーをレジに置くと肉まんを一つ頼んだ。


「468円になります」


「はい」


 体を縮み込ませながら芹緒はポケットの中の小銭をかき集めると会計トレーの上に置いた。

 おそらく店員は「また肉まん買いに来やがって」と思っているに違いない。

 痛む胃を極力気にしないにしつつ、商品を受け取ると芹緒は逃げるようにコンビニを後にした。






 運転席に乗り込んで一息つく。

 後ろの子も見知らぬ人間ではあるが、ツッコミはあっても少なくとも今はこちらをバカにするような態度を見せていない。会話が続く。それだけで落ち着く。


「はい」


「ありがとうございます、あの実はお財布が手元になくて……」


 缶コーヒー以外を後部座席の少女に手渡すと、少女はお礼を言いながらもあたふたしていた。


「おごりだから気にしないで」


「ありがとうございます。これが肉まんですか……」


 コンビニの駐車場、コンビニの明かりが差す車内で少女は肉まんを照らしながら物珍しげに眺めていた。


「食べたことない?」


「はい。学校では寄り道禁止ですし、食卓に上がったこともありません」


 先ほどの許嫁の話といい、この少女は一般家庭ではないお家の子のようだ。



「あつっ!」


「ああ、中身は熱いんだよね。先に言っておけば良かった、ごめんね」


「いえ、ついかぶりついた私が悪いので……。っていうか、どうしておじさんが謝るんですか?」少女はペットボトルの紅茶を開けて口内を冷やす。ペットボトルは知っているようだ。


「反射的に?」


「やっぱりおじさんは被害妄想が過ぎます」


「先に謝ったほうが面倒がなくていいんだよ」


 早めに謝ればそこで話を終えられる。だからすぐに謝る。



 芹緒は滅多に怒らない。

 滅多というかほぼ怒らない、怒れない。

 ただ気分が落ち込むだけだ。無力感が全身を苛む。気分がコロコロ変わることが出来ない。



 漫画やドラマで見るような、さっきまで泣き喚いていた女性がプレゼントでニッコリ、なんていう事は有り得ないと思っているし、もし本当に現実なら羨ましいとさえ思っている。



 芹緒の怒りや悲しみを癒やしてくれるのはただただ時間の経過だ。時間が経てば芹緒は忘れてしまうから。



「急がないからゆっくり食べたらいい」


 芹緒は肉まんをそこそこ上品に頬張る少女の顔をバックミラー越しに眺めながらそう呟いた。









「その先です……あっ」


 彼女が指差した方向は行き止まり。そこがゴールらしかった。


「こんな時間なのに人がたくさんいるね」


「ああ……家の者たちです」少女の声のトーンが下がる。


「……」


 芹緒は黙って低速で車を進める。車内からでも分かるざわめきがすうーっと道を開ける。人影はスーツ姿の男性たちだった。何人かは車内の姿に気付いたようだ。奥の大きな家に走り込んで行く。明らかに大きい。一般の住宅ではない。

 怖い人たちでなければいいのだが。芹緒は今更怖じ気づいたがここまできたら放り出して逃げることも出来ない。


「ここです……」


 芹緒が車を停めるのとスーツ姿の男性たちが車を取り囲んだのはほぼ同時だった。

 芹緒はドアのロックを解除する。


「ありがとう、ございました」


「がんばれ」


 少女は芹緒と短い挨拶を済ませるとドアを開け外に出て。


「御嬢様!」


「よくご無事で!!」


 たちまちスーツ姿の男性たちに取り囲まれる。




 コンコン。

 運転席のガラスがノックされる。見るとスーツ姿の男性がこちらに目で合図してくる。


「はあぁぁ……」


 大きなため息をつくと、芹緒もまた大きな体を震わせノタノタと外に出た。

 早く自由になれるといいな。







「お嬢様!」


 スーツ姿の男性たちに囲まれた美琴の耳に聞き慣れた声が聞こえた。そしてすぐに目の前に小柄なスーツ姿が現れた。周りを囲むスーツ姿の男性より頭一つ小さい。よく見るとその人物は女性だった。


「ご無事で良かったです!どこに行ってらしたんですか!」そして抱きついてくる。


 それは美琴の付き人、鬼島(おにしま)さくらだった。


「さくら……」美琴は自分よりも少し背の高いさくらの久々の抱擁に少し戸惑いながらも、そっとその背中をさする。

 さくらは美琴より二つだけ年上のお姉さんだ。子供の頃からの長い付き合いで幼い頃は本当のお姉さんだと思っていた。長い黒髪をローポニーテールにまとめ、目つきは鋭いが今は美琴の無事を確認してその目の端に涙が浮かんでいた。

 大きくなってからは美琴との間に距離を取るようになり、付き人としての立場を明確にしている。



「美琴、戻ったか」


 さくらに押さえられた美琴に男性の声が聞こえてきた。


「お父様!?」



 九条道里(くじょうみちさと)

 曾祖父の代から京都に本社を置く九条カンパニーの現社長。

 普段は仕事ばかりで家に寄り付かず、話をするのさえ難しいのに、今日は一体……?



「美琴が行方不明と聞いてな」


「―――!」


 やっぱり自殺を試みたことは間違ってなかったと美琴は確信する。こうやって父親を引き寄せることが出来たのだから。


「お父様、私大事なお話があります」


「それは彼に関係する事かな?」


「かれ……?」


 父の視線の先にはSPに囲まれて両手を上げたおじさんがいた。どうして? おじさんはここまで送ってくれただけなのに……。


「あの人は関係なくって」


「おじょうさま……、()()ありましたか?」


 ふと気付くとさくらが美琴の制服を鋭い目で見つめていた。


「何かって?」


「あの男に何かされていないかということです」


「えっ……あっ」


 さくらの言葉におじさんに慣れない色目を使ったことを思い出す。あの時は必死でどうにでもなれという心境だったが、今思い出すと恥ずかしすぎて顔がどんどん紅潮してくる。



「……」


 美琴の制服には細かな草汁が着いていた。そして着こなしもどこか荒っぽかった。まるで一旦脱いでまた着たような。


 そしてそんな美琴の恥じらいの表情を感じ取ったさくらの行動は速かった。素早い動きで一足飛びに不審なブ男の元までたどり着くとスーツ姿の男性たちが逃げ惑うのも構わず側頭部を蹴り倒した。


 ブ男の目にはいきなり視界が横になったように感じたことだろう。

 アスファルトに叩きつけられたブ男に馬乗りになって殴りつける。



「貴様のような醜い野郎が触れていい方ではないんだぞっ!!!」



「さくらっ!? やめて!! 違うの!!」


 付き人の勘違い甚だしい暴力に少し遅れて気付いた美琴が慌てて制止するもさくらは止まらない。

 おじさんの元に行こうとするもスーツ姿の男性立ちに制止される。


「む……?彼は……?」


 道里はさくらを止めるのを忘れ、ただ騒動のほうを見て何かを考えている。



 美琴は周囲を見回す。



 誰も私の話を聞いてくれない。



「さくらっ!! お願いだから止めて!! その人は私に親切にしてくれたのっ!!」


 止まらない。

 おじさんは声すら出せずただ殴られるままとなっている。



「やめて!!!」



「やめなさい!!!」





 やめてよ!!!!!!!






 美琴の全力を振り絞った声にならない声が辺りに響いたとき、不意に美琴と芹緒の体が白い光に包まれた。



「なにっ!?」


 変化にいち早く気付いたさくらが芹緒の体から飛び退く。




 白い光は、



 カッ!



 と音が鳴り響いたと思うほどの大光量となり天を貫いた。



 そして、



 フッと消えた。





 あまりの光量にその場にいた人々はしばらく視界が閉ざされていた。


 

「御嬢様は……」


 さくらがようやく暗さに慣れ、美琴の姿を探す。


「!」


 彼女が見たのは地面に倒れ伏せた美琴の姿だった。


「御嬢様!!」


 すぐに駆け寄ると美琴の体の状態を推し量る。



「さくら」


 頭上から旦那様、道里の声が聞こえる。


「厄介なことになったかもしれん。美琴と彼、()()()を屋敷に運び入れろ。どちらも丁重に扱え。くれぐれも『手抜き』するな」


「は? はっ!」


 そうさくらに指示を出すと彼は身を翻し周囲のスーツ姿たちに次々と指令を出す。







 この日。

『二回』観測された謎の光の柱はニュースにもならず、SNSにも上がらず、ただ人々の噂話に留まることとなった。

2021/4/26 継母が影も形もなく消えました。

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