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精霊の、物語。

作者: 神風桜花

プロローグ


 私は精霊。輝く大空を舞い、地面を覆い隠した雲を散らしながら自由にこの世界を吹き抜ける風の精霊。

 私は大昔から何千年もこの大地に風を送り込み、季節の移り変りを伝え、時には禍をもたらしたりして来た。そう、ずっとずっと昔から、気が狂うほど遠い昔から、私は風を操っていろんなことをしてきた。

 空は本当に広くってどこまでも続いてて、みんな私の思いどおりに動くから、私はいつの間にかこの世界は全部私の言いなりになると思い込んじゃってた。

 そうしている内に大地には人間が数を増やして、それからは時々悪戯をしたくなって人間の形になって人の住む町に降りてみたり。

 でも、分かってしまった。

 私は常に迷惑がられて遠ざけられる存在なのだと。

 私だって全部の風を操れるわけじゃないのに、人間たちはことあるたびに私のせいにして畏れ、決して近づいたりしなかった。

 確かに少しの人たちは私にかまってはくれたけど、私を友達としてじゃなく邪魔者として扱った。

 正直言って寂しかったけど、もう慣れてるの。生まれてからずっと、私は一人だったから。

 空が私の家で、遊び場で、そして……私が見る世界の全てだった。

 こんな話馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないけど、今もほら、ずっとあなたの側に。


***

 

そう、あれはちょうど3年前のこと。

中学校に入学して浮かれに浮かれていた僕の笑顔は、一瞬にして消えうせた。


夜中に鳴り響く一本の電話。

青ざめて受話器を取り落とす母親。

何事かと聞いた僕に、母親はたった一言。

 父親が死んだ、と。

 交通事故。即死。

 呆然とする間もなくそれからが大変だった。

収入源を断たれては生活が成り立たないので、専業主婦だった母親は仕事を探した。

けれど、ろくな学歴も資格もない母親を受け入れてくれるようなお人よしな会社は探せどもどこにもなかった。

最後の最後にありついたのは、住み込みで働く人間社会の底辺に位置するような職業。

母親はそれでも文句も言わず身を粉にして働き続け、僕の分の食い扶持まで稼ごうと必死だった。そして劣悪な寮に住み込んで働くことになっても、何も言わなかった。

僕は一人、残された。

まだ中学生だった僕は、惨めな生活を強いられてでも、母が優しく見守ってくれるような人生を歩みたかったのに。


 本当に、神は理不尽だと思う。


――二つの影は一つになって。二つの風は混ざり溶け合って。相反するものは引かれ合って。物語を、紡ぐ。


第一章 出会いは突然


「……うがっ!?」

 奇声を上げながら目を覚ます。

 よくは思い出せないが、ひどく怖い夢を見た気がした。

 とにかく暗くて、怖くて、夢中で走っていた。夢の中の出来事だったというのに、実際にも何時間も走りとおしたみたいに体が重く、息切れも著しかった。

 僕は呼吸を整えてからやっと身を起こし、頬のしびれと目の前の机においてある文庫本に気づく。 

どうやら真昼間から机を枕に眠ってしまっていたらしい。

「ん……んん」

 時計を見れば針はぴったり十二時を指しており、僕は本をぱたんと閉じると大きく伸びをした。体中がみしみしと音を立てているようだった。


 未だに寒さが残る2月初め。

 僕は久々の余暇を楽しんでいる。

よっこらせと立ち上がって、換気のために真っ白に結露した窓を開けてみると、外にはのどかな住宅街が広がり、どこからともなくはしゃぐ子供の黄色い声が聞こえて来た。

 ちらりと見てみれば近所の空き地で黄色やらピンクやらのコートに身を包んだ4、5人の子供たちが散らばり、走り回って遊んでいる。

しばらく窓枠に肘をついてそんな年齢一桁代を眺めていたが、やはり外の気温は体に応えるので僕は窓から離れた。


 今年の冬はかなり冷えた。おかげで雪はばかばかと降り積もったしなかなか気温も10度を上回る気配がない。ちびっ子たちは恐らく平気なのだろうが、こちとらもはや成熟しつつある身、外に出たくなるような元気は残ってはいない。

きゃいきゃいと響き渡る子供たちの陽気な声は恐らく雪合戦でもしているのであろうか。

 元気な奴等だな、と内心少し嫉妬しながら僕は昼食を準備しに台所へ向かった。

 がたがたの襖を開ければ、木造家屋特有の臭いが鼻をつき、僕はそこでもう一度伸びをした。

 一人暮らしをはじめてからはや三年、一応毎日料理に挑戦してはいるのだが、いまだ上達の兆しはない。もしかして自分は料理ができない星のもとに生まれてきたんじゃなかろうか、とやや自虐的な思考に走り気味である。

……さて、何を作ろうか。

階段を下りて台所へと向かい、古ぼけてたたずむ大きな冷蔵庫を開けてみれば中はスカスカだった。

「さあて……どうするかな、と」

そろそろ買い出しに行かなければならないが、やはり外には出たくない。

 冷蔵庫をしばらく物色した後今日もカレーにしてしまおうと覚悟を決めた僕は、カレールーを戸棚から取り出しながらぼそっと呟く。

「やっと終わったか……」

 今年でめでたく中学校とおさらばする僕、秋沢(あきざわ)聖一(せいいち)は、元々明るい性格ではなかったし

中学校でもちょっと浮いた存在だったのでろくに友達も作れなかった。

 それが独り暮らしと言う家庭的事情と相乗効果を生み出して3年間ずっと孤独感にさい

なまれ、一歩踏みはずせば無意識のうちに首を吊ってしまいそうな綱渡り状態が続いてい

たのである。

 だからこれから友達の一人や二人できるだろうと淡い期待を抱いていた高校は母親の強

い要求によりかなり高レベルな第一高校を受験させられた。恨むべし全県一区。

 その熾烈を極めた受験戦争もつい数日前にフィニッシュ、今は独り暮らし故の孤独感に

包まれながら趣味の時間を過ごしている。

最近、材料を包丁で刻む音が妙に寂しく感じられるようになった。

外ではしゃぐ子供たちに交ざりたいぐらい暇になった。

試験の結果なんてどうでもいいくらいに一人でいるのが不安だった。

 僕は溜め息をつきつつ、まだまだ寒々とした空を窓越しに見ながらご飯を深皿に盛りつ

けると、その上にカレーを掛けてテーブルに運んだ。

 その時、まるで家の中に入りたがっているかのようにびゅううと風がうなり声を上げて

かたかたと窓ガラスが揺れた。

「お前も食いたいのか」

 と、虚空に話しかけてみる。もちろん、返事はゼロだ。

 はあ、と再び溜め息をつきながら僕はもそもそといいかげん飽きた味を味わった。

 憂鬱だ。

昼食をとり終えた僕は、どれテレビを見ながら午後の暇な時間を過ごすかと台所を出た。

ワックスのはげた狭くて長い廊下に、薄暗い光がわずかに差し込んで、ますます憂鬱な気持ちを加速させる。

ため息をついて意味もなく肩をすくめると、みしみしといやな音を立てつつ階段を上りきり、がたがたの襖を開けて日に焼けた古いテレビのスイッチを入れる。

あいにく母親が出稼ぎに出ていてその仕送りだけが頼りなので、あまり生活が豊かとはいえない。特に電化製品は壊れたらもう買う金がない。

このテレビだってもうかれこれ10年は使ったと思う。それでも壊れないのは、多分運が良かったからだろう。これからも丁寧に使い続けようと思う。

最新型に買い換えたいという願望もなきにしもあらず、だが。


まだ時間は2,3分早い。

僕はそれまで本の続きでも読んでいようか、と立ち上がってぶるっと震えた。

窓から少々肌寒い早春の風が勢いよく吹き込んできたからだ。

そろそろ換気も終わりでよかろう、と僕は窓を閉めようと振り返り、

「あ……え……? ……ええっ!?」

信じられない光景を目の当たりにしてしまった。

精神的におかしくなって幻覚でも見たかな、と目をこすってみても、目の前の光景は全く変化しなかった。

何かが、いる。

「お……お前、誰だ!」

 かなり驚きつつ、かろうじて声を絞り出す。

目の前にいたもの……それは、野良猫でも野良犬でもなく。

「え……わたし?」

畳にぺたんと座り込む、外見からして12、3歳ほどの女の子だった。

二人の間に、しばし沈黙が訪れる。

少々落ち着きを取り戻してきた僕は、改めて眼前の少女をまじまじと見つめていた。

ストレートの緑がかった長い髪、幼い感じの中にもどこか落ち着いたムードを漂わせる整った顔立ちに、緑色の大きな瞳。細いけれど引き締まった肢体。着ているのは……何ていうのだろう、西洋風の一枚布の服で、ひらひらと飾り立てているが腕はむき出しでそこから積もったばかりの雪のように白くて繊細な肌が覗く。

しかし、絶対に人間ではない。しかしこのシチュエーションのことを言っているのではなく、身体的に明らかな違いがあるのだ。それは。

指の先から髪まで全て半透明なのだ。

見てはいけない、そうと分かりつつも僕の目はそこに釘付けになってしまっていた。

超弩級の美しい少女である。あるのだが、半透明、という特性による恐怖心のほうが勝る。

とうとうおかしくなったか、と思って頬をつねってみても、少女は消えることもしっかりと見えることもなく、いつまでも半透明なままだ。

「……ぁ」

 驚きのあまり声も出なくなっている。

「……ねえ」

最初に口を開いたのは少女のほうだった。しかしそれは、先の質問の答えではなく、逆に僕に対する問いだった。

「あなたには私の姿が見えるの?」

「な、何を」

意味の理解できない質問にたじろぐ。

見えているか、だと?逆に自分の目を疑いたくなる。

そんな僕をよそに、少女は続けた。

「普通の人には見えないはずなんだけど……一般人で私の姿が見えたのはあなたが初めてよ」

「……へ?」

あのう、あなた様は先ほどから何をおっしゃっているのでしょうか?

「姿が見えるってどういうことだ? ……まずお前は誰だよ」

大いに混乱しながら尋ねると、少女は呆れた、といった感じに肩をすくめた。

「あなた、何も知らないの?私は……風の精霊よ」

少女がそう言った途端、不意に風が湧き起こり、僕が飛び掛からんばかりの剣幕で怒鳴ろうとしたときには……

「かっ、風の精霊? そんなものが……って、あれっ?」

既に少女の姿はそこには無かった。

ぶわっとカーテンがなびき、やがて静まる。

「い、今のは……何だったんだ」

後に残るのは、顎をだらりと垂らしたまま固まる僕と、いつも通りの静寂だけ。


第二章 春風に乗せて

 

あれから2ヶ月。

季節は冬から春へと移り変わり、今年もようやく雪深き東北の地に春一番が舞い込んだ。

 人々は春の訪れに喜び、仕事の始まりに憂い、特に新入生たちは学期の始まりに期待と不安を抱きつつそれぞれに活動を始めた。

 そんな人間に対して自然もまた敏感かつ正確に、季節の変遷に対して精一杯の芽生えで応える。

 当たり前の事だが、白河関以北の人々にとってそれは希望であり、雪降り積む冬の終わりを告げるまさしく神のお告げにも等しい風であった。

 そんな強くも身に心地よい春の風を全身に受けてマフラーを靡かせながら、僕は今高校へ自転車を走らせている。

寒いと言うわではないが暖かくなるのはまだ先なようで、同じく高校へ向かう見知らぬ生徒たちも皆厚手の上着を羽織っていた。

すがすがしい、というか、不安、というか。

 そんな複雑な気持ちも、嫌いなわけじゃない。

そう、受かったのだ。第一志望校に。

あの努力が報われたかと思うと、喜びは50%ちょい増える。そんな晴れ晴れとした心で、俺は自転車のペダルを思いっきりこいだ。

あの出来事は何だったんだという疑念はいまだ頭の中に根強く残っているが、今は高校進学の喜びに浸ることにしている。そう、あれ寂しさが生み出した幻覚だったんだ。そうに違いない、うむ。

第一、そんなことに頭を使っている暇はないのだ。高校生活にいち早く適応するため必死だし、それよりも何よりも……

「おはよっ!」

今日も偶然ばったり出くわしてしまったこの人、同じ一年生である愛しの(いつく)(しま)恭子(きょうこ)さんのことで頭の中はもうお花畑なのである。

この人、恐ろしいほどに、破壊的なまでに、もう見ただけで熱が出そうなほどに可愛らしく、ああこの高校に来て良かったと思う唯一の理由となっている。

初恋、なんて仰々しいものでもないが、まあこれは思春期の男子として仕方が無かろう。

「お、おはよう……ございますっ!」

とっさに出てきたのは敬語。ああ情けない。

しかし憧れの人は僕の醜態をやさしい笑顔で包み込んでくれる。

「秋沢君って面白いね」

「そ、そそそそそ、そうかな!?」

何気ない一言にも激しく動揺する僕。やっぱり情けない。

「じゃねっ、また学校で!」

あたふたする僕にウインクをくれた厳島さんは艶やかで長い黒髪を揺らして颯爽と去っていった。

あ、ああ……美しい。

この人と出会ってしまったのは、入学式の日。

半ば禿げかけた校長の間延びした挨拶を聞きながら何気なく視線をやると、背筋をしゃんと伸ばして座る厳島さんが視界に入ってしまった時からもう一目ぼれしてしまった。

そして何気なくクラスの顔ぶれを見ていると、なんとあの人が自分と同じクラスではないかっ!?

何やら不思議な運命を(勝手に)感じた僕は、厳島さんに猛アタックした末なんとか会話を交わせるような関係にこぎつけたのである。まだ数日しかたってないけど、ああ大変だった。

……そんなお気楽な日々を送りつつも、まあ、多少考えてはいたのだ。

もしあれが夢じゃなく現実だとしたら?

それが現実だったとして、あの子がもし本当に風の精霊だったら?

……もし、もう一度、あの場所で会えたとしたら?

そんなことは妄想に過ぎないと分かっていながらも、考えずにいられなかったのだ。

「っと、遅刻する!」

それでも、やっぱり現実に戻らなければならないのだ。だからにわかに信じがたいあの出来事はなかったことにしようと思う。

僕は無意味な考えを振り切り、自転車で校門を強行突破しようとして、

「ぬわおうぅ!」

縁石に乗り上げてコケた。……なんだか今日は厄日になりそうだ。

まあ、厳島さんの笑顔さえあれば万事オッケー、なんて思ってしまう情けない自分が横転した自転車の下にいた。

そして痛みと妄想で動けない僕の耳に、ホームルーム開始のチャイムが空しく聞こえてきた。

……いつもは遅刻なんてしないのに。やっぱり今日は厄日だ。



「すいません、遅刻しましたっ!」

慌てて教室に駆け込んできた僕に、約三十人の冷たい視線が突き刺さる。

担任で数学教師の鈴木先生も教卓の上の帳簿から目を離して怪訝そうにこちらに視線を向けてきた。

そして一言。

「8時36分……6分遅刻」

「すいませんでしたっ!」

ゆっくりとした口調で事実を告げる鈴木先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに僕はすばやく教卓の後ろを通って自分の席についた。

先生はまた何か言おうとしたが、諦めたのだろうかはたと口をつぐみ、度の強い銀縁眼鏡を押し上げて手元の書類に目を落とした。

ほっと胸をなで下ろして教師が不機嫌でなかったことに感謝しつつ鞄の中から一校時目の用意を取り出す。

すると、後の席のガタイのいい男子生徒が背中をつついてきた。こいつはこの学校に来てようやくできた親友で、高村信二。熱血野球部員であり、坊主頭、色黒、がっしりした肩などは野球部員のそれで、中学校時代には常にレギュラーだった、らしい。(本人談なので確証はない)

「お前が遅刻なんて珍しいなぁ。寝坊でもしたのか?」

高村は背中をつついたシャーペンを手の中でくるりと回すと小声で聞いてきた。ってか、シャーペンでつついたのかっ!?危なっ!

「チャリで校門を強行突破しようとしてコケた」

嘘を言っても仕方が無いので(というかこいつの野生のカンですぐに見抜かれるので)僕は素直に事実を告げる。

「うはっ、バカじゃん」

高村は失礼な感想を述べると、手の中のシャーペンをもう一度回そうとして取り落とした。

僕は転がるシャーペンと追う高村を無視し、提出物を準備しようとして手を止めた。

……宿題を忘れた……

僕は椅子の背面にもたれかかり、ふう、と溜め息を漏らした。

どうやら今日は厄日じゃなくて不幸の神が舞い下りたとみえる。いや見えないけど。

……見えないよね?


***


「うおっしゃ、終わったぁ!」

帰りの挨拶をし終わった直後、まだ担任が教室にいるにも関わらず高村は大声で叫んだ。

確かに授業が終わったのは僕にとっても(特に今日は)嬉しいが、こいつは野球に並々ならぬ熱意を燃やしているのだから放課後の時間は貴重なのだ。

本人談によれば(おしゃべりなやつだ)、今年の大会では県大会で1位通過してやるんだーとか何とか。

「すごいテンションだな」

後ろでせっせと着替える高村に声をかけてみれば、返って来た答えは

「当ったり前だろうが! 俺は野球をするために学校に来ているんだ!」

……だった。

あ、言いやがったなこの野郎。

「あのなあ、おま」

「んじゃな、野球が俺を呼んでるぜっ!」

高村は僕の話にまったく耳を貸さずしゅぱぱっときれいなフォームで廊下を爆走していった。

道行く人々はモーゼ状態、ぱっくりとそこだけ道ができる。

それは、プロへの道か、フリーターへの一本道か。

「全く忙しない奴だ……てか、なんで俺の友達って変な奴ばっかりなんだろ…」

そんな友人の後ろ姿を見送りながら、僕はそう思わずにいられなかった。

この野球馬鹿、成績がかなりヤバいのに。


……まあ、とりあえず今日も授業は無事終了。


僕は家事をこなさなければならないので部活に行くこともなく他の奴より一足先に帰路についたのだった。

「今夜のおかずは何にしようか……あ、そうだった。冷蔵庫の中はスッカラカンだった……」

どうでもいいことを考え、もう一度ふいー、と溜め息を吐いていつもの坂道をママチャリでえっちらおっちら上り始める。

坂を上りきると、そこにはここら一帯をぐるりと見渡せる絶好の場所が広がっている。

そこをもう少し行ったところにマイハウスがあり、いわば窓の外の景色という点では一等地に値するであろう。

僕は自転車から降りて息を整えながらしばらくその景色を眺めた。

しかし気がついてしまう。学校に宿題を忘れてきてしまったことに。

「ぼ、僕、祟りに遭うことでもしたのかな……」

引き返しながらしょうも無いことを考えれば、浮かんでくるのは数日前のあの出来事。

「ま、まさかな……てかあれは幻覚だ、夢だ」

現実を否定しているのは分かっているのだが、普通部屋に戻ってきたら女の子がいたなんていう事信じられるはずが無い。

僕は今日の不幸を思い返し、自分のイカれた頭を思って溜め息を吐いた。

「は〜…げふっ!」

ちなみに最後の叫び声は校庭で練習中の野球部員がフルスイングで飛ばした球が顔面を直撃した際の断末魔である。

「やほー秋沢! 悪ぃ悪ぃ!」

 消え行く視界の端で、爽やかな馬鹿が走ってくるのが見えた。

 僕は神の理不尽さを嘆きながら崩れ落ちた。


第三章これも不幸でしょうか?


日は西に沈みかけ、東の空は藍色一色に覆われていた。

 住宅街を貫くアスファルトの一本道は車すら通らず、辺りに響くのは自転車の車輪が回る音だけだ。

 まばらに道を照らす街灯の薄明かりを浴びながら、僕は自転車を押す。

 遠くでは犬の遠吠えが聞こえ、それに呼応するように今度は割と近くで犬の鳴き声がした。

 頼りない街灯の下で周りはあまり視界が利かず、ぽつぽつと点在する家の明かりはなぜか安らぎを感じさせるものがあった。ついでに夕飯の匂いも。

 ……いつから暗い夜道が怖くなくなったのか、いつから母の手を借りなくても不安を感じず歩いていけるようになったのか。分からないな。分かるわけがない。


そして闇の中ににぼんやりと見えてきた我が家に、僕ははあっとため息をついて一旦自転車を止めた。ようやく災難な一日から開放される、そう思えたからだ。

 家に帰ったら、適当に鍋でも食って風呂に入って寝よう。幸い明日は土曜日だ。ゆっくると睡眠をとることができるだろう。

 と思ったその時、星の見えない空から冷たい粒がぽつり、と落ちてきた。

「いっけね、雨だ」

 僕は雨に濡れないよう、少し歩調を速めながら家を目指したが、間髪いれず本降りになり結局は走らないといけなくなる。

 雨はたちまち水溜りを作り、僕の頭や肩にも容赦なく降りかかった。

 うっかり忘れかけていたが、自転車の前かごに放り込んだ宿題も雨に濡れて波打ってしまっている。僕はそれを慌ててブレザーの中へとしまい、せかせかと家の軒下へと飛び込んだ。濡れてへばりついた衣服がひどく冷たい。

しかし一人暮らしなので、僕の外出中家を管理する人間はだれもいなくなる。当然都合よくタオルが準備してあったり、都合よくヒーターがついていたり、都合よく晩飯が出来上がっていたりはしない。そんなことを考えるとついげんなりマイナス思考になってくるが、明日が休みであることを必死でイメージして相殺しておいた。

 ふう、と一息ついて自分の身を見てみれば、長い前髪はぺったりと額に張り付き、制服は肩からズボンの裾までびっしょりになっていて、宿題の分厚い問題集もしわしわだ。

 こんなになるまでして宿題をとりに行かなくても良かったかもな、とうんざり気味につぶやいて、僕は同じくずぶ濡れのママチャリを軒下にに立てかけた。前髪から滴り落ちる雫が鼻を伝って口へと流れてくるのが非常に不愉快だ。

 僕は水を吸って錘と化したブレザーのポケットから玄関の鍵を取り出そうとし、

「……ん?」

 視界の端に何かを捉えた。

 もう日もどっぷりと暮れ、何も見えないはずなのだが、なぜかそれだけがはっきりと見えたのだ。

 慌てて振り返ってみれば、そこには。

 真っ黒に塗りつぶされた狭い庭の片隅に、そこだけ盛り上がった鉛色の影が一つ。

 一瞬植木か草の茂みかとも思ったが、よく見ればそれは木でも草でもなく――


「……人間?」

 思わず口から出た言葉を脳が理解するまでに数秒、さらに視神経から伝わってきた情報を解析するのに約30秒。

 そして次の瞬間、僕は本能的に見て見ぬ振りで玄関に入ろうとしていた。

「いや違う、絶対違う。違う」

 きっと疲れているのだ。そういうことにしようとしたのに、数秒後それはあっさりと裏切られる。

 人の形をした塊がびくっと震え、恐らくはこちらの存在に気づいた。

 向き合った二人の間に流れる沈黙。しばらく雨の音だけが響く。

 そして次第に暗闇に目が慣れ、徐々に現れたのは目を疑うような光景だった。

「女……の子?」

 庭の片隅にうずくまっていたのは、どこかで見た覚えのある少女だったのだ。

 長い髪を地につかせ、ひざの上に頭をのせたまま動かない。

 隣家のわずかな明かりに照らされた少女は、なんとも表現しがたい一枚布の服を着ていて、丸みを帯びた顔を覆う髪は頼りない光を浴びて深緑色の光を放っていた。しかし見た限りひどくやつれているように見える。

 ――そうだ、思い出した。2ヶ月前のあの日あの時、僕の家への半透明の闖入者にして、自分は風の精霊だとかぬかしてた謎の少女。

「た……」

 しばらくの沈黙の後、少女は少しだけ顔を上げ、何かを呟いた。

「……た……?」

「た……すけて」


 ここで無視して玄関に入ってしまっても、いやむしろそうしたほうが良かったのだが、僕は何故か少女を真っ直ぐ見詰めたまま動かなかった。いや、動けなかった。

 考えてもみて欲しい。まず夜家の庭でという舞台設定がどうかしている。そして庭の隅でうずくまっていたのはかなり疲弊もしくは危機的状況の少女である。おまけに外は土砂降りの雨である。これで無感情を保てる奴がいたら紹介して欲しいくらいだ。

 

 僕が比較的正常な思考を取り戻すまでにはかなり時間がかかった。

 そして脳は激しく警笛を鳴らし始める。早く家の中に入れ、早くここから立ち去れと。

 強張った体は何とかその命令を受理し、僕は踵をかえして家の中に入ろうとした。

 と、その時背後からとさり、と音がする。

 振り返ってみれば、少女は最後の力を使い果たしたのであろう地面に横倒しになり、もはや目も虚ろで生命の危機であることは医学的知識がなくても明らかだった。

 

僕は本気で悩み始める。

 地味でフツーで平凡な生活を望む僕にとってはこんなところで面倒事を背負い込むなど御免である。しかしこれは、そんなレベルの問題ではないのではなかろうか。もし家の庭で少女がこのまま死んでしまえば、結局面倒なことになる。庭から締め出すなんてことをすればそれはもう殺人犯にされてしまう。つまり、ここで助けるのが最善の手段なのではなかろうか。

 ――ええい、ままよ!


 気がつけば、僕は少女の体を抱き起こし、とりあえず家の中へと運び込んでいた。あまり筋力があるわけでもないのに、その体は驚くほど軽かった。

 その後、特に何があったというわけでもなかった。

 危ういところを運び込まれた少女は、玄関で降ろしてやったときには既に爆睡していたからだ。

 僕はどうしようか迷った挙句、とりあえず生命の危機は去ったものと判断してその場に放置することに決めた。

 

 僕自身は一睡もできなかったがな。


翌朝午前八時。

雲ひとつない青空には太陽が燦然と輝き、昨日の土砂降りの雨が嘘のようだ。

窓越しの明かりが心地よい。

そして、極度の睡眠不足の原因でもある最大の懸案事項はというと。

「……つか、何なんだよこいつは」

 まだ玄関で爆睡していた。

 意味もなく布団にもぐりこむことにたまりかねて先ほど階下に下りてきたところなのだが、昨日から全く姿勢を変えずに寝ていたものだから思わず呼吸を確認してしまったほどだ。

 どうやら、昨日のとっさの選択は正しかったらしい。

 もしあのまま放置していたら、間違いなく体温低下で死んでいただろう。しかもよりによって家の庭で。

 まあとりあえず命は助けた。あとは必要ならば飯を食わせ、速やかに立ち退いてもらうことだけだ。

 なのに、この様子ではあと半日くらい起きそうにないので僕の脳はがっつんがっつんと痛むわけである。白雪姫のごとき展開を望んでいるわけではないが、ああ早く目を覚ましてくれ少女よ。

 そんな僕の切実な願いが通じたのかそうでないのか、少女がぴくっと反応した。

 おっ、起きるか。

 少女はしばらくもぞもぞと体を動かしていたが、やがて一瞬動きを止めると、

「……くしっ」

 やはり昨日の大雨は堪えたのか、小さくくしゃみをした。

 それが引き金になり、目蓋がゆっくりと開く。

 少女は虚ろな目のまましばらく宙を見つめていたが、やがて完全に目が覚めたらしく、

むくりと起き上がってぱっちりと目を開き、まず自分の身を確認し、やがて辺りを見回し始めた。

 順序が逆だろうとか思っていると、やがてこちらの存在に気づいて小さく整った顔に驚愕の表情を浮かべる。

 今のうちに状況を説明しておいたほうがいいかなと思った僕は、

「ええと、お前は昨日僕の家の庭で瀕死の状態でいたんだ。だからとりあえず家の中に運び込んだ」

 と釈明した。

「……そう」

 その途端、少女の表情はむすっとした怒り顔に変わり、微妙に視線をそらしながらぶっきらぼうに答える。

 今の言葉のどこが癇に障ったというのだろう。

「この家、あなたしかいないの?」

「ああ。父親はもとからいないし、母親は出稼ぎで当分帰ってこない」

 なぜたか分からないが、えらく不機嫌そうだ。

「あっそ……くしゅんっ」

 僕が不安に駆られていると、また目の前でくしゃみをされた。

あの雨の中でずっといれば嫌でも体調を崩すというものだ。

「……服」

 そしてしばらくの沈黙の後、少女はつっけんどんに言った。

「……は?」

 述語を言え述語を。

「替えの服、出して」

 

***


「で、お前は誰でどうして人ん家の庭で絶命しかけてたんだよ」

 母親のぶかぶかのTシャツとジーンズに着替えた少女は次に朝飯を要求し、これは想定内のことだったので僕は即座に昨日の残り物をテーブルにのせ、がっつく少女の前に座っていろいろと質問を繰り出してみた。

 それに対して少女は鼻をぐずぐずいわせながら答える。

「私は風の精霊だよ? ……へぶしっ!」

 そして僕が呆けるのと同時に派手にくしゃみをする。

 さっきからずっとこんな感じ。二言三言しゃべるたびにくしゃみをぶっ放し、話の合間には必ず鼻をかんでいるような有様だ。

「うぅ。昨日ので風邪引いたかも」

 どうやらこれを利用してマイペースにひきこもうという魂胆らしい。だがそうはいかねえぞ。

「まずは質問に答えろ。お前は誰で、どうして家の庭にいたんだ」

 自称風の精霊はスプーンをたぐる手を止め、うさんくさそうにこちらを向いた。

「さっき言ったでしょ?私は風の精霊で、いろいろ事情があってあんたん家の庭に落っこちたのよ」

「……あのなあ、ちゃんと質問に答えろよ。本当だったら不法侵入で逮捕モンだぞ?」

 僕は何とか吐かせようと努力してみたが、少女はええそうねとそれを軽く受け流し、

「でも嘘は言ってないよ?」

 と言って再びカレーを黙々と口へと運び始めた。

「……何妄想の世界に浸ってやがる」

 僕がぼそっとつぶやくと、少女はいきなりがたっと立ち上がり、真っ赤になってキレた。

「だから私は風の精霊だって言ってるじゃない! あんたよくもよくも神聖な風の精霊様を侮辱してくれたわねっ!」

 僕はその勢いに気おされて一瞬怯みかけるが、 単なる妄想癖の女なのか、それとも自分は風の精霊であると勘違いしているのかもしれない。そう思った僕は、ちょっと試してみることにした。

「なあ、お前が本当に風の精霊だというのなら、なにか術を使ってみろ。そうしたら信用してやる」

「まだ信じてないんでしょ。いいわよ、証拠を見せてあげる」

自称風の精霊はふんと鼻を鳴らして豪快に前髪をかきあげると、右腕を挙げて

「てやっ!」

と一声鋭く叫んだ。

その瞬間。

びゅうっという鋭いい音に振り返ると、轟音と共に全くの無風だった外が猛烈な風に見舞われ始めた。

彼女が右腕を動かすたび、風は自由自在に向きを変え、まるで糸でもついているかのようだ。

しかも少女の目は……人間のそれではない。赤く鈍く光っている。

風はびゅおおう、とまるで誰かに操られているかのように自由自在に駆け巡り、最後は窓の手前でぴたりと止まってぶわっと僕たちの髪を逆立てた。

「どう?」

自慢げに言う少女。

目からすっと赤い光が消える。

「……」

僕は口半開きのまま硬直せざるを得ず、とたんに恐怖心が沸き起こってくる。

 やばい。こいつは本気でやばい。

「これで私が正真正銘本物の風の精霊だってこと分かってくれた?」

誇らしげに立つ精霊の後ろにはさっき風で飛ばされた空缶が浮いていた。


……いや、飛んでいる。こちらに向かって。……って待てよ。

「あ」

 僕が叫ぼうとした瞬間、それはフルスイングでかっ飛ばされた硬球張りのスピードで窓にぶち当たった。

 ばあん、と派手な音が鳴り響く。

ひい、と叫んで目を塞ぐ僕。

恐る恐る目を開けてみれば、空き缶は見事に窓にヒビをつくっていた。

「……おい。てめえ」

 なんのことはない。今家は極度の資金不足に陥っていることは先に紹介したとおりである。要するに、僕がガキのころおもちゃを振り回して窓ガラスを割って以来二度目のこのヒビを直す資金を捻出するだけの貯金はないのだ。

 金は怖いぞ。風の精霊だろうとなんだろうと、困窮者にとって金と比べれば屁でもねえんだ。

 僕はさっきあれほど恐れていた風の精霊の脳天にパンチを入れてやった。……あ、もちろん手加減はしたぞ。

「いたっ!」

 精霊は頭を抑えてしゃがみこんだが、

「でもこれで私が風の精霊だって信じてくれたでしょ?」

 すぐまるで信じなかったら許さねえ、みたいな口調でにこやかに同意を求めてきた。

 まあ、あんなものを見せられたら信じざるを得ないので僕はうなずきを返してやる。

 少女は誇らしげに「よろしい」とうなずくと、またカレー戦争に戻った。

 僕は黙ってその様子を眺めていたが、やがてもうひとつの疑問が解決していないことに気がついた。

「それで、どうして僕の家の庭にいたのか、本当の理由はなんなんだ?」

 カレー戦争が中断させられたことに不満だったのか、彼女は一瞬顔をしかめてみせたが、すぐにそれは意地悪そうな笑みに変わった。

「そうね、特別に教えてあげるわ」

そんなやけに子供っぽい口調に吹き出しかけたが、なんとか笑いを押し殺す。

少女はもぐもぐとやって口の中を空にすると、咳払いをして話し始めた。

「私は、やってみせたとおり、風を自由に操れる風の精霊よ。普段は風そのものと一体化してるから人間には見えない存在」

こんな非現実的な話をされたら理解しろと言うほうが無理だが、あんな物を見せられたら信じざるを得ない。

「それで?何でその人には見えない精霊がばっちり見えるようになったんですか?」

 僕は動揺しすぎてついついふざけ半分の口調で聞いてしまった。

「……実は私」

しかし彼女はスプーンを置いて口の中のカレーを飲み下すと、一層真剣な眼差しを向けてきた。

「な、何だ」

 こちらも真剣にならざるを得なくなる。

「魔術師に追われてるの」

「……」

「……」

「……は、はい?ま、まじゅつしぃ?」

駄目だ、この子の話は僕の想像力を軽く凌駕している。

「そ。ちちんぷいぷいと呪文を唱えて魔法をかけちゃうその魔術師」

『ちちんぷいぷい』の部分をオーバーアクトで表現しようとする風の精霊。

その指先が机の角にぶち当たる。かなり痛そうだ。

しかも今時呪文に『ちちんぷいぷい』はねえだろ……いや、そうじゃなくて。

「風と一体化するって言うことは、吹き抜ける風の一つ一つが私の体の一部みたいになる状態のことなの。それだとすぐ魔女に見つかるからこうして隠れやすいように人間の形をとったっていうわけ」

「はあ……」

 なんとか話にしがみつこうとする僕。

「……いやそれよりもちょっと待て、魔法って何だ、てか誰だ、どこにいる……ていうか」

「落ち着いて」

慌て出す僕を精霊は穏やかな口調で落ち着ける。

いくら人外相手とは言え外見上年下の少女に落ち着けといわれるのは情けないと考えた僕ははたと口をつぐむ。

「その事なんだけど。その魔法使いって言うのがね、私の風の精霊としての能力を欲しがってたみたいなの」

僕とは対称的に少女のほうは至って冷静なふうだった。やっぱりこの子は精霊だと再認識した次第である。

「風の精霊として能力?」

おうむ返しに聞き返す僕に、精霊は「そ」とうなずいた。

「具体的にはこう、風を操ったり風そのものに溶け込んだりする能力のこと」

実際に指先でひゅるる、と風を起こしてみせるが、僕はあえてそれを制止した。

またへまをやらかすかもしれない。

「それで魔女から攻撃を受けたんだけど、私は風を操るだけの精霊だから魔女相手には勝てなくって……とりあえずこの姿になったからには生活できる場所がどうしても必要で……」

精霊の口調はだんだんと重くなっていく。

「……ちょっと待て、今回は人間の形をとったから見えるようになったんだろ? じゃあなんでこの前も俺の目に見えたんだよ」

 僕はまたもや話の途中で質問を繰り出した。さっきから質問ばかりしている気がする。

「そこが分からないんだよね」

 精霊は一口紅茶を飲むと、首をひねった。

「そもそも精霊って言うのはね、自然から生ずるすべての物に宿っている。私は風に宿る風の精霊だけど、他にも大地の精霊とか()精霊(ルフ)とか水の精霊とか……とにかく自然の全てには一つ一つに精霊が宿っているの」

 ふんふんと頷く僕。いまいち分からないがとりあえず聞いておこう。

「で、その精霊は宿ったものを支配して操る力を持っているの。私だったら主に風を自由に操ることができるし、大地の精霊ならばこの星全てを操っている、といってもいいくらいの強大な能力を持つ」

 むむ……既に理解不能になってきたぞ……ていうかもっと分かりやすい言葉にしてくれ。これではまるで長文読解だ。

「でもその精霊っていうのは自然に溶け込んでるから普通の人間には絶対に見えるはずないのよ。見える人もいるにはいるけど、その人たちは魔術師とか聖人とか呼ばれてるごく一部の人だけ。だからなぜ魔術師でも聖者でもないあなたに私の姿が見えたのかが分からないのよね。今は人間になってるから誰にでも見えるけど」

「な、なるほど」

なんとなくは……理解できたかもしれなくはない。

「……人間を手中に収めながら人間に助けられるとは……屈辱だわ」

 精霊は最後の言葉だけ俯いたままぶちぶちと独り言めいて話した。

 俯いたまま、指先をいじり始める。

 その後訪れる、気まずい沈黙。

しかし不意に顔を上げた時、顔に張り付いていたのは満面の笑顔。何か嫌な予感がする。

精霊は立ち上がって人差し指でびしっと僕の顔を指差し、

「そこで! なぜか私の姿が見えるあなたの所で匿ってもらおうと思ったの!」

「はあぁぁぁ!?」


悪びれることもなく居候宣言。


訪れる沈黙。

悪く思うなって言われても……ていうかなんでよりによって僕の家。何でよりによって居候。どこで間違ったんだ。とっとと追い払わなかったことか。それとも助けたこと自体か。

いや、そんなことより。そうなると、ですよ?

「ああ、あなたにまで被害が及ぶんじゃないかってこと? そのことなら大丈夫」

どうやら表情にめまぐるしい思考が全て出ていたようで、精霊は僕が質問する前に内容を理解したらしい。

「ちゃんと考えがあるから」

誇らしげに胸を張って言っているが、その根拠はどこにあるんだ。第一その魔女とやらには勝てないんじゃなかったのか。

「いや、ちょ、待てって」

「それに」

彼女はまたもや容赦なく僕の話に割り込み、しかし不意に神妙な顔つきになって言った。大きな眼がすっ、と細められる。

「もしあなたに危険が及ぶようならここから出て行けば良いだけの話だし」

「いやそうじゃなくて」

―なんでよりによってこの家に居候することにしたんだ、と聞く前に少女はこっちが疲れるほどはきはきした口調で言った。

「それじゃ、これからよろしくねっ!」

いやいや困る困る困る。

しかし精霊は止めるまもなく勝手に人ん家のテレビを見始める。

出てってくれと言おうとしたら、彼女は不意にこちらを振り向き、

「あ、それと」

と邪気のかけらもない顔でさっくりと言ってきた。

「今日の朝ごはん、全然おいしくなかったよ。もっと料理の腕磨いたらどう?」

「なっ……お前どうせ飯食ったことねえだろ!?」

「そりゃそうよ、誇り高き風の精霊様だもん。でもまずいものはまずいわ」

「……」

 屈辱だった。


第四章


 突如窓から侵入してきた風の精霊。魔女に狙われ、追撃をかわすために人間の形になって隠れているという。その姿になっている限り、身体能力的には普通の人間と変わらない。そこまではよしとしよう。

 その風の精霊が、どういうことか飯と生活物資を要求。おまけに強引に居候の契約をとりつけた。

 僕はまず自分の目を疑い、そこの少女を疑い、この世のすべてを疑って、今はというと。

「どっ……ど、ど……」

 情けないことに。

「どうしてっ……僕がこんなことまでっ……!」

 問答無用で家具を運ばされる奴隷と化していた。

 何があったのかというと、生意気な居候が

「同居するからにはっ! 当然私の部屋くらいあてがってくれるのが常識ってモンよねっっ! つーわけでとっとと一部屋空けなさい!」

 なんてぬかしやがるからである。僕が躊躇っているとこんどは風の精霊らしくオーラをぶわっと出してみせて結局恐れおののいた僕は奴隷と化すほかなかった。

 というわけで二階の和室のひとつを貸すことになり、

「それも持ってっちゃって! あとそれとそれもどっかに運び出して!」

 僕を手なずけることに成功してテンションアゲアゲの彼女は、部屋の隅に仁王立ちして

もともとその部屋にあった本棚やらタンスやらを運び出させ、まるで自分の土地を開墾する農民を眺める地頭のごとくうれしそうに指示を飛ばしているのである。

 タンスなんて一人で動かすのはほとんど無理そうなものまで運べと言うものだから、僕は作業開始早々10分もたたずにすでに汗びっしょりだ。

しかしそんな精霊の姿が自分の部屋をもらって喜んでいる小さな女の子に見えないこともなくて、今更怒る気にもなれな

「んじゃ次。押入れの中も片付けて」

 前言撤回。そろそろ怒っていいよな?

「全部どっかに運び出しちゃってね。私が使うんだから」

「……それがこれから世話になる奴の態度かっ……?」

 僕が怒りの言葉を口に出せば、少女は眉をぴくりと動かし、

「……風の精霊に盾突くとどうなるか分かってる?」

 とトーンを抑えた口調で言うのだ。

 情けないことに僕はそれだけで口をつぐみ、命令どおり黄ばんだ押入れの襖を開けた。

「よしよし、いい子いい子」

「……」

 精霊は僕が命令に従事する姿を見て、満足そうに頷いた。

 どっちが年上なんだろう。

 爆発寸前に煮えくり返る怒りをなんとか押さえつけながら押入れの中を見回せば、中に入っていたのは布団やら家財道具やらタンスやらわけのわからん壷やら。

また地獄の引越し作業をしなければならないのかと思うと、視界がぼやけてくる。

しかし、半ば強制的な命令なので片付けない限り埒が明かないのは確実であり、執念とも開き直りともつかぬ気持ちになりつつ額の汗を乱暴にぬぐい前面をふさぐ布団に手をかけた。

「うぐっ……あ」

 長年干したことの無い布団は湿気を吸いきってバーベルのように重い。

 僕は勢い余って後ろに倒れこみ、撒き散らしたカビでひととおり咳き込み、精霊はその様子を見てくっくっと笑う。ああ、今すぐ追い出してやりたい。

「……あ」

 気を取り直して立ち上がろうとしたその時、後ろにいた精霊が笑うのをぴたりとやめ、何かを見つけたみたいに呟いた。

「どうした」

 痛む腰をさすりながら振り向けば、彼女の視線は大口開けた押入れの一点にくぎづけにされている。

「何か変なモンでも見つけたか?」

 視線を追ってみると、その先には。

「……ねえ、その箱見せて」

 布団の後ろに隠れていた母親のアクセサリーボックス。

「はいよ」

 特に見せてはいけない理由なんて聞いてないので乱暴に掴んで彼女の方へ放ってやる。

 精霊はその場に座って箱を大事そうに開けると、ごそごそとやり始めた。

 時々、「綺麗」とか「すごい」とか感嘆の声が漏れてくる。良かった、とりあえずは休憩できそうだ。

 僕は思いっきり体をひねり大きく伸びをすると、箱の中を注視し続ける精霊のわきにしゃがみこみ、同じように箱の中を覗き込む。

「……ほう」

 僕の口からも感嘆の声が出た。母親は結構おしゃれ好きだった方なのだが、その中に入っていたのは懐かしいというより見たことの無いものばかりで、どれもきらきらと派手に輝いている。働くくらいならこれを売ればよかったのに、と思うぐらいに。

「……凄い。これ誰の?」

 精霊はしばらくしてからふと顔を上げると、こちらを振り向いた。

「母親のだ。結構派手なアクセサリー好きだったからな」

「そう。……確か出稼ぎに出てるんだっけ? 大変だね」

 始めてこいつから労わりの言葉を聞いた気がする。

「あ、誤解しないこと。あんたに言ったんじゃなくて、あんたの母親に言っただけだから」

 落ち込む僕をよそに、彼女は再び手元の箱へ視線を落とし、いろいろとあさりはじめた。

 次から次へと変わったアクセサリーが出てくるので、面白くなって途中から僕も脇から手を伸ばし、箱の中を引っ掻き回す。

「……お」

 すると、中の一つのアクセサリーが目にとまった。煌びやかな飾りの中に混じる、春を連想させるようなピンク色のヘアピン。風の精霊の深緑色の髪によく似合いそうだ。

 後でプレゼントしてやろうかと思ってそれに手を伸ばす。

「あ」

「む」

 二人の手が重なる。

 どうやら彼女もこのヘアピンに興味を示したようだった。

「な、ななな、なん」

 慌てて手を引っ込める風の精霊。

「なにやってんの!? 誇り高き風の精霊様に触ろうなんて生意気なっ! 百年早いわよ!」

 もう死んでるっつーの。

 いくらなんでも慌てすぎだろとか思っていると、どうやら風の精霊は本来の目的を思い出してしまったらしく、

「そ、それより! とっとと押入れの中片付けなさいよ!」

 と僕をせかした。やれやれ、休憩時間終了。

 その後約1時間で部屋の片づけが終わったころには、もう日は暮れかけていたという悲劇。


第五章

 

翌朝日曜日午前八時。

 僕は夢の中でまた寝ていた。

 恐らく夢の中でも寝ることによって無意識のうちに相乗効果を狙ったのだろう。

 なにせ一人暮らしなので、平日こそ目覚まし時計を秒単位で設定して無理矢理起きるものの、休日の起床時刻は一気に長くなる。それからのんびり顔を洗ったり着替えたりしているといつの間にか昼になっていることすらある。

 特に今日という日は、昼前に起きる気は毛頭無かった。

 無かった、のだが。

 僕はなぜか腹部に圧迫感を覚え、ぼんやりと目を覚ましてしまった。

 上に何かが乗っているような感覚。指一本動かせず目を開けるのも辛かったので、あーこれが有名な金縛りかーとか思いつつもう一度寝ようと思い、意識を手放そうとする。

 しかし、その時。

「ぐぎっ!?」

 腹部に先程とは比べものにならないほどの激痛が走り、今度はしっかりと目が覚めた。

 ピントが合わずボケる目で必死に激痛の正体を突き止めようと見てみれば、

「げ……て……てめェ……」

 僕の胴体を死ぬほど圧迫していたのは、思いっきり体重をかけ眉を吊り上げて僕の顔を覗き込む風の精霊その人であった。

「……んだコラぁ!」

 飛び起きて怒鳴ると、精霊はずさっと飛びのき、しかし僕の声に負けないくらいの大音量で怒鳴り返してきた。

「早く起きろっ! そして朝ご飯を作りなさいっ!」

「まだ八時だっ! そして僕の腹時計はまだ夜の12時だッ!」

居候のくせにちょっとは我慢しろこのアマ――と続けようとして彼女の顔を見、はたと口をつぐむ。

恐らくわざとなのだろうが、なんだか裏切られたような顔をしていたからである。

 端から見れば完全に虐待だ。

「分かったよ! 分かったからとりあえずそんな目でこっち見るなー!」

だあああ、と頭をかきむしり、無理矢理布団を跳ねのけて階段をばたばたと駆け下りる。

結局、今日も心身の疲れを回復することはできなかった。

 眠たい目をこすりつつ一階に下りてくると、ひんやりとした空気と柔らかな日差しが心地よい。のんびりとした休日の朝なんていうのはもう何年ぶりだろうか。

 僕は一旦立ち止まって大きくのびをすると、飯を作る前に洗面所で顔を洗ってからだぼだぼのパジャマからジャージに着替え、ソファーに腰掛けて大層ご立腹の精霊の前を通り過ぎ、日の光がさんさんと照りつけてもなお薄暗い台所へと向かった。

「ちゃんと作りなさいよ。風の精霊様にまずいもの食わせたらただじゃおかないから」

 ソファーに座ったまま腕を組み、まるで奴隷を前にした女王様のように振舞う風の精霊。

「あ〜あ、へいへい」

僕はそれに曖昧に返事を返しつつ、冷蔵庫の扉を開いて中身を確認する。

 先日の買い物で約2週間分ほど買い込んできたので、材料は豊富だ。

 そして、自分でもうまいとはいえない料理の腕と風の精霊(なまけもの)の無駄に肥えた舌を考慮すれば新しい料理を作るとなるとこれは一種の挑戦だ。

「よし、決まり」 

材料はジャガイモ、人参、豚肉、玉ねぎその他もろもろ。

……大人しく白状しよう。目指す料理はシチューである。

もし弟か妹がいたならば跳び蹴りが飛んできそうな手抜き料理であるが、そこは許容範囲。新しい料理に挑戦してものの見事に失敗するよりはこちらのほうが千倍マシだ。

「で、魔女っていうのは誰なのか見当はついてるのか?」

 僕は慣れない手つきで包丁を操り、盛大に目に涙をためながら精霊のほうを振り向く。ちなみに感情的になっているのではない、ただタマネギエキスが目の中で猛威を振るっているだけだ。

「ん〜、魔女っていうのはもともと滅多なことじゃ姿を見せないから、全然分からないな〜。でもひょっとしたらさ」

精霊は仰向けに寝ていた体をよっこらせと起こしながら言った。

どうやら僕を起こしに来たはいいが彼女自身まだ眠そうだ。

「もしかしたらすぐ近くで様子を伺ってるのかもしれないね」

本人はさらっと言っているが、こちとら風の精霊にまとわりつかれている上その精霊は魔女に魔法をかけられていて更に追ってくるかもしれないという。その上近くにいるかもとはたまったものではない。

「……はあ」

 何か言ってやろうと思ったが、口から出たのは溜め息。疲れが溜まりに溜まって文句を言う気力も出ない。いつの間にか口から大きなあくびが出る。

「あふ……」

彼女も吊られるように一度盛大にあくびをすると、再びぱたんと座布団のベッドに身を投げた。

 ふわっと空気をはらんで髪がふくらみ、それがまるで真珠のようなあどけない顔にゆっくりとおりていく。

「むむ……」

 僕は本気で悩み始めた。

 追い出したいのは山々だが、どうやら風の精霊というのも嘘ではないらしいし、あの疲れ具合から見ても何かあったのも確かだし、その上外見上は12、3の少女だったりするのだから、追い出すのは余りにも酷だ。……いやむしろそれよりも、自分の料理の腕をけなされたことが我慢ならない。なんとか挽回のチャンスを作らなければなるまい。

「……まあ……少しくらいなら」

 結局僕は諦め、少しくらいなら泊めさせてもいいかな、と思うことにしたのだった。

 僕はリビングでぐてんと横になっている彼女に一番聞きたかった質問を投げかけてみた。

「ひとつ聞きたいことがあるんだが、これからどうするつもりなんだ?」

「ん? ……あ、ええと……」

 座布団を布団代わりに横になっている彼女は、どうやら本当に疲れているようだった。質問を聞いていなかったようなのでもう一度繰り返す。

「だから、これからどうするんだって聞いてるんだ」

「ん〜、とりあえず、魔法使いを倒すことができれば魔法が解けてもとの姿に戻れると思う。だからとりあえずは魔法使いが誰でどこにいるのか突き止めなきゃいけないかな」

 よほど動きたくないのか、風の精霊は向こうを向いて寝たまま微動だにしない。

 僕はひとつ咳払いをすると、できるだけ真剣な口調で言った。

「僕さ」

「何」

 精霊はようやくごろりと寝返りをうちこちらを向く。

「少しくらいなら匿ってもいいかな、と思ったよ」

 

きょとん。


彼女はハトが豆鉄砲を食ったように固まっていたが、やがてびよんと起き上がって再び満面の笑み、人差し指をこちらに向けて

「当然よっ! 恐れ多き精霊様を追い出すなんて言わせないからね!」

 と威勢良く言ったのだった。

 こうして、奇妙な同居生活(ものがたり)は始まった。


***


「ふあぁ……ふ」

 僕は寝不足でがんがん痛む頭を抱え、住宅街の道を軽やかな足取りで歩く風の精霊の後に続く。

 しばらくそうして意味もなく尾行をしていたら、ランニング中の野球部一向にばったり出くわした。

「よお秋沢! デートか畜生!」

 最後尾で威勢のいい掛け声を放っていた高村は僕と前を行く風の精霊の中間辺りで急停止すると、僕に恨みがましい視線を送り込んできた。

『違うから』

 僕が答えると、前を歩いていた精霊も振り返ってそっくり同じセリフを放ち、完璧なユニゾンができあがった。

「くっくっく、照れなくてもいいんだぜ? ……さっさと地獄に落ちろ秋沢」

 高村は不敵な笑みを漏らすと、「じゃっ」と片手を挙げて白い集団に向かって数十メートルの距離を全力疾走していった。今本音が漏れてたような気がしたが、まあそこはそれ。

 高村が完全に去ってから、風の精霊は振り向いて質問をしてきた。

「ねえ、あの人あなたの友達?」

「ああ。馬鹿の高村」

「……馬鹿なんだ?」


精霊は飯を食ってすぐ二度寝に入ったが、昼前には再び起き出し、一昨日と昨日の寝不足を補おうとひとときの安らぎに浸っていた僕は「うりゃっ」と前髪を引っつかまれて無理やり起こされた。……休日は休むためにあるものなのだが、精霊に人間の常識は通用しなかった。

自分が起きたからといって他人もその時刻に起きると思ったら大間違いだ。

まあそれはそれとして本人の話によれば風の精霊が目に見える姿になっている、これは致命的な事態であると思うのだが、目の前をスタスタ歩く少女は至って平静。むしろ元気そうでなにより、と思うのは僕の心の善なる部分。

「で」

 僕は意味もない徘徊に耐えかねて目をこすりつつ切り出してみる。

「どこ行くつもりだ?」

「……」

 精霊は答えない。

 ちなみに昼食はコンビニ弁当で済ませてきた。

 彼女が

「ちょっと散歩に行くからついてきて欲しいな」

とかいうもんだから仕方のなしに付いてきたのだが……どうも当てもなくぶらぶらしているように見える。

「どこに連れてってくれる?」

 風の精霊は長い髪をなびかせて振り返り、にぱっと邪気のない笑顔を作って言う。

「あっ……えっと」 

やはりそうだった。

「お前……さぁ」

「人間の世界を人間の目線で見てみることって今までなかったから、いろいろ紹介してくれない?」

 むむ〜、と意気消沈気味の僕と違い、風の精霊はそれはもう本当にわくわくしている、といった感じの顔をしているし、おまけにスキップまでしているもんだから対応に窮する。

「いや……僕あんまり町に行くこととかないし……紹介なんてできるかどうか……」

 僕はやんわりと辞退の旨を伝えようとするが、わくわくの精霊には届くはずもなく。

「いいよ、連れて行ってくれるだけで。あとは自分で見るから。とりあえずどこか『ここだっ!』て思うようなところに連れてってよ」

「ちょっ、魔女とか何とかが後をつけてるって可能性もあるんじゃないのか?」

 厄介ごとを背負いたくないがための回避手段だが、このことだけは本当に彼女の身を案じる気持ちがあった。しかし。

「だいじょーぶ!」

 ハイな精霊さんはその一言でせっかくの心配をばっさりと切り捨てなすった。

「だいたいこんな町のど真ん中で魔女が魔法を使うと思う?私は思わないな」

「あっ……さいですか」

 もはや抵抗は不可能。僕はいさぎよく諦める道を選び、どこがいいかを本気で悩むことにした。

 なにしろ彼女は風の精霊で、魔女に追い掛け回されているのである。


***


「……で」

 風の精霊は開放感あふれる草地の上で呟いた。

「ここがあなたの選んだ『ここだっ!』て思うとこ……なんだね?」

ああそのとおり、と僕は自らの適切な判断に自己満足しながらうなずく。

やってきたのは我が家から程近い森林公園。

 自称一等地を少し降りたところにあり、ほんの数分で到着してしまう非常に便利な場所である。

 おまけに今日の場合、さすがに休日の真昼間に森林公園で惚けて過ごす暇人はいないようで人影は全くない。好都合といえば好都合だ。

「もっといいところはなかったの? もう少し私の気持ちを察して欲しかったな」

精霊はぶつくさ言っているが、恐らくいろんな面でこれが最善策だと思う。

町へ繰り出そうものなら、あまりに目立ちすぎる彼女の風貌ゆえ一発で魔女に発見されること請け合いである。そして見つかったら見つかったで最悪の結果が待っていることも想像に難くない。

「野草観察でもしてろ。僕はちょっとそこらへん歩いてくるからさ」

僕が缶ジュースを放ってやってから手をぱたぱたと振って遠ざかると彼女はしぶしぶベンチに座って缶のフタを開けた。幸い自分以外の誰も見ていない。……完璧な作戦だ。


ここの森林公園はこのあたりでも一番広く、北と西には桜だの梅だのが植えられた林が広がっている。そして中央部分は土を盛って小高い丘を作ってあり、そこに噴水やベンチがあるといった感じだ。

僕はそのなだらかな丘の周りをぐるぐる回るように歩いていたが、ふと一周するのに何分もかかっていることに気がついた。

「……今まで行ったこともなかったから分からなかったが、ここの森林公園って結構広いんだな」

「……ん? 何か言った?」 

少し辺りをぶらぶらしてから後ろを振り返ってみると、彼女は噴水の近くに植わったサクラの木の下に立って花びらで遊んでいた。

花見の季節もとうにすぎて見放された桜の木たちは、もうどうにでもなれと言っているようにさかんに花びらを散らし、精霊はその花びらを手のひらで掴もうとして腕を上にめいっぱい伸ばしている。そして掴み損ねてよろけては、また降りてくる花びらを掴もうと手を伸ばす。なかなかに扇情的な光景ではあるな、とは思うものの、僕はそれを気の安めにすることはできなかった。昨日の身体精神両面の疲れも溜まっていたし、そもそも波乱に満ち満ちて少しは休みをくれと誰かに言いたいくらいだったからだ。


しかし、最大の原因である彼女は今はそれなりに楽しんでいるようだ。

僕はとりあえず安堵の溜息をつきながらなだらかな斜面を登ると、ベンチで少し休もうと思って丘の頂上付近まで上った。


「……ええと」


 しかしそれからすぐ、計画がとんでもない間違いであったことに気がついてしまう。

 なんと、先客がいたのだ。

 背格好は僕と同じくらいだが、フードのせいで顔までは見えない。ただ、細身な体型であることはどうにか分かった。

 その人は横着にも2人がけベンチを一人で占領し、微動だにせず何かを見ている風でもなく座っている。

「あ、あの〜」

 これは退いてもらわなければなるまいと思っておそるおそる話しかけてみる。

そして気がついた。

 その人間が着ているものは、明らかにメジャーな服装ではなくて……

「ロ、ローブ……って言うのかな? これ……」

 全身を覆うのは黒地に金の彩色が施されたすぐにそれと分かるローブだったのだ。

 僕は少し硬直した後、

「あ……あの〜」

 もう一度話しかけてみる。

 返事はない。深目にかぶったフードに隠れて顔すらも見えない。

 

……ん?待てよ。

 精霊は確かこんなことを言ってなかったか?

『そ。ちちんぷいぷいと呪文を唱えて魔法をかけちゃうその魔術師』

『もしかしたらすぐ近くで様子を伺ってるのかもしれないね』


心臓がばっこーんと跳ね上がる。

おいおいおいおいおい、もしかしてこれはアレなアレ的なアレの如く展開ではないのか!?おおお落ち着け落ち着け自分。

「遅かったね。すぐ気づくかと思ってたのに」

 そんな僕の心の声に呼応するように、今までだんまりを貫いていたローブの人物が口を開く。

「……ようやく見つけたよ」

……間違いない、この声は、女だ。

 いやむしろ少女……?

「あなた……魔女ですか」

 顔が分からないとどうしても敬語になってしまう。情けなさ過ぎる。

「……それ、知ってたんだ?」

 魔女は不敵に口元を歪め、くっくっくと不気味な笑いを漏らす。

……やっぱり魔女だった。最悪の展開である。

「何の用です」

 僕が努めてぶっきらぼうに言うと、魔女はぴたりと笑うのをやめ、「大体予想はついてると思うんだけどなあ」と話し出した。

「簡潔に言おう。君のところにサンプルがお邪魔してると思うんだけど、返してくれないかな? 捕まえ損ねて逃げられちゃってさ。迷惑だったろ?」

「さ…サンプル……?」

 聞かずとも検討はついていた。恐らく……というか絶対に彼女のことだろう。

 そういえば後ろの精霊は何をしているのだろうか。まだ気がついていないのだろうか。

「そう。サンプル。正確に言えば……」

 魔女は僕のさらに後ろを細い指で指し、鳥肌が立つような声で言った。

「君の後ろにいる、あれのことだよ」

「な、何のことだ」

 僕はとっさにしらばっくれた。しかし次の瞬間。

「…………!」

魔女は振りかぶって、ごうっと何かを投げた。

 それはボールでも石でもなく……

「……っ!」

 とっさにかわした僕のギリギリ10センチ、その物体は地面に衝突して……派手に燃えた。

「炎の弾丸。初歩的な魔術の一つなんだけど。……正直、精霊が見える人間がいたなんて驚いたよ。あれが見える奴なんて、だいたい魔術師か死に際の人間ばっかりだから」

 フードの奥の表情は読めなかったが、怒っている風ではなく、かつ笑っている風でもなく、魔女は今しがた火を吹いた右手を凝視する。

 どこからそんな情報を入手したのか。

「外見上普通の人間の君に精霊が見える。これ、結構異常なんだよ。もしかしたら君に何らかの隠れた能力が備わっているかもしれない。でも、それが今使えるわけじゃないだろ?」

 背筋にぞくぞくと寒気をおぼえる。 

 紳士の精神に則ってあくまで彼女を守り通す――なんていう心構えではない。単に恐怖で声が出ない。ついでに体も動かない。

 声が出れば自分の身の安全を確保するためにあいまいにごまかしつつ逃げることができるかもしれないのに、喉も体も強張って言うことを聞かなくなっている。

 

 ……ああもうっ!こんなことになるぐらいなら彼女を無視してでも家に帰るべきだっ

た!


「そっか、渡す気はないんだね。今の君には何の能力もないくせに、あくまであれを持っていたいと思うわけだ。何も奪い取るわけじゃないのに」

沈黙を否定ととった魔女はもう一度右手を掲げ、じりじりじりっ、と手のひらで炎の弾丸を作ってみせる。

「……」

 僕は分かっていながら後ずさりせざるを得ない。

 

……ああはいはいはい、これが魔女の実力ですか。さすがにそこいらの人間では到底及びそうにないですね。風の精霊が負けた理由も良く分かります。

 

 僕が後ろに下がるたび、炎の弾丸を右手にささげ持った魔女もじりじりと間合いを詰めていく。

 そしてついに、背中がブロック塀にぶち当たる。


「邪魔者は消し去る。……できれば人殺しはやりたくなかったけど、こうなったら仕方ない」

 魔女はにやりと――フードで隠していても分かるほどに間合いが近いっ!――笑い、超至近距離から右手で投げるモーションに入る。――まずい、()られる。

 瞬間魔女の右手がごうっと風を切る。手が炎に包まれているかのような光景が――


「……鎌鼬」


 しかし魔女が右手の弾丸を僕に叩きつけようとしたその瞬間。

「あ……!」

「…ちっ」

炎の弾丸は、消えていた。

 あれ、と思って魔女の後ろを見ると、そこにいたのは紛れもなく。

「ふざけた事言わないで」

 指を魔女に向けたまま、低く唸る風の精霊だった。

 釣りあがった目は鈍く赤く光り、もはやそこにいるのは一少女ではない。

「いつまでも追い回して、全てを巻き込んで、何が楽しいの」

 ごうっ、とオーラが立ち上り、長い髪がばさばさと踊る。これが、風の精霊。これが、人ならざる者。

「あれ? もしかしてこいつを庇ってるのかな?」

 それに対し魔女は全く恐れもせず、むしろ挑発的な態度をとっている。

「風の精霊ともあろう君が一人の人間を庇うなんて……堕ちたものだね」

 少女の眉がぴくり、と上がる。


一触即発。

 

「ふふん……!」

 魔女は鼻を鳴らすと、今度は片腕をゆっくりと横に上げた腕を大振りに振りぬいた。

 その瞬間、腕の軌跡が赤い炎の凶器となってまるでジェットのように僕を襲った。

 僕は思わず身を縮め、最期の時を悟って目を硬くつぶる。

 しかしそれと同時に、

「逃げてっ!」

 突如後ろから上がった緊張した声に振り向こうとすれば、後ろ襟を乱暴につかまれてほとんど突き飛ばされるように攻撃の当たらない所へと逃がされた。

 炎のカッターは僕の20センチ左をかすめ、後ろの木に鋭い切込みを入れる。

 精霊は僕の手を乱暴に掴むと、何事か叫びながら信じられないような力でぐいぐいと引っ張った。

 僕は何がなんだか分からないまま全速で走り出す精霊につられて公園の外へと向かう。

僕の手をしっかりと握る彼女の掌が火のように熱い。走っているうちに息が上がり、呼吸をするのも辛くなってくる。しかし止まるわけにはいかない。

 しばらくそうして走り続け、僕らは公園を出て曲がり角を一つ曲がったところでようやく立ち止まった。後ろを振り向けば幸い魔女が追ってくる気配はない。途端に、いままでずっと繋いでいた手がぱっと放される。

 僕が膝に手をついて荒れた呼吸をなんとか直そうとすると、精霊はその場にがっくりと膝をついてふうっと苦しそうに息を漏らした。

「……ぜえっ、ありゃ……何なんだよ」

「……ふうっ、言ってたじゃない……彼女が魔女よ。やっぱり……追ってきたみたい」

 僕が聞くと、風の精霊は声を出すのもやっとという風に答えた。

「……おいおい……あれじゃうかうか外も出歩けないじゃないか」

「そうね……とりあえず帰ろ。ね?」

 

***


「……ごめん」

 図書館からの帰り道。

 精霊は項垂れたままぽつりと呟いた。

「何でお前が謝る必要があるんだ」

 僕が表情を固くしたまま振り向くと、彼女は本当に――本当に泣きそうな顔をしていた。

 少し言葉が強すぎたかもしれない。

「だって……私のせいで殺されかけたんだよ? ただでさえ世話になってるのに……ほんとに、ごめん」

 始めて彼女の口から漏れた、本当のいたわりの言葉だった。

「いや……別にそんなこと」

 しかし一応そう答えはしたが、頭の中は混乱と興奮に満ち満ちて何も考えられるような状態ではなかった。そんな中で唯一あったのは、彼女への恨みだった。

僕の家に入ってきさえしなければ。あの時助けさえしなければ。

そんな言葉ばかりが脳内をエンドレスに飛び交い、僕はそんな錯乱した感情を表に出さないよう努力することで精一杯だったのだ。

そうやって無表情のまま大股で歩く僕がどんなことを思っているのか、精霊には分かってしまったのだろう。ちらりと隣を見やれば、彼女はがっくりと肩を落としたままとぼとぼと僕の後をついてくるだけだった。

そんな姿を見てさえ、なぜか謝罪の気持ちなど少しも湧いてはこない。

 ……それよりも最大の課題はこの後どうするかだ。

 一瞬風の精霊に出て行ってもらえば全てが解決するんじゃないか、という考えが頭をよぎったが、僕はしばらくの逡巡の後それを否定した。

 もしその後彼女の身に何かあったら、僕は後悔するかもしれない。

 理由はそれだけだ。

「ふう……」

 僕は先ほど走ったせいで苦しかった肺を無理矢理楽にしようと深呼吸をひとつし、息を虚空に逃がす。

 ……しかし、ただ一つ分からないことがある。

 何の力も持たない僕を、どうしてあえて力でねじ伏せようとしなかったのだろうか。

「……魔女だって万能じゃないってことなんでしょうね」

 精霊は後ろを振り向いて誰もいないことを確認しつつ呟いた。まだ目は伏せられたままだ。

「……風の精霊を打ち負かしたって言われたら最強だと思われがちだけど、実際攻撃魔法に長けた魔術師なんてゴロゴロいるし。 でもそのほとんどは、他の魔法使いに消されたりとか弾圧で処刑されたりしてほとんどいなくなっているのよ。攻撃魔法はあくまで条件が整わないと発揮できないものが多いから。だからあの魔法使いを過大評価する必要はないわ」


第六章


「くぁ……あふ」

 最悪のバッドデイから一夜明けた月曜日の朝。

さすがに平日は精霊に叩き起こされることもなく、僕は目覚まし時計の音で目が覚めた。

一昨日と昨日の心身の疲れはまだまだ抜けないが、とりあえずは大丈夫そうなのでよしとしよう。

布団を乱暴に畳んで押入れの中に押し込むと、部屋のガタガタの襖を開けた。

部屋を出てみると、廊下を挟んで隣の部屋の襖はまだ閉まっており、中では母親のパジャマを着た風の精霊が爆睡しているはずである。

どうやら昨日ばかりは活発な精霊も身に堪えたらしい。

女の子の寝顔を見るなんていう趣味は特にないので、せっかく寝ている精霊を起こさないよう足音を忍ばせながら階段を降りる。

途端に冷たい空気が身を包み込んだ。

もう四月だというのになかなか暖かくしてくれない怠け者の高気圧を恨みつつ、洗面所へと向かう。

「あ……えーと、お、おはよう」

「よお、起きたか」

顔を洗ってから朝食のトーストをのんびりと準備していると、精霊が起き出してきた。

彼女は僕が先に起きていたことを知って露骨に眉を潜め、ダイニングの入り口に仁王立ちしたまま不信感丸出しの視線を浴びせてきた。

「……あんた、私が寝てる間なんかしてないでしょうね」

「いや、何もしてないが。つーかなんか(・・・)って何だよ。それが生産性ゼロの居候が言うセリフかおい」

 精霊は僕の返事を聞いて更に眉を吊り上げると、ずかずかと入ってきてふんっと鼻息荒くテーブルに腰掛けた。昨日の殊勝な態度はどこへ行ったのやら。

 僕は肩をすくめ、焼きあがったトーストにバターを塗りたくり、適当にベーコンやら目玉焼きなどを載せて食卓に出す。

「……いただきます」

 精霊は出された朝食を睨み付け、眉間にしわを寄せていかにもしぶしぶといった感じで

皿を引き寄せると、まるで唐辛子が入っているのを見つけたかのようにじっと固まっていたが、諦めたように口に運ぶ。

「ってなんだ、毎回思うんだがそんなにまずいか? 僕の料理」

 にわかに凹みつつ尋ねれば、精霊はもぐもぐやっていたトーストを飲み下し、

「なんというか、いまいち使えない」

 と僕の顔を見つめながら言った。

「は? ……てなんだそれ、もしかして僕のことかおい! 要するに答えるに値しないほどまずいと! そう言いたいんだなこの野郎!」

 むきー、と牙を剥くと彼女は「さあどうかしら」と軽く受け流し、さも不味そうにトーストを頬張ったのだった。

 ――そして、登校の時刻。

「いいか? 外には何があっても絶対に出るなよ? それからやたらと騒ぎ立てるんじゃねえぞ?」

 僕は玄関先で精霊に向かって長々と約束事を並べ立て、一応の帰宅時間についても告げておいた。

 魔女が精霊の場所を発見できる能力を持っていたとしたらアウトだが、そうであると言う確証はどこにもないので最低限の対策は施しておこうという訳だ。

 眠たそうな精霊は僕の言葉を黙って聞き、最後にゆっくりとうなずいた。

「じゃな、行って来るぞ」

 若干というかかなり不安な要素盛りだくさんだが、だからといって学校を休むのも馬鹿らしく、結局こういった方法をとるしかなかった。ガードマンでも雇えれば話は早いのだが。

 とりあえずおざなりの対策を施し、家の鍵もきっちりと閉め、学校の宿題を持ったところで施しようの無い不安な気持ちはぬぐい切れないが、僕はそれを振り切るように路地をせかせかと早足で歩き、大通りに出たところで大股歩きに戻った。

 精霊は魔法使いを過大評価するな、と言っていたが、どの程度魔術を身につけているのかなんて知ったことではない。もしかすると、こんなちゃちな防御では到底及ぶものではないのかもしれない。

しかし、こうするしかない。

 これで大丈夫だと思ったから……なんて言えば嘘になる。本当は違う。

 本当は、自分を優先した結果だ。要するに、少女の身よりも自分の学業の方が大事だと思ったのだ。正直言って風の精霊をそこまで真剣に保護するつもりはない。所詮僕の平凡な生活への闖入者でしかないのだから、勝手にいなくなっても構わない。心のどこかでそう思ったからだ。だから、あえて本格的な対策をしようとはしなかった。

 僕はまあ大丈夫だろ、と考えを中断して顔を上げてみると、前を行く人の背中に思わず息を詰まらせる。

 目の前に、憧れの人が、いた。

 もうそれだけで心臓は跳ね回って体が熱くなり頭が真っ白になる。

僅かに残っていた不安の残滓はまるで水が蒸発するように完全に消し飛んでしまった。

 

***

 

そっくりいつもどおりの、退屈な授業。

高村に

「どうしたーっ! 目の下にクマ作って! もしかしてもしかしてなのかこの野郎!?」

 と意味不明に高村怒鳴り散らしていた以外は特に変化があるわけでもない、ありきたりの日常。

 僕は昨日の出来事を綺麗さっぱり完全に忘れ、意味不明な高村の相手をしたり、厳島さんに話しかけられてテンパったり至って普通の一日を過ごし、そして長い一日が終わって放課後を迎える。

「……というわけで今後学級活動の一環として……」

 影が薄すぎる学級委員(名前はまだ知らない)がいろいろ高校生らしい過ごし方だの今後の学級の活動についてだのを長々と話し、そのほとんどを聞き流して挨拶の後は「遅れる!」と叫びながら全力疾走で廊下を駆ける高村に続いてさっさと下校した。

 今日の夕食は何にしようか、などと考えながら自転車を軋ませ、長い坂を汗をかきながら上る。

 その急傾斜の坂を登ってしまえば、もう我が家は目と鼻の先だ。

 ギアを2段に入れたまま気合で坂道を登りきり、道路が平らになるといきなり足が軽くなる。

ようやくはあっと一息。

 土日に十分な休養をとらなかったせいか、心なしか足も重い感じで、玄関の前に自転車を止めようとしたときに思わコケそうになったが何とか持ち直し、自転車の鍵を閉めると代わりに玄関の鍵をブレザーのポケットから取り出して玄関を開ける。

 がらりと玄関の引き戸を開けると、古い木造家屋の臭いが鼻をついた。16年間嗅ぎ続けてきた、我が家の臭い。

 僕はスニーカーを乱暴に脱ぐと、ワックスのはげた板張りの廊下に鞄を下ろしてリビングへと向かった。

「……あれ」

 しかし入り口で、足を止めてつぶやく。

 電気がついていない。

 本当なら彼女が電気をつけていてくれるはずなのだが。

「……あのバカ、どっか行ったのかな」

 何の感情も持たずにそうつぶやくと、僕はとりあえずリビングを明るくしようと部屋を横切り……

「良かったあ! ……ぎゃあっ!」

 何か得体の知れないものがいきなり飛び出してきたかと思うと、僕の足につまづいて派手にすっ転んだ。

「ちょ、おまっ、なっ」

 とりあえず部屋の隅のほうへ駆け寄って電灯のスイッチを入れてみれば、そこに浮かび上がってきたのは……

「……」

「……」

「……何やってんだ、お前」

 仰向けに転んだ体勢のままこちらを見つめる風の精霊の姿だった。

「……」

「電気もつけずに何やってたんだって聞いてんだよ」

 ジト目で睨んでやると、精霊はしばらく視線を泳がせた後

「もうっ!」

 といきなりキレた。

「電気のスイッチがどこにあるのか分からなかったのっ!」

「だったら大人しく自分の部屋に戻ってりゃいいものを」

 飛び起きて叫ぶ彼女を頭一個分高い位置から見下ろして覚めた口調で切り返してやれば、精霊は「あ」としばらく固まった後今度はなぜか顔をわずかに高潮させ、

「い、いろいろあったのよ! それより晩御飯とっとと作りなさい!」

 と叫びつつ素早く後ろに回って僕の背中をぐいぐい押してきた。

「……変な奴」

 僕がぼそっとつぶやくと、彼女は今度はふてくされるように

「ほっといてよ、もう」

 と答えただけだった。

「っていうか、いきなり出てくるなよな。驚いて心臓発作でも起こしたらどうするんだよ。……ったく」

 僕はぶつくさ文句をつけながら鞄を乱暴にソファーの上に放り投げ、洗面所に向かう。

「心配……してたんだよ? 途中で魔女に会わなかったかとか……いろいろ」

 精霊は背を向けた僕の背中にか細い声で呟いた。

「僕の心配をするより、まず自分の心配をしろ」

 肩越しに振り返ってきっぱりと言うと、彼女は今度こそ完全に黙り込んだ。

 その時、どこか寂しそうな目をしていたのは――多分、勘違いだろう。


***


 翌朝午前――待て、目覚ましはまだ鳴ってないぞ……?――?時。


「で……でででっ!」

 激痛と共に目が覚めた。

「ってーなあ……おわっ!?」

 思い切り跳ね起きて目を開ければ、眼前にはニヤニヤ不気味な笑みを浮かべながらと僕の前髪をぐいぐい引っ張る少女の顔があった。

「……聖一くん……作戦決行の時は今だっ! とっとと起きて準備済ませちゃいなさい!」

 ニヤニヤ笑いを絶やさぬまま意味不明な言葉を喋くる風の精霊。

 どうやら先に起きだして僕を叩き起こしに来たらしい。つーか人の部屋に勝手に入るな。

「何だってんだ! ……まだ五時半だぞ! ごーじーはーん! お休み!」

 枕もとの時計を乱暴に掴んで見てみれば、時刻は5時半。

……昨日より二時間半早くなってる。

 昨日の精神的疲労のおかげで、どうしようもない計算をしてしまうほど今頭はスリープモードなのにまさかこんな時間に起こされるとは。

 僕は躊躇う間もなく仰け反るようにして布団に逆戻りし、頭まで布団を被ってタヌキ寝入り。

「聖一くん? 朝ごはんは?」

「……ぐぅ」

「……」

 そして少しの沈黙の後。

「ぐあっ!?」

 下腹部に更にレベルアップしたこれでもかというぐらいの衝撃が走った。



「いってえ……ったく、お前は漬物石かよ!? 盲腸にでもなったらどうすんだ!」

 憮然としつつ腹いせに大根を思いっきり刻んでやる。

「作戦を決行するっつってんでしょうが。それとさりげなく人を傷つけないこと」

 風の精霊はぽこんと頬を片方だけ膨らませ、腕組みをしてふんぞり返ったまま飯を待っている。手伝いもせず。

 ちなみに着ている服は母親が残していった飾り気ゼロのジーンズにセーター。

 一度たりとも服を勝手に出していいなどと言った覚えはないが活動的な服は長い深緑の髪によく映える……ってそうじゃなくて。

「用事があるつったって部活無所属なのに五時半に起こすほうがどうかしてるっての! こちとら死活問題だってあーあーあーすいませんでしたー!」

 僕が反論しようとすれば、精霊は指先をこすり合わせてひゅっ、と鋭い風を起こして見せる。――恐らく威嚇行為だろう。そうだと信じたい。

「ほらほら、ぐずぐず言わず朝ごはん作ってよ」

 ……はじめて彼女の生意気な一面を垣間見た僕である。

「むっ……」

 一瞬料理に何か混ぜてやろうかとも思ったが、先日の一件での貸し――といっても自分で思い込んでいるだけかもしれないが――もあるし、なんとなく躊躇した。

 そうそう、先日といえば。

「……で? これからどうするんだよ」

 魔女に追いかけられて本気でヤバい目にあったのだ。何の対策もほどこさないのはさすがにまずいだろう。

「大丈夫!」

 しかし当の彼女は、こちらが真剣に話しているというのに万事問題ナシ!的な顔をしていた。

「大丈夫! じゃねえだろ。魔女に追っかけまわされただろうが」

 ……本当にこいつは自分の身の上を分かっているのだろうか。

ほとんどみじん切り状態の大根を鍋にぶっこむ。

「ああ、そのことね。ちゃんと考えてあるから気にする必要は無いわ。もし逃げられなければ私自身が戦うまでのことよ」

 風の精霊はそう言いつつ指先をこすり合わせ、小さな実体のないカッターのようなもの

――これを鎌鼬と言うのだろうか――を生み出してテーブルの上のりんごを綺麗に真っ二つにしてみせた。

 ……大丈夫なんだろうか、本当に。

「……もうちょっと心配したほうがいいんじゃねえの?」

僕がため息混じりにそう言うと、顔をあげた彼女と視線が合った。見つめたら吸い込まれそうな、景色を映しこんだ深緑色の瞳に思わず動揺してしまう。

 動揺を隠すため……なわけではないが、にんじんをこれまたみじん切りに近い状態に切り刻んでゆく。

「心配したってどうにもならないでしょ?」

 精霊は椅子に座りなおすと、頬杖をついてもっともな正論を述べた。

「まあ……そうなんだが」

 適当に味噌を投入。

 ……大人しく白状しよう、作っているのは味噌汁である。

我が家では材料は全て目分量(てきとう)が基本で、それでもまあまあの出来にはなるのだが、他人に手料理を食べさせるのは初めてなのでどうなるのかはある意味賭けである。

「……」

そんな僕の手を風の精霊はだらしなく頬杖をついたまま目で追っていた。

無垢な瞳で見つめられると余計に緊張してしまい、目分量で材料をぶっこんだことを既に後悔し始めていた。やっぱりまずいよな、これは。


そしてしばらくの沈黙。


ほの暗いキッチンに、すととととと、と味噌汁の具を切り刻む規則ただしい音だけが響き渡る。


 材料を全て切り終わると、せめてものせめて焼き魚くらいはきちんと焼かねば、とトレイをチェック。

「あ」


……だが既に焦げていた。


「うあちちち!」

 慌てて取り出そうとしたら、汁が手にはねた。災難。

思わずリビングのほうを見つめると、精霊はこちらには全く気づいていないようでまだ眠い目をこすったりしている。

それだけ見れば可愛げのある一少女にしか見えない。今でも時々錯覚にとらわれる。

まあ見られなくて一安心。

 

……いや待て、この焼き魚改め魚型の炭は果たして食卓に出せる代物であろうか?


「うん、やっぱりそうよ」

丁度そのとき、風の精霊は唐突にぽんと手を叩いてテーブルに身を乗り出してきた。

「……どうした」

そして水道水で手を冷やす僕が顔を上げるのを確認してから、やけに明るい声で言う。

「あなたには一体化したときの姿の私も見えるんでしょ?」

「まあ、そう……だったんだろうな」

「だったら魔法を使えるわ。そしたら魔法使いに対抗できるよ」

「……へ?」

 いきなり言われて思わず声を裏返らせる僕。

 とうとうおかしくなったかと思ったね。

「だからさぁ、言ったじゃん? 私は普通の人には見えないんだって。見える人は魔術師か宗教関係者だけだって。だから、多分気づいてないだけであなたは魔力を持つ――つまり魔術を使える――人間じゃないか、って思うの」

 前にも同じような言葉を聞いた気がして記憶を手繰ってみて、魔女もそんなことを言っていたのに気がついた。

……ああそうか、これは冗談なのだ。二人とも僕をからかおうとして言っているのだろう。

「無理だろ」

 自分的にツッコミも兼ねて即答してやる。しかし彼女はまるでそれがボケではないかのように首を振って語りだした。

「無理なんかじゃない。……と思う。本来魔力の塊である精霊が見えるということは普通その人が魔力を待ってるってことなのよ」

 どういう『普通』の概念かは知らないが、僕が魔法を使えるというなら今頃世界は魔法の国に変貌を遂げているだろう。当然僕はそれを本気とは考えなかった。もしなにか間違って魔法が使えるようになってしまったら、今すぐ右手に握った包丁をまな板ではなく自分に向ける。

「とにかくやってみなきゃわからないわ。もしかしたら魔術に目覚めるかも」

 しかし彼女はあくまでどこまでも真剣らしかった。おいおい。

 そして僕が半ばうんざりしかけてため息をついたその時。

「というわけで、こうしちゃいられないわっ! 行くわよっ!」

「どこに! つーか学校! 間に合わねえっつーの!」

「なーにをぶつぶつ言ってるんだか! そのために早く起こしたのよ!」

 いきなり立ち上がって僕の袖をひっつかみ出陣せんとす精霊の士気の前には、朝飯などどーでも良かったのである。はた迷惑なこった。

 まあ炭を食卓に出さずにすんだだけいいことにしよう。


***


「そんで、何をしろと」

 風の精霊に強引に連れてこられたのは近くの山。

 緑に覆われており、なだらかで標高が低いので子供のころはよく遊んだ場所であり、

 山のところどころにある木々のない開けた場所で、僕たちは並んで立っていた。

いったいこんなところに来て何をしようというのか。

「精神統一、無我無心」

「いや、分からん」

「魔力の開発よ。トレーニング」

「はあぁ?」

 どうやら彼女は僕が魔法を使えるようになると信じて疑わないらしい。

 なんだか訳もないのに罪悪感がするぞ?

「普通の人間が魔法なんか使えるかよ! しかもどうやって鍛えるのか分かったもんじゃねえ」

 僕が反論しようとすれば、

「鍛え方?そんなの簡単よ。精神統一、無我無心!」

 風の精霊はすでにやる気、右手をぶんぶん振って顔はほんのり高潮している。いやそこまでやる気出さなくていいから。つーか意味分かんねえ。

「いやそれが分からねえっつってんだろうが。なんかアバウトなんだよお前の話は」

「何よう何よ何よ何よ、魔女に勝ちたくないわけ? あんなに馬鹿にされて黙ってるほどプライドのない奴だったのあなたは!?」

「プライドくらいあるっ! だがまずはその穴だらけの説明の補足をしろ」



――つまりはこういうことらしい。

 精神を魔法にだけ集中させ、ほかの事は一切考えないようにする、と。

 魔力を持つ者はたったそれだけで火を起こしたり風を操ったりできる。

 あとは根気と気合。ただそれだけ。……てなんだそりゃあ。

 しかしここで魔法なんてできんと反発したところで何も変わらないのは事実であり、初っ端からあきらめでもしたらいたたまれなくなること受けあいだ。


「………………」

 つーわけで。


 僕は一人山の中で手首を凝視……ではなく魔法を使えるようにしようと(無駄に)頑張ってみることしたわけである。普通に考えてこんなんで魔力が使えたら今頃日本の歴史は怪しげな魔導書と化しているはずだが、はっきり言ってどうにかしないとまずいことになりそうな予感満載なので今は藁にでも何にでも縋っておこう。

 まあ正直なところ、ありえないものを見すぎたせいで脳の回路はサビサビのバラバラ、もしかしたら僕も魔法を使えるのかもなんていう淡い期待を抱くほどにショート&断線しまくっていた。そもそもにしてモノホンの精霊を見ちまった時点で僕の人生の羅針盤の針はぶっ飛んでいる。今や幽霊船に成り果てるまでだ。……えいもうどうにでもなれ。


「………………」

 それにしても。

「………………」

 無理だよな、やっぱり。

「こらあっ! 諦めるな! まじめにやれっ!」

 視界の端から精霊の怒号が飛んでくるが、力んで火が出れば世話はない。

「………………」

 当然手から炎が生まれたり、目から熱線が出たり、魔法らしいことは何一つ起きない。

 どうやら僕の頭も視覚野まではいかれていないようだった。魔法使いに転生せずに済んでほっとするべきなのか、後々のわが身を案じて落胆するべきか、どっちにすればいいんだろうな。

 こんな無駄なことをするより、一度家に帰って朝飯を食って他の方法を探したほうがいいのではなかろうか。つーか学校。

「……無理だろ」

 僕は中止の旨を伝えるべくため息をつきつつ後ろを振り返った。

 やはり無理だ。自分には何の力もない。たとえ2メートル先に精霊がいようとも、ただの人間はただの人間でしかないのだ。

 しかし彼女は自分の言葉に何らかの確証があるらしく、頑なにそれを拒んできた。

「そんなはずない! 精霊が見える人間には何らかの力がなきゃおかしいの!」

「いや、そんなこといわれても」

 精霊はもいっちょ!と激励の言葉をかけようとするが、その時、

『ぎゅるるる……』

 と、どこからか朝飯を抜きにした音が聞こえてくる。

「しょ、しょうがないわね、また後で特訓するわよ!」

 精霊は腕を組みつつ耳の先まで真っ赤、ぶつくさと文句をいいながら帰宅の許可をおろしたのだった。


 風の精霊は家に着くまで終始不機嫌を貫いていた。

 なにもそこまで怒ることもないじゃないかと声をかけようと思ったが、「話しかけてくんな」的なオーラを四方八方に散らしている彼女にあえて話しかけようとは思わず、僕も微妙な距離感のまま家までの道のりを帰ってきたのだった。


「……なあ、ほかに方法はないのか?」

 僕は玄関の取っ手に手をかけたまま、精霊のほうを振り向いた。

「…………」

 風の精霊はそれに対しては何も答えず、ただ首を横に振る。

「……もしかして、最初に言ってた『考え』っていうのはこれのことなのか?」

 今度はこくりとうなずく。

「……実力行使ならいけるんじゃないか?」

「魔女は全ての属性の魔法を操れるから……」

 情けなくため息をつく風の精霊。

「……どうすりゃあいいんだよ……」

 僕は額に手をやると、ぼそっと独り言を言った。それはほとんど彼女への問いかけではなかった。

 それからしばらくの気まずい沈黙。

 最初からどうもできないことは分かっていたのだが。やはりいざもう手段が無いとなるとさすがに堪える。まるで魂が抜け出たように、体がだらりと弛緩する。


 二人は動きを止めたまま、しばらく立ち尽くす。

 その後、精霊は何かを決意したように顔を上げ、こちらを透き通った瞳で見据えた。

「もういいや。……出てく」


そしてまたもや沈黙。

 今度のはさっきとは雰囲気の違う、気まずいというか、話しづらいというか。そんな静けさだ。


 風の精霊はじっとこちらを見たまま動かない。

 僕もまた、驚きと動揺を隠しきれず硬直する。

 

数秒経ってからようやく僕はひきとめようと声を上げかけたが、彼女の細い人指し指が僕の口を塞いだ。

「もう迷惑かけてられないし。……それにほら、やっぱりあなたは普通の人間だったし」

そしてしばらく躊躇うように口をつぐみ、悲しそうに微笑む。しかしその口から紡がれたのは耳を疑いたくなるような一言だった。

「苦しみもなくいなくなれるなら、それはそれでいいじゃない」

 空気が凍りついた。

「……は?」

 信じられない言葉に思わず聞き返した。

 風の精霊がすっと視線をそらす。

 何を言っているんだ。

「どういう意味だよ」

「魔女に魔力をとられたら、もう殺されるだけでしょ。それはそれでいいんじゃない? ……ここにいれば逃げ切れると思ってたけど、そうはいかなかったみたいだし」

 

驚いた。


 こいつは元から、自分の命の重さなど無に等しいと考えていたというのか?

 

「……なんでだよ。自分の命が大切だと思わないのかよ」

 思わず指を振りほどき、風の精霊をきっと睨む。

「もう生きてても何も面白いことなんかない。私は長く生きながらえ過ぎたの。何万年も何億年も生きてきたけど、もう誰も私にかまってなんかくれない。それに、私が風を操るたびに、人間は私に文句ばかりつけてくるし……私だって完全に制御しきれるわけじゃないのに。……いい潮時じゃない?」

 彼女の瞳は、哀しみも、怒りも、死に対する恐怖も込められてはいなかった。ごく普通に周りの景色を映しこむ、無感情な、瞳。

 

 許せない。

 父親を亡くして涙に暮れた僕の中学校時代を、踏みにじった。

 僕がどれだけ悲しみ、辛い思いをしたことか。

 どうせ分かりっこないのだ。相手は精霊なのだから。

 ……でも。


「ふざけた事言ってんじゃねえよ」

 僕には、怒りをぶちまける他に方法はない。

「分かってねえくせに死ぬとか言ってんじゃねえよ。俺には分かるぞ。どれだけ辛い思いをしたって、孤独に苦しんだって生への願望を捨てなかったからな。でもお前には分からねえんだよ。ただ単に一人だから死ぬとかほざくなっ!」

 一方的に喚き散らす僕。

 しかし風の精霊は反論しようとも逃げようともせず、ただ僕を無感情な瞳で見据えていた。

 そして最後に一言。

「それだけ?」

「なっ……」

「たかが十何年しか生きてないあなたに、何万年何億年と孤独を味わった私の気持なんかが分かるわけない。あんただって本当は私なんかいないほうが良いと思ってるんでしょ。あの時に――魔女に襲われた時に、分かったのよ」

 精霊はそれだけ言って背を向けると、

「迷惑かけてごめん。じゃね」

 と捨て台詞を残して走り去った。

「じゃねって、おい!」

 僕が慌てて引きとめようとしたときには、

 もうすでに彼女の姿は路地の脇に消えていた。

「……」

 僕は追いかけようともせずしばらく呆然と扉を見つめ、自分がひどい罪悪感に駆られていることを悟る。

 

悪いのは風の精霊のほうだ。生を生として考えない精霊が悪いのだ。

 はっきり言って、このことだけは許せない。 


 僕は頭の中の自分に言い訳をしながら家の中へと戻った。

 別に共にいてほしいなんて願ってるわけじゃない。そんなわけじゃ――


第七章


「ういっす!」

無駄にテンション高い挨拶に今日ばかりはほっとしながら振り返れば、野球馬鹿&親友の高村がぴんと右手を上げていた。

「ああ、おはよう」

僕が挨拶を返せば、後ろから軽やかな足取りで厳島さんがやってきた。

「わー、遅刻しちゃう! おはようっ!」

「ちわーす! 恭子センパイっ!」

 高村はノリノリでふざけた挨拶をかます。

 

喧騒に妙な安心感を覚える月曜日。


 風の精霊と決別した。よりによって週の初めの朝に。

 ……でも、あれでよかったのだ。元から帰ってもらうつもりでいたのだから。それに、いつまでも泊めておけばいずれ近所にバレて大騒ぎになるのがオチだっただろう。だから、良かったのだ。

 僕は朝の出来事を思い出してつい足を止めてしまったが、無理やり腹に力を入れなおし、足を踏み出す。忘れよう。

 いいのだ。もうなるようになればいいのだ。

 もうあんな奴など放っておけば良いのだ。

「どうしたの秋沢くん? 元気ないみたいだけど」

 僕がよほど心配されるような顔をしていたせいだろう、先に行っていたはずの厳島さんがいつの間にか心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

 かの人の整った顔が至近距離にある。

「ん……何でもない」

 しかし、不思議とその時だけは取り乱すこともなく自然に答えることができたのだった。

「どうした秋沢っ! 保健室行くか? 救急車呼ぶか? それとも霊柩車かっ?」

 傍を歩いていた高村までもが、肩を激しく揺さぶって乱暴すぎる気遣いの言葉をくれる。

 最後の言葉は気になるが、幸い土曜日の件を突っ込もうとは思っていないようだ。そのほうが騒ぎを大きくしないですむから有難い。

「どうしたんだよ二人とも。僕は何でもないってば。いつも通りだって」

 心配する二人に半ば押しのけるようにとりあえずその場を取り繕い、僕は教室へと向かった。正直言って今はあまり話したいような気分じゃなかった。

 自分に喝を入れて無理やり登校してきたが、今日はどんなに休みたかったことか。

 他人に本気でキレたのが初めてだったからというのもあるが、やはり気になるのはあの後風の精霊がどうなったかである。

「自分は風に宿る精霊」と豪語していたとおり、あの後風はそよとも吹かなかった。もしかしたら……という最悪の予想が頭をよぎる。

 僕はそんな考えを振り切るように早足で廊下を歩き教室に飛び込んだ。

「……」

「……」

「おはよ……う?」

 しかし、何か今日は様子がおかしい。 

 クラスメイトたちが、なにやらごにょごにょと囁きあっている。

 聞き耳を立ててみると、その内容は……

「……おい聞いたか? 森林公園の怪奇現象」

「ああ聞いた聞いた。桜の木がまっぷたつって話だろ」

「なんか黒いローブ着た奴がいたらしいぞ」

「それって俗に言う魔法使いって奴なんじゃねえの? 俺は信じないけどあんな切れ方普通じゃあり得ないっしょ」

 そんな噂話に、僕は身を固くせざるを得ない。

 早く忘れてしまいたい出来事なのに、なぜか誰かが指示しているかのように思い出してしまうことばかりがある。

 僕はそんな他人には絶対に分からない怒りと哀しみにじっと耐えつつ、かばんを開けた。

 宿題はきちんと入っていた。これくらいの幸せがなければ泣く所だ。

 

***

 

 僕はそのあとの授業をまともに受ける気にはなれず、さっさと終わればいいと教師の頭めがけて念じ続けた。しかしそんな時にかぎって時が流れるのは遅く感じられ、精霊の身を案じようとする頭を否定し続けるしかなかった。

 そしてようやく迎えた下校時刻。

 事態は急展開をみせることになった。


 僕はこれ以上の人との接触が嫌になり、さっさと家に帰ることにした。

 机の中を引っ掻き回し、宿題も忘れずに放り込む。

「ねえ」

そうしてさっさと荷物をまとめて帰ろうとしていた僕の後ろから、声がかかった。

 忌まわしげな目で振り向けば、そこに立っていたのは仰天するほど意外な人だった。

「ちょっと……いいかな」

 僕が驚きのあまり動けないでいると、伏目がちにごにょごにょと呟いたのは艶やかな長い黒髪を持つ少女――厳島さん。

「も、もちろん……いいけど……どうしたんだ?」

 この人だけは例外。断る理由なんてない僕は、無理矢理明るい顔を作ってからしっかりとそちらを向きつつ尋ねた。

「ええと……ここでは話せないから……倉庫裏に来てくれる?」

 なぜかやたら言いづらそうなのが気にかかるが、僕は素直にそれに従い、厳島さんの後ろに続いて倉庫裏へと向かう。


「……ええとね」

 亀の如く倉庫の影から顔だけ出して人目がないことを何度も確認した厳島さんは、ようやくこちらに向き直り、少し間を置いてから話し出した。

「一つ、言っておきたいことがあるんだけど」

「……何?」

 厳島さんは何度か口をぱくぱくと動かした後、もったいぶってゆっくりと言葉を紡ぐ。

「私が何を言っても……騒いだり、誰かに言ったりしないって約束してくれる?」

「もちろん」

 即答する僕。

 黒髪の少女は、しばらくもじもじと手を動かした後、ひとつ深呼吸をした。

「……実は、ね……私……そのぅ……魔女、なのね」

「……へっ?」

 

一瞬思考が停止する。


「もっと言うと……一昨日あなたたちを襲った魔女も私」

 何を、言っているんだ……?

 僕は、もしそれが本当にそうならば逃げなければならないというところまで思考が及ばないほど驚き声も出せなくなる。

「な、……何て?」

「だから……私は、一昨日あなたたちを襲撃した魔女本人。風の精霊を捕獲する機会を窺うために女子高生に化けて日本に潜んでいたの」

 そして更に頭が真っ白になっていく。

「ど、ど、ど……どう……して……?」

 かろうじて喉から出てきたそんな言葉に、厳島さんは目線を合わせないまま話し始めた。

 それはついさっきまでの優しげな言葉ではなく、魔女らしい冷徹な口調だった。しかし、僕の精神が作用していることも原因の一つではあるだろう。

「私は今では世界に数えるほどしかいない魔女の一人。魔力の塊である風の精霊を捕獲して風の制御をこの手に取り戻そうと思う」

 魔女は淡々と衝撃の事実を伝え続ける。

「魔力の……塊っ?」

 僕はもはや考えを巡らせることさえできないまま眼前の少女を見つめ続けるしかなかった。

「そう。そして今の風の精霊の問題点は、人格をあまりにも人間に似せすぎてしまったせいで、あまりに気まぐれすぎる風の操り方をするからなんだよ。そんなのを放置してたらどうなるか分かるだろう? たぶん人間はずっと風の猛威に苦しめられ続けて、風のせいで泣き、風のせいで死に、風のせいで滅びることになるんだよ。そんなの嫌だろ?」

 僕はだまってゆっくりとうなずく。

 もう何がなんだか分からない。

「だからあれを倒して、風の制御を再び私たち魔術師の力によってできるようにしようと思う。……決して私の我がままなんかではなくて、これは人間たちのための仕方のなしの決断なんだ」

 あくまで淡々と話し続けていた魔女は、そこで一旦話を切り、ふうっと深いため息をつく。

 そして冷淡に、ゆっくりと、まるで脅しをかけるように唸る。

「だから、もうあれからは手を引いてくれないか。後の処理は私に任せればいい。……それを拒むならば、君は残念ながら死ぬ、ことになる」

 ぼくがしばらく動けないでいると、厳島さんはこれで話は終わりだと言わんばかりに背を向け、長い黒髪を揺らしながら去っていった。

 

 僕は必死に思考を巡らせる。

 ――風の精霊は魔力の「塊」。

 ――魔女は今まで風を操ってきた風の精霊を倒そうとしている。

 ――魔女は……誰だ。


 誰だ。誰だ。誰だ……誰、なんだ……?


 僕は思わず立ち尽くしたまま空を仰ぐ。

 風の無い曇天に答えは見出せなかった。


第八章


「よお秋沢!今日6時からゲーセン行かないか?」

 教室に戻ってみると、高村が一人でユニフォームに着替えながらそんな危険なお誘いをしてきた。ぱーっと遊んで気分を晴らしたいのは山々だったが、僕はあえてその誘いを断り、逆に聞いてみた。

「……なあ、高村。もし僕に、好きな人がいるとして」

「わお、秋沢も好きな人いるんだ。青春だねえ、うけけ」

「っ……その人が僕の知人に危害を加えようとしているとして、僕が首を突っ込めば殺される恐れがあるとき、僕はそれを止めに入るべきだと思うか?」

 僕がそう言うと、高村は口をぽかんと開け、目をしばたかせる。そして、よりによってこいつに馬鹿なことを言った、と後悔し始めるころようやく口を開いた。

「変なこと聞くなあ、お前」

 その言葉は僕の言葉が本気で言っていることとは当然思えないのだろう、半分笑いながらだった。

「正当派の答えとしては『そんなのに関わる必要は無い』だな。自分の命が第一だ」

「……そうだよな。やっぱり」

僕は頷くと、「じゃな」と適当に挨拶をしてそそくさとその場を去ろうとした。そうだ。もうこれ以上絡む必要は無い。魔女も目的を達すればさっさと女子高生なんてやめて帰るだろう。もう関わる必要もない。

ないったらない。


 だから、高村から次の言葉を投げかけられたとき、僕はかなり驚いた。

「でもな」

 そして、振り返って彼の顔を見たとき、更に驚いた。

 彼は……笑ってなどいなかった。

「……何だ?」

「俺が言えた事じゃないが、その人が行動を起こすのにも動機があるだろ? 何もなしに人に危害を加えるわけが無い。もし本当にその人を好いているなら……それに、その知り合いだってお前のことを大事に思ってるんじゃないかな。お前にまで危害を加えたくないから、あえて巻き込まないんだろ。だったら、助けてやればいいじゃないか? もちろん死なない程度にな」

「……」

 再び声が出なくなった。

 呆然と自分の顔を見つめられているのをどうとったか、高村は満足げに頷くと野球帽を目深に被った。アホ面ヘタレ高校生からバリバリの野球部に変身だ。

「じゃ、今日も学校の醍醐味に行ってくるぜっ!」

 高村はびっと片手を上げ、廊下をだだだっと駆けていく。

 僕はそんな親友の背中を見つめ、一人悪態をついた。

「……ったく……どいつもこいつも……」

 ちぇっ、と舌打ちをし、だらしなく背を丸め、ポケットに手を突っ込む。

 

 すると、ポケットの中をまさぐっていた右手がなにかひんやりとした硬いものをつかんだ。


 なんだろうと思って出してみる。

 それは、ピンク色でシンプルで、なおかつ控えめに優しげな感じを醸し出す――風の精霊にあげようと思ってとっておいたヘアピンだった。

 

 ふと、あの時のあたたかな手の感触を思い出す。

 ふと、自分を気遣って泣きそうだった顔を思い出す。

 ふと、昨日自分が帰って来たときに見せたおかしな挙動を思い出す。

ふと、迷惑をかけたくないから、と言った寂しそうな仕草を思い出す。

 高村は言った。大事に思っているから、巻き込んだりしないのだと。

 今、その言葉によって、全ての疑問は、今一つにつながった。

 

 僕は、ずっと勘違いをしていたらしい。


 ……風の精霊は、一見何も気を使ってないように見えて、本当はいつも気を使っていたのだ。

 でも僕はそれに気づかずに、冷たく接して、ただでさえ傷ついていた彼女を絶望のどん底に追いやってしまっていた。そうして彼女も最後まで僕のことを信じずあえて溶け込もうとしない態度を貫き、迷惑がられているのだ、ここにいないほうがいいのだと自分を責め続けて出て行った。

僕も嫌々付き合ってやっている振りをして、本当は嬉しかったんだ。

 孤独で寂しくて、もう気が狂いそうだった時に転がり込んできた少女。驚愕しつつも、心のどこかは最高に嬉しくて楽しくて。

 それでも、何も助けなかった。何もできなかった。……いや、何もしなかった。

「……この野郎!」

 誰に向けて放たれた訳でもない暴言を吐きながら、全速力で走り出す。

 勝手すぎるとは思うけど、間に合って欲しい、今からでも助けてやりたい、と心の底から思いながら。

風の精霊のため、と言ったら嘘になる。なぜなら、全て自分が孤独にならないため、自分が楽しむためだからだ。

 不純な動機と言われたらそこまでけれど、僕は自分の行動を止めることはできない。

 どこへ向かうかなんて分からない。だけど、僕は走るしかなかった。

 何かしないと、自分が見えない毒に侵されて腐ってしまうような気がして。

 息も切れ切れになりながら、走る。

 走って、走って、走って、もう前も見えなくなる。

「くっ……」

 喉がひりひりと焼け付くようだった。

足ががくがく震えて、今にも転んでしまいそうだった。

どの道をどう通っているのかさえ分からなかった。

その代わり頭を支配していたのは。

「どっ……うして」

 自分はこんなに馬鹿で鈍感で自己中心的なんだろう。

 出会った時だけ驚いて、助けを求めて来たのに散々渋って、どんなときにもびくびくして助けることなんかしないでただ足手まといになるだけで、最後は自分の考えを立場も状況も違う相手に押し付けて。なんて馬鹿なんだろう。

 そんな激しい痛みと自責の念に耐え切れず足を止めて辺りを見回すと、いつの間にかそこは学校じゃなく芝生と桜の生える開けた場所――

「森林、公園、か」

 息を切らしながらつぶやく。

 僕はごくり、と息を呑むと、錆び付いた低い柵を助走もつけず飛び越え向こう側に着地して一直線に走り出す。

 今日も相変わらず森林公園に人の気配はない。

 手入れが行き届かず伸び放題の草に足をとられながら、公園全体を見渡せる小高い丘の上に登る。

「……っ」

 そして僕はそこで見た光景に絶句し、間髪入れずに悲鳴を上げる足を引きずって走り出す。

「あいつ……!」

 ベンチに小柄な人影があった。

 ストレートの長い深緑色の髪。見覚えのある灰色のセーター。見間違いようも無い。

 ゆっくりこわごわと前に回ってみると、力なく座り込む見慣れた顔が目に飛び込んできた。

 僕はもう一度ごくりと喉を鳴らすと、正面から一歩、また一歩と近づいていく。

 怒っているだろうか。恨んでいるだろうか。それとも――

 いや、そんなことは関係ない。

自分の罪は自分で償うしかないのだから。

 一度立ち止まってから、もう一歩。

 まるで地獄のカンダタが地上を目指して糸を手繰り寄せるように、少しずつ。

 しかし彼女は、僕が50cmの距離に近づいても気づかない。

 僕は深呼吸すると、恐る恐る、ゆっくりと、その細い肩に手を伸ばす。

 軽く前後に揺すってみると驚くほど頼りなくて、危うく倒れそうになったところを支えてやると彼女はゆっくりと顔を上げた。

「……おい、僕だ。気づけよ」

 僕が肩に手を置いたまま呼びかけると、

「……なんで?」

 風の精霊は虚ろな目つきで僕の顔を見つめてきた。

「朝のことは……悪かったよ。……帰ろう」

それから一瞬はっとした表情になり、

「駄目。……こんなところにいたら魔女に見つかるから」

 今度はしっかりと意志の宿った瞳で首を横に振った。

「そうだよ。だから、帰ろう。帰って晩飯食おう」

 右手を差し出す。

「駄目だってば。どうせ家に閉じこもっていたっていつかは見つかっちゃうよ。それに……ほんとは迷惑だと思ってるんでしょ。私なんかいないほうが良いって、そう思ってるんでしょ。私分かるもの」

 僕はしばらくしてから上げた右手を下ろし、代わり彼女の旋毛の上辺りに無造作に掌を置いた。

 精霊はぴくっと体を震わせて瞬きをすると、上目遣いに僕を見上げてくる。

「……失くして初めて分かったんだ。僕には、お前が必要なんだよ。自分勝手だと思うかもしれないけど、お前は迷惑なんかじゃないから。お前は僕にとって、必要な存在だから」

 微妙に視線をそらしながらそう言うと、精霊は「え」と一瞬目を見開いた。

「……でも」

 精霊はなにか口を挟もうとするが、僕はそれを遮って更に言葉を重ねる。

「昨日だって、本当はもっと何かできたはずなのに、あんなことしかしなかった。命狙われてる時も策なんて何も考えてなかった。気づいてなかったんだよ。ごめんな、謝る。だから帰ってきてくれ。何も気にする必要なんかないから」

「……そんなの、駄目だってば」 

それでも精霊は、頑なに拒んで首を振る。静かな口調は、いつしか悲痛な叫びになる。信じたいのに信じられない。信じてはいけない。長い記憶の中で得た教訓は、そう簡単には捻じ曲げられないのだろう。

「……私は……あなたのことが……信じられないからっ……!」

「……」

 僕は頭の上に置いた掌をすとんと下ろした。

 何も言えなかった。

 やっぱり僕は人の心が分からない鈍感な人間なのだろう。

 望むものなど何一つ手に入れられない、不幸な人間なのだろう。

 二人の間に沈黙が流れる。

「……そうさ。もうそれのことはきれいさっぱり忘れてしまったほうがいい」

 その時だ。背後から不気味な声が響いたのは。

僕は、その不気味で鳥肌が立つような口調に一つだけ心当たりがある。

「……魔女かっ!」

 弾けるように僕が叫んで振り向くのと同時、魔女はローブのフードをずらし、

「……哀れな奴だね、秋沢君」

 見知った顔をにやりと歪めてそう言った。

 

 第九章


「はあっ……はあっ……っ!」

 何回目かの攻撃。

 得体の知れない雷のような塊は、とっさに避けた僕の数十センチ前で爆発して派手に電光を散らした。ひっ、と心の中で悲鳴を上げた瞬間、体から力が抜けて無様にもその場にへたり込む。

「逃げるだけかい? わざわざ警告を無視してまで来るくらいだから何か持ってきてるんじゃないかと思ってたけどどうやら丸腰のようじゃないか。拍子抜けするね」

 魔女は今しがた雷を放った右手で宙を切ると冷酷な口調を保ちつつ嘲りの笑みを浮かべ、

「じゃ、そろそろ実力行使といかせてもらおう。そこをどいてくれ、秋沢。もう一度だけ生存のチャンスをやろう」

 よろよろと立ち上がろうとする僕を押さえつけるように右手を前に突き出してしばらくその姿勢のままになった。恐らくは返事を待っているのだろう。

「……なんでだよ」

 震える声で怒りをぶつける。

「……理不尽だろうが。人間の僕には生存のチャンスをやって、精霊は問答無用で抹殺かよ」

 魔女は一瞬ぴくりと眉を動かすと、

「前にも言ったはずだ。あれは単なる魔力の塊なんだよ。性格のあるロボットみたいなものだ」

 やや語尾を強めて答えた。

「それが殺していいって言う理由にはならないだろうが……! 平気で人の命弄びやがって、ふざけんな!」

 命がいかに大切かは身にしみて分かっているつもりだ。そこから来る怒りだけが僕の体を動かす原動力だった。

全身に力を込めて無理矢理立ち上がる。それから、そろそろと魔女と精霊の対角線上に移動した。

「死にたくなければ、そこを退()け」

魔女の口調がより一層厳しいものになる。

「ねえ……もういいから! 早く逃げて!」

 後ろから風の精霊の緊迫した声が届く。

 あの時と同じだ。

 しかし、唯一つ違うことがある。

 僕は大きく息を吸うと、滅多に出さない大声を腹の底から搾り出した。

 僕の覚悟は、もう決まっているのだ。

「良くなんか、ないっ! 僕は! 何が何でも! 絶っっっ対に守り抜いてみせる!」

 大げさすぎるセリフだって事は十二分承知だ。

 なにしろ、今の自分にはハッタリをかますことぐらいしかできないから。

 でも、例えハッタリでも戦力になることは確かだった。

「……ふん?」

 魔女は、本気で分からない、といった感じに首を傾げる。

「どうして……!」

 精霊が小さく息を呑む。

「どうしても、だ!」

 僕はとりあえず魔女を真正面から見据えると、とりあえず昨日裏山でやったように構える。様になってないとは思うが、演技という点での効果は抜群だったようだ。

「……? まさか、魔法を使えるとでも言うのかい? 一般人が? ……そんな馬鹿な、冗談じゃない」

 魔女は今度こそ完全に落ち着きを失くしてあからさまに狼狽し、僕はその隙に後ろを振り向いて精霊に必死の視線。早く逃げろ、と。

「……駄目」

 しかし、精霊は俯いて首を横に振った。

 どうして、と肩越しに睨みつけると、もう視線を合わせようとはせず、項垂れたままぴくりとも動かなくなった。

「……ふむ。所詮はハッタリか。すっかり騙されていたよ」

 僕の心が徐々に絶望の色に染まり始めたころ、おろおろしていた魔女も丁度冷静を取り戻し、右手の掌で雷を順調に育てていた。

 もう駄目だ、と本能が悟る。結局自分は何もできないのではないか。そうして何一つ望みを達せぬまま消えていくのだろう。

「……死ね」

 刺すような短い言葉と共に、やけにゆっくりとしたモーションで腕を大きく振りかぶる。

 僕はせめてもの足掻きで空しく両腕を構えてみせる。絶望と諦めから全身に全く力が入らない。

「……くそっ!」

 自分を非難すると共に全身に力を入れなおす意味で叫び声を上げる。

「……?」

 と、その時全身を妙な感覚が襲った。

 熱いような、寒いような、全身が溶けて流れるような、頭から崩れ落ちていくような、この感覚は何だ。

 しばらくすると、その感覚はやがて指先へと集まり始めた。

 驚いて見下ろしてみれば、自分の小さく構えた右手の先には――

「なん……だと?」

 魔女が手を止めたまま目を見開いて驚愕の表情を浮かべる。

「嘘……! 本当に?」

 風の精霊までもが驚きを含んだ声を上げる。

「……マジかよ!?」

 そして当の本人が最も混乱して思わず声を裏返らせる。

 指の先には触っただけですっぱり切れそうな小さな竜巻――としか言いようが無い――がびゅんびゅん唸りながら回っていたのだ。

 魔術。

 その二文字が瞬時に頭の中に浮かぶ。

 未だに信じたくはないが、それ以外には考えられなかった。

 魔術が、絶対に使えないと思っていた魔術が、使えるようになった。

 全身全霊の力が指先に集まっていく。

目が霞んでくる。音が聞こえなくなる。気が遠くなってくる。

薄れゆく意識の中で、僕はほとんど本能的に駆け出していた。

目の前の敵に向かって一直線に。風を切りながら、右手に抱えた竜巻を思いっきり叩きつけるために。最後の望みを掛けて。

最後に、誰かの悲鳴を聞いた気がした。

 

***


木目調の目隠し板が敷き詰められた天井。

 ほとんど水平に差し込む春の夕日。

 布団に寝かされているのだということを悟る。

 上半身を起こそうとして体のあちこちに鈍痛を覚え、体をよじって再度ばふんと布団に身を横たえる。

 僕の家だ。

 何時だろう、と思って入り口の上の壁の掛けてある時計に目をやると、ちょうど5時を回ったところだった。

 どうしてこんなところで寝ていたのだろう、と考えようとしたが頭は完全にスリープモード、何も考えることはできない。

 ただ、なぜかがらんとした空虚な気持ちが僕の心を満たしていた。

 何かを失ったような、望みや希望があっけなく絶たれてしまったような、寂しさと絶望を含んだ辛く痛く苦い気持ちだった。

 とりあえず夕食の準備でもしようか、と両手をついて無理矢理立ち上がり、ふらつく足で廊下へ出た。

「ああ……そうか」

 そこで思い出す。

 向かい合った隣の部屋には薄暗い闇が満たされ、そこには家具の一つすら、人影の一つすらない。6畳の部屋は昨日まで『彼女』が使っていたところ。でも、今はもう必要ない。

「……はは……やっぱり、な」

 思わずぽつりと呟く。

 やっぱりそうなのだ。

 金の無い骨董収集家がたった一つの壷を大事に大事にするように、孤独のなかで出会った彼女はもう手放せなかった。でもそれが無理矢理引き離されて、僕の心は道路に転がったセミの抜け殻みたいに惨めでガラガラだった。

 はあああ、と長い嘆息を吐き、みし、みし、と階段を下りる。

 最後の一段を踏み外しかけ、危うく手すりに掴まって踏みとどまって廊下を裸足で横断し、ダイニングへと向かう。

「さて……と、今日は何にするかな……」

肉じゃがか。

 それとも白身魚か。

 はたまたハンバーグ……いやもしくは……

「カレーライスがいいな」

「カレーライスなら土曜日に食っただろ……て、え……っ?」

 足を止めて、凍りつく。凍り付いて、油の切れたロボットみたいにぎしぎしと後ろを振り返る。

 四人がけのダイニングテーブルの丁度反対側に傲慢に腕を組んで胸を反らしているのは紛れも無く。

「な、ど、ど、どうひ」

 思わず噛みまくる僕のセリフに割り込むように、どこか不機嫌そうなそいつはぶっきらぼうに答えた。

「魔女。あんたの攻撃でケガして逃げてった」

「な」

「それより」

 まるで僕の返事を聞きたくないかのようにセリフを重ねてきた風の精霊は、不意に口ごもってから少し声の調子を落としてごにょごにょと独り言みたいに呟いた。

「……どうして、あんたは私をかばったりしたわけ? 放ってくれれば良かったのに」

 僕は少し悩んでから、

「お前の物言いが許せなかったから」

 自分の犯した罪の償いに、とは言わず、代わりにいった言葉も更にぼかしをかける。

「……どうして?」

 彼女は今度は怒ることはせず、本当に分からない、といったふうに首を傾げた。

「……必要じゃない奴なんて、この世界には一人もいないんだよ。お前の事だって、必要だと思ってる奴はいくらでもいるから。それに、……まあなんだ、こっちもいろいろ迷惑かけたしな。それよりお前こそ、なんでその場で立ち去らなかったんだよ」

「……あなたが庇ってくれたのを、無駄にするわけにはいかないと思って」

 僕が答えて逆に質問してやると、精霊は少し躊躇ってから、ぽつりとそんなことを言った。

「それにもう死ぬ理由もないもの。だって、生きてるうちで初めて私を本気で考えてくれる人に出会えたから。……私ね、あなたのことを信じても良いかな、って思ったの」

 思わず振り向くと、彼女はこちらを見つめたままふと顔をほころばせた。

「ごめんね……ありがと」

 写真に撮っておきたくなるような、最高の微笑だった。

「こっちこそ。冷たくして悪かった。それに僕がここにいるって事は、お前が運んできてくれたんだろ? ありがとうな」

 僕も一応礼を言うと、精霊はなぜかそこでふっと視線を逸らし、わずかに頬を赤くしながら答えた。

「……うん、まあ、それはそう。って、それより! 魔女は私のことまだ諦めてないみたいだし、もう少しいさせてもらうわよ。私は風の精霊なんだから駄目だなんて言わせないからね! それともっと料理の腕を磨くこと!」

 急に無愛想モードに切り替わって僕を激しく攻め立てる。

 へいへい、と曖昧に返事をしつつ台所に向かい、戸棚からカレールーを取り出す。

 もちろん作る料理はカレーライスだ。……なにしろ簡単だから。

 でも折角なので今日はちょっと手の込んだ作り方をしてやろうかと思って激辛カレーや具沢山なども考えてみるが、時間かかるしやっぱりオーソドックスが一番っしょ、と思い直して冷蔵庫を開き、必要な食材をごそごそと取り出す。

「……?」

 と、その時背後に人の気配を感じた。

 慌てて振り返ってみると、そこには風の精霊が腕を組んで仁王立ち、微妙に視線を合わせぬまま

「……あんただけじゃ不安だし。……私も手伝うから。ちゃんとしたの作ってよね」

 と呟きながら僕の横に並んで冷蔵庫からいろいろなものを取り出し始める。

 手伝う……?こいつが?あんなに手伝おうとしなかったこいつが?

「もっとテキパキ動きなさいっ!」 

精霊はしばし呆然とする僕に軽く延髄チョップを入れながら、驚異的な手際のよさで材料を洗い始めた。

「……なんかとてつもなく嫌な予感がする、が」

 僕は口の中でつぶやき、バレない程度に肩をすくめると調理台の前に並んで立ち、一緒ににんじんやらジャガイモやらについた泥を洗い流す。

 こんなのも悪くない、とちょっとだけ思った自分が情けなくもあった。

 多分これからもいろいろと大変なこともあるだろう。もしかしたら、今日みたいな命懸けなことがしょっちゅうなのかもしれない。

 もしかしたらそのたびに気絶しなければならないのかもしれない。

 でも、楽しい生活の代償と彼女を助けるためだ思えば安いものだ。

 

***


 翌朝学校に来た僕は、憧れの人改め強敵の魔女が何事も無かったかのように学校に来ていることを知り、背筋に凍りつくような感触を覚えた。

 しかも僕にさえいつもどおりに接してくるものだから、なんだか全力で逃げたい気分になってくる。

 姿を変えているのは分かっていても、魔女なのにこれがまた可愛いからタチが悪い。

 気がついてみれば結局僕は初めての恋心をあっけなく潰されてしまったわけだが、なぜだかそれほど悲しい気分にはならなかった。

 昨日あれほど真面目なトークかましていた高村も全力熱血バカに回帰し、表向きはすっかりいつもどおり。それでいい。それだけでいい。

 

 ちょっと傲慢で我がままで、それでいて優しくて親切な、ある精霊の、物語(ストーリー)


あとがき


 初めて小説を書いたのですが、想像を絶するほど疲れました。

 途中で何書いてるか分からなくなって全文読み返し……

 プロットの詰めが甘かったせいで身がちぎれるほど苦しんでやっと書き上げてみれば三月も半ば……

 その割には内容がてんでバラバラ、テーマも分からず暴走する猪の如くに(泣

 そして次回はしっかりプロットを作ってから書こう、と誓った午前九時四十分。


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