ただいま
あたしはフラれてしまったけれど、そう簡単には諦めきれなかった。
クリスマスにお正月、節分にバレンタイン――力の見せどころはいくつもある。料理下手なあの人との差を埋めるチャンスが。
先生はあたしの気持ちを心配して、別のアパートを借りることも考えてくれたけど、それはきっぱり断った。全然平気なわけじゃないけど、離れる方がつらい。それに、同じ部屋で暮らしている以上、顔を合わせないわけにはいかないという、この環境を利用してやろうという考えもあった。こういうの、なんて言うんだっけ。背水の陣?
長谷川さんにあたしの魅力を思い知らせて、やっぱりここにいてくれないか、毎朝みそ汁を作ってほしい、なんて考え直してもらえることを期待しつつ、心を込めて料理を作り続けた。
だけど結局、思いは届かず。
春の温かさと冬の冷たさが交じり合う今日この日、あたしはめでたく卒業式を迎えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「……じゃあ、水渡は向こうの短大へ行くのか」
式が終わったあとで、沖大志と少しだけ話をした。古井河先生に思いを寄せていた、顔はいいけど若干ストーカーっぽいところのある男子だ。
「うん。家から近くて調理の勉強ができるところ」
元父の一件のあと、あたしは改めて卒業後の進路を決めることになった。お母さんと、それから新しいお父さんとも話をして、自分のやりたいことや興味のあることを見つめ直した。
そうして思い浮かんだのが料理だった。
あたしにとっては家事の中のひとつでしかなかった料理だけど、三人ぐらしを始めてからは、食べた人に喜んでもらえるのが好きなんだって気がついた。短い間だったけどバーで働いたときに自作の料理を出してみて、それがなかなか好評で、あたしって実はけっこうデキる子なのかも、って調子に乗ってしまったこともある。
料理のための努力や工夫は苦にならなかったし、好きなことなら続けられる気がしたのだ。
「すごいな、水渡は」
沖君は卒業証書入れの筒をもてあそびながら言う。
「何それ、嫌味?」
「なんでだよ」
「沖君は大阪の大学でしょ? しかもそこそこレベルの高いところ」
「いや、俺はとりあえず勉強して受かったところへ行くだけで、水渡みたいにはっきり目的があるわけじゃないから」
沖君は廊下の窓に背中をあずけた。
あたしもその横に並んだ。意味深な関係に見られたくないから、間は1メートルほど空けてある。
「そこそこレベルの高い大学へ行けるってことはそこそこ勉強してるってことだから、その努力は自覚した方がいいと思うけど」
「でも俺、水渡にテストで一度も勝ってないんだけどな」
「テストの点で人の価値が決まるわけじゃないでしょ」
「ある程度の指標にはなるだろ」
「そうね。でも、それに頼りきりになるような、見る目のないやつにはならないでね」
数秒ほど待っても返事がないので、どうしたのかと隣を見ると、沖君はぽかんと口を開けていた。顔の良さが台無しになるくらいの間抜け面だ。
「……何その顔」
「いや、なんか、言うことが古井河先生っぽかったから」
「うげ……、やめてよ」
一緒に暮らしていたせいで言動が伝染ったのかも。それを嫌がっただけなのに、沖君は何かを勘違いしたのか、あわてて手を振った。
「いや、違うぞ、別に水渡が先生に似てるとかそういうんじゃないし、俺はもう先生のことは振り切ったんだ」
「そう」
「あー、じゃ、じゃあ、後輩に呼ばれたからもう行くよ。同窓会とかやるだろうし、また会おうぜ」
「ん、さよなら」
そうして、解消することすら忘れていた同盟関係が終わった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
元バイト先を訪れて、元上司の榊原主任に声をかけた。
「ああ、水渡か。ご卒業おめでとうございます」
取って付けたようなお決まりの祝辞がおかしくて、つい笑ってしまう。
「ありがとうございます。いろいろとお世話になりました」
普通にお礼を言っただけなのに、主任の視線が鋭くなる。
「そうだな、いろいろあったな」
嫌味な物言いにも、あたしは反論ができない。
「その節は、本当にどうも……」
後で聞いた話だけど、元父との一件では、主任がいろいろと手を貸してくれたらしい。実際、バーでのバイトが見つかっていなかったら、長谷川さんが異変に気づくのも遅れて、下手をすればもっと大変なことになっていたかもしれない。
でもそれは、本当は、あたしを気にかけてくれたんじゃなくて――
「主任ってもしかして、長谷川さんのこと」
「――あの珍妙な生活も、もう終わりなんだろ?」
主任はこちらの言葉にかぶせるように聞いてくる。
「あ、はい、母のところへ引っ越します」
「そうか」
「あたしはアパートを出ますけど、センセがどうするのかは知りません」
こっちから聞くのも癪だから、その話にはまったく触れていない。
榊原主任は「チッ」と舌打ち。
「そうか、まあ、達者でな」
「はい、榊原主任もお元気で」
まだ話し足りなかったけど、仕事中だったし、ちょうどお客さんが来てしまったので、それがお別れの言葉になった。サバサバしてて、とても榊原主任っぽい。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そのあと、クラスの卒業パーティに参加した。それなりに楽しんで、それなりに別れを惜しんで。合間合間に、青葉からひっきりなしに送られてくるメッセージに返信したりして。
2次会を断ってアパートに戻ると、夕飯作りに取り掛かる。最後の夜だからこそ、いつもどおりに過ごしたかった。その気持ちを察してくれたのか、長谷川さんも先生も自然体だった。
この先もずっと同じ日々が続いていく。
そう勘違いしてしまうくらいに普通の夜。
部屋の片隅で膨らんだボストンバッグだけが出立のサインだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、かなり早く起きたつもりだったのに、ほとんど同時に長谷川さんも起きてきた。
寝ぐせのついた髪の毛を直そうと、頭を撫でつけながらあいさつしてくる。
「やあ、おはよう」
「……おはようございます」
さわやかな朝にはふさわしくない、低い声。不機嫌が声に出てしまった。
「どうしたの、眠いならもう少し寝てても」
「最後の朝食なんだから、あたしが作ろうと思ったんです」
「奇遇だね、僕もだ」
しばらく見つめ合っているうちに、ナイスアイデアが浮かんだ。
「……じゃあ、一緒に作りましょう」
手狭な台所に二人並んで、最後の朝食に取り掛かる。
長谷川さんが冷蔵庫を開けて、食材や調味料を取り出し、台所に並べていく。その動きを横目に見ていると、数か月前よりもずいぶんテキパキしてると思う。
「料理、ちょっと上手になりましたよね」
「え? まだ何も調理してないんだけど」
「手際を見ればわかります」
「そうかな」
「はい。無駄のない動きは熟練の証です」
「そうか」
と長谷川さんが屈託なく笑う。
「……そういえば、最初の夕食で、古井河がステーキを焼いたのを覚えてる?」
「あー、あれ、すごく手際が良かったですよね」
あたしもあれを見たときは、美人の上に料理まで上手だなんて、とやっかんでしまったけど。
「実はステーキ以外がからっきしだとは思わなかったなぁ」
「見掛け倒しなところがありますよね、センセって」
「はは……」
長谷川さんは曖昧に笑いながらお皿を3つ並べると、添え物のレタスやミニトマトを綺麗に盛り付けていく。
「動きに無駄がないとは言いましたけど、長谷川さんもまだまだです」
「手厳しいなあ」
「とにかくレパートリーが少ないですし」
スライスハムの袋を開けて、食べやすいサイズにカットしていく、その包丁さばきもスムーズだ。
「確かにまだ水渡さんのようにはいかないね。レシピを見ながらじゃないと、とてもとても」
「お料理動画を参考にしたらいいですよ。レシピ本よりもずっとわかりやすいですから」
「今度、試してみるよ」
続いてキュウリ。トントントン、と刻む音の心地よいリズム。
「あと、好き嫌いも直さないとです」
「もしかして納豆のことかい? あれはちょっと勘弁してほしいな……、って、水渡さん、さっきから手が動いてないけど……」
こちらを向いた長谷川さんが、あたしの顔を見るなり、まぶしそうに目を細めた。ポケットからハンカチを取って、こちらに差し出してくる。
どうしてそうされているのかわからなくて、首をかしげる。その拍子に、頬を指先で撫でられるような感覚があった。それはもちろん長谷川さんの指じゃなくて、
「え? ……あれ?」
瞳から零れ出た、自分の涙だった。
ハンカチをひったくって目元を拭う。
みっともない泣き顔なんて見せたくなかった。
最後の朝くらい、平然としていたかったのに。
「君の手料理を食べられなくなると思うと、僕も寂しいよ」
その言葉がダメ押しだった。
「……っ、そういうこと、言わないでくださいよぉ……」
泣き声を抑えられない。誰かさんの腕に飛び込みたかったけれどそれはこらえて、代わりにハンカチで口元をふさいで嗚咽を押しとどめた。
長谷川さんは料理の手を止めて、静かにたたずんでいた。背中をさするでもなく、抱きしめるでもなく、慰めの言葉をかけるでもなく、ただ、そばにいてくれた。
ようやく落ち着いたあたしは、鼻をすすって長谷川さんに言う。
「ぐす……、あの、これ、別に長谷川さんのせいじゃないですから」
「ん? これって?」
「だから、あたしがこんな風になったのは、お別れの雰囲気に流されただけですから。卒業式のとき、先輩と特に交流がなかった在校生のくせに、カノンの音楽が流れただけでしんみりしてしまう、あれと同じやつです」
「それだけ三人での暮らしを大切に思ってくれてたんだね」
「そういうこと言わないでって、言ったじゃないですかぁ……」
また視界がにじんでしまって、なかなか料理が進まなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「少し早いんじゃないの?」
玄関口であたしを見送る先生が、時計を見ながら言った。
両親が迎えに来てくれる時間まではもう少しある。
でも、長谷川さんたちが出勤するまでは余裕がない。
「最後に二人に見送ってほしかったから」
あたしが素直にこういうセリフを言うと思ってなかったのか、先生は目を丸くして、そう、と短くつぶやいた。
さっきたっぷり泣き散らかしたおかげで、今はとても気持ちが穏やかだった。どちらかというと先生の方が落ち着きがない。視線をきょろきょろさせたり、髪の毛をいじったりしている。
「ソワソワしすぎじゃないかな」
と長谷川さんにはっきり言われて、古井河先生は女子みたいに唇をとがらせた。
「教え子との別れは何度やっても切ないものなの」
そうえいば先生、卒業式のときも泣いてたっけ。
「あの、センセ。あたしからお世話になったお返しがあるんだけど」
先生に一歩近づく。
「お返し?」
「手、出して」
「え、ええ」
先生は戸惑いながら右手を差し出す。あたしはその上に、後ろ手に隠していた、先生からの預かり物をそっと置いた。
それは煙草の箱よりもひと回り大きなサイズの、カラフルな色をした小箱。
半年前、夏祭りの日に渡されたコンドームである。
「あ、もちろん未使用だから」
先生の顔が真っ赤になる。
「――水渡さんっ!」
古井河先生はあたしにとって、これ以上ないっていうくらいの大人の女性で。
いつかこんな風になりたいと、ずっと思っていた。
憧れと疎ましさが入り混じった視線を送り続けた、恋敵。
だから、最後の最後でこんな風に取り乱すところが見られて、たまらなく愉快だった。一矢報いた気分だ。
「え、何これ、どういうこと?」
真顔で尋ねる長谷川さんに、先生は、
「違うの、他意はないのよ、ただのお守りであって――」
とかなんとか、しどろもどろになっている。
その様子がおかしくって、声に出して笑ってしまう。
笑いながらボストンバッグを手に取って、三人で暮らしていた部屋から遠ざかっていく。
最後に通路の曲がり角で、二人に向かって手を振った。長谷川さんたちも振り返してくる。
やがて振る手を止めると、あたしは深く頭を下げてから、一人きりで階段を降りた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「七海ちゃん、ちょっと変わったね」
高速道路を走る車の中で、お母さんがバックミラー越しに言った。
「……変わったって、どんな風に?」
「落ち着いた感じがするわ。大人っぽくなったっていうか」
「何それ」
とあたしは笑う。
よりにもよって、大人っぽく、だなんて。
なりたくてもなれなくて、散々もがいていたものに、今さら近づけていると言われても、ちっともうれしくないし、少しも信じられない。
そんな不満は顔に出ていたみたいで、
「自分が変わったことなんて、自分じゃ気づかないものよ」
とお母さんにたしなめられる。
「……本当に、あたし、大人っぽくなった?」
「もちろん。長いお休みから帰ってきた子供が、成長してないわけがないんだから」
「何それ」
けっきょく子供って言ってるし。
だけど、長いお休み、という言葉はなんだかしっくりきた。
三人ぐらしの日々は、あたしにとってあくまで一時的なものであって、いつまでも続くようなものじゃなかったんだと、改めて思い知らされて気がした。
そんなあたしの感傷を見透かすように、お母さんが言う。
「お帰りなさい、七海ちゃん」
これに返事をしたら、本当におしまいなんだ。
目を閉じて思い出す。
ソファの硬さがちょっと不満だったことや、台所が狭くて調味料を並べるのに苦労したことや、冷蔵庫のチルド室が使いにくかったこと――そんなささやかな引っかかりを。
日当たりがよくて広いベランダや、低音が心地よかったオーディオセットや、美味しいお米が炊ける高級炊飯器――そんなちょっとしたぜいたく感を。
テーブルの傷に、点きにくくなっていた洗面所の蛍光灯。そういえば食器用の洗剤が残り少なくなってたっけ。トイレットペーパーもだ。
いつも散らかっていた先生の部屋は、掃除機をかけるにも一苦労だった。いつも整理整頓されていた長谷川さんの部屋を見習ってほしい。でも、あっちはあっちで楽勝すぎて張り合いがなかった。
それらの情景をひとつひとつ、ていねいに胸の奥に仕舞ってから、目を開けた。
あたしはもう、あの部屋に帰ることはない。
「ただいま、お母さん」
というわけでこれにて完結です。
設定したステージの割には色気のない話でしたが、非日常から日常へ戻るまでは、どうにかこうにか書き終えられたかなというところです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
皆様が費やした時間のぶん、お楽しみいただけたなら幸いです。