表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/67

反省会 下


 古井河が帰ってきたのは午後八時前だった。


「ただいま」


 リビングに入ってきた彼女は、あいさつの声だけではなく雰囲気も気だるげだ。ひと目見ただけでくたびれているのがわかる。今日は仕事の疲労に加えて、ずっと七海の心配をしていた精神的な疲れもあるのだろう。


「……センセ、お帰りなさい」


 七海はソファから立ち上がって気をつけの姿勢。


「水渡さん」


 古井河は七海の目の間に立つと、十秒ほどじっと見つめてから、ほう、と深いため息をついた。


「良かったわ、何ごともなくて。本当によかった」


「センセ……。心配かけて、ごめんなさい」


 七海は神妙な顔つきで頭を下げる。

 いつもは古井河に反発的な態度を取ることが多い七海も、今回ばかりは心の底から反省して、謝罪しているようだった。


 古井河は緊張をほぐすように笑顔を作ると、人さし指を立てて言った。


「それじゃあ、反省会をしましょうか」


「え?」


 首をかしげる七海を、古井河が追及する。


「ごめんなさいと水渡さんは言うけれど、自分の行動の何が悪かったと思っているの?」


「え、えっと……」


 七海はちらりと救いを求めるように僕の方を向いた。しかし、古井河が『あなたは何もしないで』とばかりに鋭い視線を向けてくるので、黙るほかない。


「いろいろあるけど、全部まとめて、たぶん、センセや長谷川さんに相談しなかったから……」


 七海のたどたどしい答えに、古井河はうなずきを返す。

 しかしそれだけで話が済むはずもない。


「そうね、そのせいで、みんなにどれだけ手間を取らせたかわかる?」


「えっと……、せ、センセに心配をかけて、あと、長谷川さんの仕事の予定を乱して、バイト先のレジのシフトも空けちゃったし」


「受験の進路変更の準備もね」


「……ごめんなさい」


 七海は肩を落として小さくなる。

 凹みに凹んだ様子を見て、古井河は小さく首を振った。


「まあ、いいわ。反省しているみたいだし、これくらいにしておきましょう。お腹もすいたし。晩ご飯、できてるんでしょ?」


「うん! センセの好物、いっぱい作ってあるから」


 七海は笑顔でうなずくと、自分の力の見せどころ、とばかりに張り切って台所へ向かう。


 きっちり叱って反省をうながし、その直後に名誉挽回のチャンスを与える。古井河愛佳の見事なる先生っぷりだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 夕食を食べ終えて、風呂を済ませた七海は、ソファに座るとすぐに、こっくりこっくり舟をこぎ始めた。古井河は寝ぼけた七海を寝室のベッドへと誘導し、そっと戸を閉める。それが隔離なのは明らかだった。


「水渡さんをフッたの?」


 二人だけになったリビング。古井河はテーブルの向かいの席に座ると、頬杖をついて顔をかたむけ、率直に尋ねてきた。


「……どうして」


「そういう雰囲気だったから」


 さも当然という風に語られても、こちらにはまるで自覚がない。首をかしげていると、古井河はニヤリと口元を上げる。


「教師をしているとわかるのよ。仲のいい男女が、ある日突然ギクシャクし始めるの。どちらかが告白して断られたか、それか、片方に別の相手が――恋人ができたか。原因は二つに一つね」


「僕たちの雰囲気がそれだったと」


これ(・・)も、気まずいのをごまかすためにやったんでしょ」


 古井河は室内を見回す。

 リビングは隅々まで掃除が行き届いており、床は雑巾がけのおかげでチリひとつない。


 アパートに帰ってくるなり「師走なので大掃除をしましょう」と七海から提案があった。僕もそれに乗っかり、二人で数時間かけて部屋じゅうを掃除をしたのだ。何かの作業に没頭していれば、余計なことを考えずに済む――そんな逃避の気持ちがなかったと言えば嘘になる。


「ヒーローみたいなことをするから、そうなるのよ」


 辛辣しんらつな口ぶりに、いつかの忠告を思い出した。


『――あなたがあの子を助けるたびに、あの子の想いは深くなる』


 七海が抱えている問題に手を貸すほどに、七海は僕に好意を抱いていく。

 買いかぶりだと思っていたその言葉は、少なくとも七海にとっては真実で。

 僕はそれを自覚できていなかった。


「だからって、助けないわけにはいかない」


「それがあなたの責任だものね」


「……責任か」


 その言葉には複雑な思いがある。


「どうしたの?」


「田之上と会ったとき、けっこう強めに批判してしまったんだよ。父親の資格はない、という風なことをさ」


「でも、聞く限りではその男、なかなかのろくでなしだったみたいじゃない」


 古井河の言うとおり、やつの行為はまともではない。

 では、やつを批判する僕はまともなのか?

 三人ぐらしを継続すると決めた判断が、そもそも間違っていたのではないか。

 ここ数日、自問しない日はなかった。


「水渡さんを追い詰めたという意味では、僕もあいつも、そう違わないのかもしれない。

 あいつは悪意で娘をおびやかした。

 僕は善意であの子をたぶらかしたんだ」


「――それ、水渡さんに言ってないでしょうね」


 古井河は射貫くような視線を向けてくる。


「弱音を吐く相手くらい選ぶよ」


 こちらも目を逸らさずに応じると、


「……それなら良し」


 と一転して、おだやかな笑みでうなずいた。

 瞳をうるませ頬を染め、頬杖ついて口元を上げる。


 教え子に向けるものとは明らかに違う、色気のある表情に、思わず見惚みとれた。


「大丈夫よ。あなたの善意は水渡さんに多くのものを与えているから」


「失恋も?」


「失恋という経験を得たのよ。だからきっと素敵な女性になるわ」


 自分の選択の責任は最後まで取る。その気持ちに揺らぎはない。

 しかし、そもそも自分の選択は正しかったと言えるのだろうか。

 疑いは常に付きまとっていたが、彼女に大丈夫と言ってもらえたことで、少しだけ、地に足がついた気がした。


 七海の前では大人ぶっていても、実際のところは迷ってばかりだ。

 抱えた悩みは簡単には消えず、隠し方だけが上手になる。


「何、どうして笑ってるの」


「いや、僕もまだまだ未熟だなと思ってさ」


四十しじゅうにして惑わず、って言うじゃない。それでいいのよ」


「あと十年か……」


「ちょっと、こっち見ながらそういうこと言わないで」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ