反省会 下
古井河が帰ってきたのは午後八時前だった。
「ただいま」
リビングに入ってきた彼女は、あいさつの声だけではなく雰囲気も気だるげだ。ひと目見ただけでくたびれているのがわかる。今日は仕事の疲労に加えて、ずっと七海の心配をしていた精神的な疲れもあるのだろう。
「……センセ、お帰りなさい」
七海はソファから立ち上がって気をつけの姿勢。
「水渡さん」
古井河は七海の目の間に立つと、十秒ほどじっと見つめてから、ほう、と深いため息をついた。
「良かったわ、何ごともなくて。本当によかった」
「センセ……。心配かけて、ごめんなさい」
七海は神妙な顔つきで頭を下げる。
いつもは古井河に反発的な態度を取ることが多い七海も、今回ばかりは心の底から反省して、謝罪しているようだった。
古井河は緊張をほぐすように笑顔を作ると、人さし指を立てて言った。
「それじゃあ、反省会をしましょうか」
「え?」
首をかしげる七海を、古井河が追及する。
「ごめんなさいと水渡さんは言うけれど、自分の行動の何が悪かったと思っているの?」
「え、えっと……」
七海はちらりと救いを求めるように僕の方を向いた。しかし、古井河が『あなたは何もしないで』とばかりに鋭い視線を向けてくるので、黙るほかない。
「いろいろあるけど、全部まとめて、たぶん、センセや長谷川さんに相談しなかったから……」
七海のたどたどしい答えに、古井河はうなずきを返す。
しかしそれだけで話が済むはずもない。
「そうね、そのせいで、みんなにどれだけ手間を取らせたかわかる?」
「えっと……、せ、センセに心配をかけて、あと、長谷川さんの仕事の予定を乱して、バイト先のレジのシフトも空けちゃったし」
「受験の進路変更の準備もね」
「……ごめんなさい」
七海は肩を落として小さくなる。
凹みに凹んだ様子を見て、古井河は小さく首を振った。
「まあ、いいわ。反省しているみたいだし、これくらいにしておきましょう。お腹もすいたし。晩ご飯、できてるんでしょ?」
「うん! センセの好物、いっぱい作ってあるから」
七海は笑顔でうなずくと、自分の力の見せどころ、とばかりに張り切って台所へ向かう。
きっちり叱って反省をうながし、その直後に名誉挽回のチャンスを与える。古井河愛佳の見事なる先生っぷりだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
夕食を食べ終えて、風呂を済ませた七海は、ソファに座るとすぐに、こっくりこっくり舟をこぎ始めた。古井河は寝ぼけた七海を寝室のベッドへと誘導し、そっと戸を閉める。それが隔離なのは明らかだった。
「水渡さんをフッたの?」
二人だけになったリビング。古井河はテーブルの向かいの席に座ると、頬杖をついて顔をかたむけ、率直に尋ねてきた。
「……どうして」
「そういう雰囲気だったから」
さも当然という風に語られても、こちらにはまるで自覚がない。首をかしげていると、古井河はニヤリと口元を上げる。
「教師をしているとわかるのよ。仲のいい男女が、ある日突然ギクシャクし始めるの。どちらかが告白して断られたか、それか、片方に別の相手が――恋人ができたか。原因は二つに一つね」
「僕たちの雰囲気がそれだったと」
「これも、気まずいのをごまかすためにやったんでしょ」
古井河は室内を見回す。
リビングは隅々まで掃除が行き届いており、床は雑巾がけのおかげでチリひとつない。
アパートに帰ってくるなり「師走なので大掃除をしましょう」と七海から提案があった。僕もそれに乗っかり、二人で数時間かけて部屋じゅうを掃除をしたのだ。何かの作業に没頭していれば、余計なことを考えずに済む――そんな逃避の気持ちがなかったと言えば嘘になる。
「ヒーローみたいなことをするから、そうなるのよ」
辛辣な口ぶりに、いつかの忠告を思い出した。
『――あなたがあの子を助けるたびに、あの子の想いは深くなる』
七海が抱えている問題に手を貸すほどに、七海は僕に好意を抱いていく。
買いかぶりだと思っていたその言葉は、少なくとも七海にとっては真実で。
僕はそれを自覚できていなかった。
「だからって、助けないわけにはいかない」
「それがあなたの責任だものね」
「……責任か」
その言葉には複雑な思いがある。
「どうしたの?」
「田之上と会ったとき、けっこう強めに批判してしまったんだよ。父親の資格はない、という風なことをさ」
「でも、聞く限りではその男、なかなかのろくでなしだったみたいじゃない」
古井河の言うとおり、やつの行為はまともではない。
では、やつを批判する僕はまともなのか?
三人ぐらしを継続すると決めた判断が、そもそも間違っていたのではないか。
ここ数日、自問しない日はなかった。
「水渡さんを追い詰めたという意味では、僕もあいつも、そう違わないのかもしれない。
あいつは悪意で娘を脅かした。
僕は善意であの子を誑かしたんだ」
「――それ、水渡さんに言ってないでしょうね」
古井河は射貫くような視線を向けてくる。
「弱音を吐く相手くらい選ぶよ」
こちらも目を逸らさずに応じると、
「……それなら良し」
と一転して、おだやかな笑みでうなずいた。
瞳を潤ませ頬を染め、頬杖ついて口元を上げる。
教え子に向けるものとは明らかに違う、色気のある表情に、思わず見惚れた。
「大丈夫よ。あなたの善意は水渡さんに多くのものを与えているから」
「失恋も?」
「失恋という経験を得たのよ。だからきっと素敵な女性になるわ」
自分の選択の責任は最後まで取る。その気持ちに揺らぎはない。
しかし、そもそも自分の選択は正しかったと言えるのだろうか。
疑いは常に付きまとっていたが、彼女に大丈夫と言ってもらえたことで、少しだけ、地に足がついた気がした。
七海の前では大人ぶっていても、実際のところは迷ってばかりだ。
抱えた悩みは簡単には消えず、隠し方だけが上手になる。
「何、どうして笑ってるの」
「いや、僕もまだまだ未熟だなと思ってさ」
「四十にして惑わず、って言うじゃない。それでいいのよ」
「あと十年か……」
「ちょっと、こっち見ながらそういうこと言わないで」




