反省会 上
昼下がりといっても、12月の空気は冷たい。
道端の自販機でホットの缶コーヒーを二つ買って、一方を七海に差し出した。
「え?」
七海は缶コーヒーと僕の顔を交互に見つめ、表情に乏しい顔をかたむける。
「いつの間に買ったんですか?」
「いや、さっき自販機があっただろう」
そう言ってやると、七海は慌てて後ろを振り返った。
「あ、ホントだ」
どうやら僕がコーヒーを買っていたことにも気づいていなかったらしい。取り乱してはいないものの、やはり先ほどの出来事のショックは大きいのだろう。
「ありがとうございます」
七海は缶コーヒーを受け取ると、両手でそっと包み込んだ。まるで高価なプレゼントでも扱うみたいに。
こちらも七海に倣って、温かい缶コーヒーを両手で包んで暖を取る。かじかんだ指先がじんわりと暖まって、血が通っていくような感覚がした。
「大丈夫かい?」
「あ、はい……、何もされてませんから」
「それはよかった。……それもあるけど、縁は切れているとはいえ、父親があんな風にされているのは、あまり気持ちのいいものじゃないだろう」
「そうですね。胸がすくような気持ちにはなりませんでした。身を挺してかばう気にもなれませんでしたけど」
能面のようにこわばっていた表情が、気弱そうにゆがむ。
「……あたしって冷たいんですかね」
「敬意を持てない相手を、無理に慕う必要はないよ」
「親でもですか?」
「あの人は親じゃないだろう。少なくとも法的には」
「長谷川さんも案外ドライですよね」
「相手によるよ」
こちらの返事に満足したのか、七海は手の中の缶コーヒーを見つめながらほほ笑んだ。その淡い笑みをいちど消したかと思うと、ややあって、再び口元を上げた。
先ほどよりもはっきりとした笑顔で、こちらを見上げてくる。
瞳が涙をたたえて揺れていた。
「……お礼が遅くなりましたけど、助けに来てくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「あと、嘘をついて、ごめんなさい」
足音にかき消されそうなくらいに小さな声で、七海は謝罪を口にした。
自分の行いを心の底から悔やんでいることがわかる、か弱い声だった。
「大胆なことをしたね」
「……ごめんなさい」
「さすがにもうあの男から連絡が来ることはないだろう。次やれば訴えられることくらいは理解したはずだから」
「はい……」
「あとで、洋美さんにも報告をしないとね」
「はい……」
「古井河なんか、ものすごく怒ってるだろうから、覚悟しておかないと。一緒に叱られよう」
瞬間、七海の表情が固まり、足が止まった。
僕は歩く勢いのまま数歩進んでから、立ち止まって振り返る。
「水渡さん?」
「長谷川さんはあたしのこと、怒らないんですか?」
「怒らないよ」
「……それって、そうする価値もないからですか」
「ずいぶんネガティブなことを言うね……」
苦笑いを作りつつ頭をかく。
気にしていないことをアピールするためのゆるい仕草だが、効果はなかった。七海は深刻そうに眉を寄せたままだ。
「だってあたし、嘘をついてバイトをやめて、職場のみんなに迷惑かけて、センセにも心配かけて……。今だって、本当なら長谷川さんは働いてる時間じゃないですか」
「――水渡さん」
鋭めの声で呼びかけると、七海は反射的に顔を上げた。こちらの話に聞く耳を持ってくれる精神状態になっただろうか。
「少し、休んでいこうか」
◆◇◆◇◆◇◆◇
住宅街の中の小さな公園に立ち寄って、一つしかないベンチに並んで座った。
缶コーヒーをひと口飲んで、前を向いて話を始める。
「さっきの続きだけど。怒るっていうのは、自分の置かれた状況を理解していない相手に対する、最終手段だからね。そういうものは、君には必要ないだろう。もう十分に反省しているし、落ち込んでもいる。それをさらに凹ませるのは、ただの暴力だ」
そこで言葉を切って七海の方を向いた。
「……というのが僕の主義だけど、古井河はたぶん、もう少し厳しめだと思うから、いちおう心構えはしておいた方がいいよ」
七海はまた難しい顔になる。
「はい」
返事のトーンも低い。先ほどから様子がおかしい。
やはりショックが尾を引いているのだろうか。
「水渡さん、大丈夫かい? やっぱり――」
「大丈夫です! 今のあたしのこれは、元父とは無関係ですから」
「じゃあどうして」
「長谷川さんのせいです」
「……それは、もうしわけない」
拗ねたようにそっぽを向かれて、心当たりはないが反射的に謝っていた。
七海の表情は険しいままだ。いや、はっきりと怒っているようだった。
缶コーヒーのプルタブを開けると、八つ当たりのように一気飲みをする。
「……ぷはぁ」
白い息を吐きながら、七海は『どうだ、空っぽにしてやったぜ』とばかりにこちらを睨みつけてくる。
「そんなスポーツドリンクみたいに飲まなくても」
「さっきの、話ですけど」
「なんだい?」
「この街から出ていく、とか言ってたじゃないですか」
少し考えて、思い出した。
三人ぐらしを言いふらすぞという、田之上の脅しに対する返事のことだろう。
「あれはハッタリだよ。ああいう輩はこちらが委縮するのを見て調子づくんだ」
「堂々としていれば攻撃されないから?」
「そういうことだね」
「でも、センセとも話をしたんですよね」
「そりゃあ一応、意見を統一しておかないと。打ち合わせというか、口裏合わせというか」
「それって、なんか……」
七海はジトッとした視線で上目遣いをする。
何か言いたそうな沈黙は、長くは続かなかった。
「そういう風に大げさにされると申し訳ないです」
それは本当に言いたかった言葉ではないのだろう。
しかし、指摘はせずに話を続ける。
「こっちも同じだよ。お酒を出す店でバイトしたり、その筋の人が絡むような話に巻き込まれたりして、ずいぶん大げさになってしまった」
「それは……、すいません」
「だから、怒っているわけじゃない。ただ、今後はもう、こういうのは無しにしよう。困ったことがあったら、ちゃんと相談すること」
押し黙ってしまった七海に念を押す。
「いいね?」
「……はい。ごめんなさい」
「いや、お互い様ってやつだよ」
「――どうして長谷川さんが謝るんですか」
その問いかけは単純に、心に浮かんだ疑問を口にしただけ、という声音だった。
しかしすぐに、違和感に気づいたかのように、表情が強張る。
七海は身体をこちらに向けた。
「というか、何について謝られているのか、わからないんですけど」
腰を浮かせて、ほとんど膝が触れるくらいの距離まで近づいてくる。
「謝らなきゃいけないのは元父です。長谷川さんはあたしを助けてくれました」
それは今日のことだけを言っているのではなかった。
文化祭の模擬店で問題が起こったときも。
引越ししたくない彼女のために、母親に会いに行ったときも。
夏祭りで男たちに絡まれたときも。
友達の万引きにショックを受けて落ち込んでしまったときも。
強引に押し掛けてきた、あの雨の日から。
「長谷川さんはずっと、あたしを助けてくれたじゃないですか」
押し付けるような、縋りつくような、切羽詰まったしゃべり方から感じた。
七海ももう気づいているのだろう。
僕たちの食い違いを。
お互いの膝が触れるくらいの距離で見つめ合っていると、いつかの車の中でのやり取りを思い出す。今このときは、あの時間の続きに違いなかった。
「僕は君を助けたのかもしれない」
自分がどんな表情をしているのかよくわからない。
なるべく淡々とした声を意識した。
「……だけど、それ以上のことはできないんだよ」
曖昧にぼかした、卑怯な返事だと思う。七海の察しに期待した、ある意味では相手を信用した言い方だった、
そして七海は、『もっとはっきり言ってください』などと聞き分けのないことは言わなかった。
「卒業まで返事はいいって言ったのに」
聞こえるか聞こえないかの小声でそうつぶやくと、口をとがらせてそっぽを向きつつ、距離を取って立ち上がる。
「もう帰りましょう。寒いし」
七海はそのまま、僕を待たずに歩きだした。
「そうだね」
立ち上がって後を追う。
今は顔を見られたくはないだろうから、隣には並ばずに、数メートル後ろから見守りながら家路につく。




