善人面と父親面
今日は朝から慌ただしかった。
まずは早朝――夜明け前から店に入って、ひたすら仕事を片づけた。日中に自由に動ける時間を確保するためだ。
一般的な会社勤めの人たちが出勤し、学生たちが登校を始める時間帯になると、ようやく田之上への対応に動きだす。一応の礼儀として、電話連絡が失礼に当たらない時間帯まで待っていたのだ。具体的には午前九時ごろ。
しかし、何度かけてもつながらない。
直接交渉するために、午前中に一度、女主人に教えてもらった住所を訪れてみたものの、そのときは不在だった。
とにかく、会って話をしないことにはどうにもならないが、その前に七海を引き離した方がいいのではないか。対応を考えていたときに、その電話はかかってきた。
学校で授業をしているはずの古井河からの連絡だった。
『水渡さんが早退したわ』
本人の意思による早退ならまだいいが、あの父親に呼び出されたのだとしたら。
七海に連絡をしてもつながらない。田之上も同様だった。
嫌な予感がする。
わずかな望みにかけて、再び田之上のアパートへ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
中の様子をひと目見ただけで、状況の異様さが感じ取れた。
荒々しい雰囲気の男が二人。
扉のすぐ脇と窓辺に一人ずつ。
中の人間を逃がさないための配置だ。
部屋の中央に男が一人。
畳の上であぐらをかいて俯いている。
彼がおそらく七海の実父だろう。借金取りに絞られたのか、憔悴しきった顔をしていた。が、こちらはどうでもいい。
「水渡さん」
呼びかけると、七海はびくりと肩をふるわせて顔を上げた。
無傷だ。
やや表情は硬いが、怪我などはなさそうだ。無事が確認できただけで安心して、気が緩みそうになる。
しかし、まだ腑抜けるわけにはいかない。
気を引き締めて、けれども平静を保って。
「水渡さんは、お父さんを助けたいと思って、善意で働いているの? もしそうだとしたら、やり方に文句はあるにしても、その行為自体を否定はできない」
七海の反応は今ひとつだが、呼びかけを続ける。
「だけど、仮に脅されて無理やりに従わされているのなら――」
「お、おいお前!」
上ずった声に話をさえぎられる。
田之上が立ち上がって、こちらを睨んでいた。
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえよ。人の娘と……、女子高生と同居するような変態野郎が、善人面してんじゃねえ」
「七海さんを預かることは、彼女の母親の洋美さんから了解を得ています」
「お前の話なんざ聞いてねえよ! 近所や職場に知れたらどう思われるかって話をしてんだろうが」
「……ああ、そっちでしたか」
自分の娘を云々、などと言い出すものだから、親子の情をアピールしているのかと思いきや、すでにこちらを脅しにかかっていたらしい。
だが、田之上のペースに乗るのも面倒だ。
「その前に、あなたの話をしましょう。洋美さんとあなたとの間では、協議離婚が成立しているそうですね。その際に、娘とはいっさい面会をしないと約束をしている。にも関わらず――」
「そんなものは口約束だろうが」
こちらの話は乱暴な言葉で遮られてしまう。
田之上があまりにも堂々と反論をするものだから、一瞬、こちらが何か間違っているのだろうかと、本気で考えてしまった。
違う。あれは無知ゆえの開き直りだ。
協議離婚の際に、娘とは面会をしないという取り決めをしたのであれば、その約束には法的な拘束力がある。
それを口約束と言い放ち、実際に娘と会っているこの男には、おそらく、法を破っているという意識がない。破ったら罰せられるという自覚もない。だから娘に借金の肩代わりをさせるという狂った発想が出てくるのだ。
僕は二人組の一方の、窓辺に立っている細身の男を見た。
こちらの視線を受けて、男は肩をすくめてみせる。
それはわかっている反応だった。
彼らは――〝その筋の人〟は良くも悪くもプロだ。社会で最も強い力が、暴力ではなく法律であることを理解している。勝てないものとは戦わない。
それでも、バーのときのような可能性を考えて、一応、報告をしておかないと。
「あの男がどう言ったのかは知りませんが、彼女はまだ高校生です。もしあなた方のお店で働かせようとしているなら、ちょっと問題になるんじゃないですか?」
「おい」
細身の男が呼びかけると、先ほどまで勢いづいてしゃべっていた田之上が、怯えたように身体をこわばらせた。
「困るんだよなあ、そういう嘘をつかれちゃあ」
「あ、いや、別に嘘じゃなくて、ただの勘違いでして……」
卑屈な苦笑いを浮かべながら言い訳をする田之上。しかし、巨体の男が近づいて、二人組に挟まれると、圧力に屈したのか、それ以上何も言えずに押し黙ってしまう。
「じゃあ僕たちはこれで」
細身の男にひと声かけると、「おう」と端的な返事があった。彼らはもはや僕たちに興味はないらしい。それがわかって一安心である。
「行こう、水渡さん」
その場で立ち尽くしていた七海に声をかけると、親を見つけた迷子みたいに顔を上げて、こちらへ駆け寄ってくる。
そのまま外通路へ出ようとドアノブに手をかけたところで、
「――待てコラァ!」
背後から乱暴な声がかけられる。振り返ると、巨体の男に組み敷かれた田之上が、顔を横にして床に頬を張りつけたまま、こちらを睨みつけていた。
「お前ふざけんなよ!? ばらしてやる、女子高生と同居するような変態だってなぁ、担任の女教師もだ、なあおい、聞いてんのか? スカしてんじゃねえぞ!」
「ふざけているのはどっちだ」
理性は相手にするなと言っているのに、つい反応してしまっていた。
「……あ?」
「娘を脅して金をせびっておいて、何を偉そうなことを言っているんだ」
口と感情が直結してしまったかのように言葉が出てくる。
「しかもこの子は、そんな無法をあきらめて受け入れようとしていたんだ。子供を追い詰めておいて、何が人の娘だ。父親面をする前に、自分のやってきたことを省みろ」
こちらが反論してくるとは思わなかったのか、田之上は呆気にとられた表情で、言葉を詰まらせる。
「お……、おお……、い、いい度胸じゃねぇか。こっちは証拠だってあるんだ、あっという間に拡散させてやる、そうなったらお前――」
「――仮に居づらくなったときは、この街から出ていくだけです。彼女の方を脅しても無駄ですよ。ここに来る前に、意志の統一はしてあるので。それじゃあ」
踵を返す。
七海の無事は確認できたし、伝えるべきことも伝えた。もうここに用はない。これ以上この場所にいたら、また感情に任せて余計なことをしゃべってしまう。それがたまらなく嫌だった。この男に対しては、きっと何を言っても無駄だ。
「ちょ、待てコラ、話はまだ――うぐっ!?」
鈍い音がして言葉が途切れる。巨体の男が殴りつけたのだ。
細身の男が回り込んで、僕たちと田之上の間に立った。こちらからは様子が見えなくなる。
「田之上さん、あんたがやろうとしているそれ、実は脅迫っていうんだ。そんなことしたら、あんた訴えられるだろ、裁判になるだろ、んで負けるだろ、カネ返せなくなるだろ? 回り回って、うちらが困るじゃないか」
細身の男がしゃべっているあいだ、何度か鈍い音がして、そのたびにうめき声が上がった。こちらからは見えないが、田之上に何かしているのだろう。
「ひっ、わ、わかった、何もしない、だから……」
田之上のおびえた声にかぶせるように、また鈍い音が響く。
異常な場所の空気に七海を触れさせたくない。
震える七海の肩を押して、僕たちは部屋を出た。




