光が差し込む
バーでのバイトが見つかってしまった、その翌日の学校。
何か言われるんじゃないかってびくびくしながら過ごしていたら、2限目の休み時間になって古井河先生に呼び出された。ひと気の少ない廊下の端へと移動する。
「昨日泊めてもらった子は、三ツ森さんと言ったかしら」
「そうだけど。中学の友達」
「先方のご家族に迷惑はかけなかった? 帰るときにちゃんとお礼は言ったの?」
先生は周りに聞こえないようにボリュームを下げて、昨日のことをあれこれ尋ねてくる。ハンカチは持った? 忘れ物はない? って念を押してくる母親みたい。
「センセ、そーゆーの、なんかお母さんっぽい」
思ったことがうっかり口からこぼれてしまう。
ぴくりと先生の口元が引きつった。
「あ、もちろんいい意味で」
「……その言葉でフォローできていると思ったら大間違いよ水渡さん」
「わかってますー」
ていうか大人に対してこんな口を利く相手って、たぶん先生くらいだと思うし。
あたしの悪びれない態度に、先生はため息をつく。それで気持ちを落ち着かせたのか、ふっとやさしい笑顔になった。
「とにかく、あまり根を詰めすぎないように」
「でも、無理しなきゃいけないときってあると思うけど」
子供扱いされてるみたいに感じて、つい反論してしまう。
先生はやさしい笑顔のまま、そっと手を伸ばしてきて、あたしの頭を撫でた。
「そういうときは、いま踏ん張りどころだから、って周りにちゃんと伝えること。でないと、独り相撲になってしまうわ」
「それって……」
一歩下がって先生の手から逃れる。
あたしの現状について、遠回しに注意されている――
そう思って身構えたけど、
「受験勉強なんてただでさえ孤独な戦いなんだから、誰かに頼るのは悪いことじゃないのよ」
先生はそんな言葉を残して、次の授業があるからと足早に去っていった。結局、アルバイトの件はひと言も追及されなかった。
長谷川さんは、昨日のことを話していないのかもしれない。忙しい先生に気を使ったんだろう。そういう配慮をする気持ちはよくわかる。だって、あたしが今まさにそうだから。
あたしが今回の一件を黙っているのは、あんな恥ずかしい父親の話をしたくないという保身もあるけど、それ以上に、二人に迷惑をかけたくなかったからだ。
三人ぐらしをネタに脅しをかける父親から、あたしは長谷川さんと先生を守っている。そう思うと、うんざりするような現状でも、ちょっとだけ胸を張れた。
……でも、バイトはどうしよう。バーの女主人に電話したら、もう雇えないって言われちゃったし。
『そもそもあんたの借金じゃないんだから、気にすることはないよ』
事情を知ったママの言葉はやさしかったけど、それで父の借金がなくなるわけじゃないから、父の脅威もなくならない。問題は何も解決していないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
父から電話があったのは、別のバイトを考えていた昼休みのことだった。
要領を得ない話だったけど、とにかく、学校をサボってでも来いという内容だった。あまりにもひどい要求だけどため息も出ない。
教職員に見つからないように裏門から学校を出て、父のアパートへ向かう。
築数十年の二階建て、外付け階段の、長谷川さんや古井河先生のところよりも明らかに安っぽい建物だった。
カンカンカン、と足音を響かせて階段を上っていく。
教わった番号のドアをノックすると、中からドアが押し開けられる。
現れたのは見知らぬ男性だった。
あたしは思わずのけぞって、半歩下がってしまう。
背が高くて横幅も広い、圧迫感のある体格。だけどその圧力は、身体の大きさじゃなくて、その人の持つ雰囲気のせいだと思う。面と向かった相手を常に威圧して、空気が張り詰めている感じ。目を合わせただけでピリピリする。
「あんたが水渡か?」
「……はい、そうですけど」
かろうじて、そう答える。間違えましたと言ってすぐに逃げだしたかったけど、必死にその場に踏み止まる。
「ああ、早かったな、まあ入れ」
大きな身体に隠れて見えないけれど、父の声が聞こえた。入り口をふさいでいた巨体が引っ込んだので、あたしはローファーを脱いで中に入る。
フローリングの床はところどころコーティングがはがれていて、そこを踏まないように恐るおそる歩いていく。
奥の畳敷きの部屋には二人の男性がいた。
一人は父。部屋の中央にあぐらをかいて座っている。
もう一人はスーツを着た細身の男。知らない人だ。
細身の男は窓際に立って、父を見下ろしている。どういう関係なのだろう。お友達じゃないことは間違いなさそうだ。
「へえ、かわいい娘さんじゃないか」
細身の男は絡みつくような視線をあたしに向けてくる。年齢は父と同じか少し上くらい。そんな男性にかわいいなんて言われても気持ちが悪いだけだ。普通はいやらしい意味にしか思えない。
だけど、細身の男の視線は、あまり性的な感じがしなかった。中立的というのともちょっと違う、冷たくて、無機質で――そこまで考えて、嫌な単語が浮かぶ。品定め、だ。
「なあ、七海。割のいいアルバイトがあるんだ」
こちらに呼びかけてくる父は、引きつった下手くそな愛想笑いを浮かべている。
「あのチンケなバーなんかよりよっぽど――そう、四・五倍は稼げる」
ずいぶんな言い草だった。そのチンケなバーで娘に借金を肩代わりさせるほどツケで飲んだこの人は、自分の発言で自分のクズさを証明していることがわからないのだろうか。
あたしはあの店の雰囲気もママのことも嫌いじゃなかったから、父の言葉が腹立たしかった。だけど、今はそんなことで怒っている場合じゃない。
目を合わせると、細身の男は無表情のまま肩をすくめた。
「お父さんの借金を返すために働いてるんだろう? オレはそういう健気なのに弱くてなぁ。早く済ませて、お嬢ちゃんを解放してやりたいと思って、いい話を持ってきたんだよ」
恩着せがましい話をするなら、表情ももう少しそれっぽくしてほしい。
いい話。割のいいアルバイト。そんな言葉に裏があることくらい知ってるし、どういう内容なのかも想像がつく。バイトの情報誌にも載っていて、薄手のドレスで着飾った女の人の写真が写っている仕事。制服を着替えてから来いと言われた理由がわかった。
でも、身もふたもない現実として、給料が高いのは素晴らしいことだ。
父の借金を返すのなんて、早く済ませた方がいいに決まっている。
……早く済ませて、嘘を嘘じゃなくしたかったのに。
長谷川さんや先生に、なんて言ってごまかせばいいんだろう。
あたしは何をやっているんだろう。
入口を見やる。
ドアは閉じられていて、その前には巨体の男が立ちふさがっている。
逃げようとしたわけじゃない。
逃げられないことを確認しただけ。
あたしはひどく投げやりな気分で、細身の男の提案にうなずきそうになった、その直前。
――コンコン、と控えめな強さでドアがノックされた。
室内の全員が、一斉にドアに注目する。
もう一度、落ち着いたリズムのノック。
「水渡さん」
穏やかな響き。
こちらを気づかう、やさしい声。
薄いドア越しに聞こえてくる声は何年ぶりみたいに懐かしく感じて、なんだか涙が出そうになった。
だけど、あたしは大声で助けを求めたりはしない。
呼べばあたしがいることがバレてしまう、長谷川さんを巻き込んでしまう。
巨体の男と細身の男は、明らかにその筋の人だ。暴力沙汰になるのは嫌だった。長谷川さんはぜったいケンカ弱いだろうし。
……だからって、強かったら構わないわけじゃない。
あたしは見たくなかった。
長谷川さんが怪我をするのも、誰かに怪我をさせるのも。
「田之上さん」
と長谷川さんは今度は父の苗字を呼んだ。
巨体の男は居留守を決め込んでいて、父もそれに従っている。
どれくらい時間が流れたのか、やがて、扉の向こうでつぶやく声が。
「しかたないな……、じゃあ、警察に相談してみるか」
巨体の男が目を剥いて、どうするのかと視線で細身の男に問いかける。
細身の男はあごをしゃくって、開けるように無言で命じた。
ドアが開いて、光が差し込む。




