酔っ払いに辛口
カルアミルクを――コーヒー牛乳のようなブラウン色の液体を飲みながら、女主人の口から語られる七海の話を聞いた。
「うちの店じゃ元々たいした料理は出してなかったんだけどね、あの子が料理が得意だっていうから、適当に任せてみたんだけど、これがなかなかのものなんだよ」
女主人の口ぶりは、アルバイトの評価を下す上司というよりも、できの良い子供を自慢する母親のようだった。
「手が込んでるとか、一流レストラン並みってわけじゃないんだが、有り合わせの材料ですぐに作るし、お客さんのリクエストにも応じられる……、そう、幅の広い、家庭的な料理の作れる子だねえ」
「わかる」
ついうっかり、そんなつぶやきがこぼれてしまう。
「よく気が利く子だよ」
「愛想もいいしな」
「娘に欲しいくらいだよまったく」
「部長、中学生の娘さんがいるって言ってませんでしたか?」
「家に居るだけでわしを邪魔者扱いする娘がな……」
テーブル席の3人組も七海の話で盛り上がっていた。若くて素直な子というのは、それだけでおじさん連中から可愛がられるものなのである。それは決していやらしい意味ではなく、仕事ですさんだ心を潤す一服の清涼剤のようなものだ。……完全におじさん側の思考だ。控えないといけない。
気持ちを仕切り直すように、グラスを軽くかたむけてカルアミルクを流し込む。
「水渡さんの父親の、田之上について、他に何か、知りませんか」
「他ってなんだい?」
「例えば……、この店のほかに、ツケ払いをしているとか、あとは……、借金がある、という話は……」
女主人はこちらの話を聞き流して、三人組が注文した分の酒を用意している。
なるほど、まだ搾り取ろうというのか。商売上手なことだ。
内心で嘲笑しつつ、カルアミルクがまだ半分ほど残っているグラスを持ち上げようとして――隣から伸びてきた白い手に押さえ込まれる。
「……榊原?」
「飲みすぎだ馬鹿」
榊原は短く吐き捨てたあと、女店主に向かってカクテルを注文した。
「ブルドッグを」
「あんたいちいち意味深なのを頼むねぇ」
女主人はニヤリと口元を上げるが、僕には意味がわからない。榊原には伝わっているのか、彼女は「別に」と不機嫌そうに応じていた。
女主人もそれ以上は何も言わず、静かにブルドッグのグラスを置いた。透明の液体の底にグレープフルーツの果汁が沈滞している。
ひと口で三分の一ほどを飲んでから、榊原が尋ねる。
「あの子の父親――田之上って言ったか? あいつは、よその店でもツケ払いをしたり、借金をしてないか? 何か噂は知らないか?」
そうそう、それが聞きたかったんだよ……。
女主人が首をかしげつつ返事をしているが、よく聞き取れない。身を乗り出して耳を近づけようとすると、今度は上半身に力が入らなくなってきた。
身体が傾いているような、地面が揺れるような感覚。
カウンターに肘をついて、姿勢を安定させる。
そのまま音が遠ざかっていく。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ほら、足に力いれて、シャキッとしろ!」
代行業者に運転を頼んで、どうにかアパートの駐車場まで戻ってきた。
車から降りると、足元がおぼつかない。まだ酔いは冷めていないようだ。さすがに肩を借りるのは断ったものの、危なっかしいからと榊原に見守られながら階段を上がっていく。
こんなに酔ったのは久しぶりだ。大した量ではなかったはずだが、日ごろの疲れのせいでアルコールへの耐性が弱くなっていたのかもしれない。
一段一段ゆっくりと、アパートの慣れた階段を冬山の登山のように踏みしめる。歩みは遅かったが、榊原は黙って付き合ってくれた。
その途中で、不意に彼女が口を開いた。
「確かに水渡の父親は、借金のカタに娘を働かせるろくでなしかもしれないが」
後方、斜め下からの声。
「長谷川は、水渡本人の気持ちは考えてなかったよな」
「どういう意味だい」
「いくらろくでなしでも、水渡にとっては実の父親で……、だからあいつはできる範囲で協力してやりたくて、あんな場末のバーで年齢を偽って働いてた」
「……水渡さんがそう言ったの?」
「いや。そうかもしれない、ってだけだ」
その返事に安心し、そして、ろくでなしの父親の肩を持つような榊原の物言いに、少しばかり反感を抱いてしまう。
「なんだ、ただの可能性の話?」
「お前は、そのもしもを考えもしなかっただろ」
踊り場で立ち止まってしまったのは、アルコールが足にきたから――だけではなかった。自分の正しさに酔ってないか、という鋭い問いに射抜かれたのだ。
「それをただ、あの子が自分の知らないところで何かやっているのが気に入らない、ってだけで文句を言っているなら、考え直した方がいい。そういうの、独り善がりっていうんだぜ」
一切の遠慮のない言葉は、僕自身が気づいていなかったエゴを、強引に引きずり出して冷たい夜風に晒すものだった。
だからこんなにも耳に痛い。
険しくなっている表情を自覚しつつも、振り返らずにはいられない。
「君は――」
だけどこちらを見上げる榊原の表情が、口調とは裏腹に、あまりにも穏やかだったから。それを見ただけで、気持ちが和いでしまった。
「なんだよ」
握りしめていた言葉は手元から離れてしまう。風に吹かれて飛ばされる砂ぼこりのように。
「いや……、ありがとう」
それでも残っていたシンプルな感謝を告げて、階段を上り始める。
僕の遅い歩みに合わせて、ゆっくりと足音がついてくる。
玄関に上がって靴を脱いでいると、古井河が部屋から出てきた。寝間着の上に羽織ったガウンをかき寄せながら、やわらかく笑う。
「お帰りなさい、遅かったわね」
そして、僕の様子を見て首をかしげる。
「……飲んでたの? めずらしい」
「ちょっとね。水渡さんは?」
古井河に聞かれる前に、こちらからそう尋ねる。僕の帰りが遅いことと、七海の帰りが遅いことは、無関係なのだと印象づけるためだ。七海の嘘に気づかれないための、小手先の策。そのひとつ。
「さっき連絡があったわ。遅くなったから友達の家に泊まるって。三ツ森さんって子よ。うちの生徒ではないみたいだけど……」
「ああ、その子なら、文化祭のときに会ったことがあるよ。中学の友達だってさ」
「それなら大丈夫ね。……ところで、長谷川君」
「うん?」
名前を呼ばれて目線を上げると、古井河が険しい顔で扉の方を向いていた。玄関先の共用通路には、ここまで付き添ってくれた榊原がいる。
「……どうして桐子ちゃんと一緒なのかしら。今日のお酒は会社の付き合いだったの? それとも」
下の名前で呼ぶ古井河の挑発にも、榊原は動じない。軽く肩をすくめてみせる。
「はっ。同居人には話せないこともあるんだろ」
それは古井河にとっては聞き捨てならないセリフだったらしい。頬が引きつり、スリッパのままで榊原へ詰め寄っていく。
「ど、どういう話をしていたのかしら。詳しく」
「あ~あたしの口からはとても言えないなぁ」
「もしかして、わたしのお酒の量が増えてるとか、化粧が雑になったとか、そういう悩みというか愚痴というか、とにかくネガティブな内容なの?」
「どうだろうなあ」
「イエスかノーか、それだけでもいいからぁ」
「先生ちょっと必死すぎだろ。酔ってんのか?」
やいのやいのと言い合う二人から逃れて、僕は自室へ引っ込んだ。
花言葉や宝石言葉のように、カクテル言葉というものがあるそうです。
マルガリータ:無言の愛
ブルドッグ:守りたい




