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カルアミルクには早すぎる


 七海のあとを追って店へ踏み込む。そこは10人も入れば満席になるくらいの、小ぢんまりとしたバーだった。


 抑えの利いた間接照明の店内。カウンターの後ろには壁いっぱいに洋酒のビンが並んでいる。悪くない雰囲気だとは思うが、この手の店にはあまり行かないのでよくわからない。


 客は一人もいなかったが、それはこの店が繁盛はんじょうしていないからではなく、時間が早いためだろう。この手の店はもう少し夜が更けてからにぎわい始めるものだ。


「いらっしゃい」


 カウンターの中で僕たちを出迎えたのは、四十代ほどとおぼしきふくよかな女性だった。


「どうしたの? 座らないの?」


 カウンター席をすすめてくる女性に対して、僕はその場で問いかける。


「ここで女の子が働いていませんか」


「女の子? ああ、あの子のことかい」


 女主人が気だるそうに振り返るのと同時に、店の奥から人が出てきた。


「ママ、今日ちょっと材料が足りないっぽいから――」


 ワイシャツに袖なしの上着を重ねた、女性バーテンダーのような服装をしているが、声だけでわかる。七海だった。


「げっ……!?」


 こちらと目が合うと、七海は女子らしくないうめき声をあげた。そのまま回れ右をして、バタバタと裏に引っ込んでしまう。

 扉が開く音に続いて、階段を駆け下りる足音が遠ざかっていく。一瞬の逃走であった。


 しかしこちらはあわてたりしない。榊原に目配せをすると、やれやれ、と聞こえるように言いながら出入口へ向かう。


 そしてバーの扉を開けると、外へ向けて大声で呼びかける。


「水渡ぉ! あたしらは追いかけたりしない! だから、焦って逃げて飛び出して事故るんじゃないぞ! 気をつけて帰れ! いいな!?」


 そして扉を閉じて、こちらへ戻ってくる。


「あー、くそっ、なかなか恥ずかしいな……」


 榊原はいつもより顔を赤くして、視線もやや下がっている。


「ありがとう」


 と僕は礼を言う。七海の行動は、予想していたうちのひとつだった。逃げられた場合はああやって、声の通る榊原に呼びかけてもらうつもりだったのだ。


「あとで礼はするよ」


「当たり前だ」


 そして僕は女主人に向き直る。


「さっきの子――水渡さんは、このお店で働いているんですか」


 女主人は返事をしない。僕たちを頭のてっぺんからつま先までじろじろと見まわすと、後ろを向いて棚に並ぶ酒瓶さかびん整頓せいとんを始めてしまう。


「あの……」


「ここはバーだよ」


 女主人は背を向けたまま言った。

 無料タダで話を聞けると思うなよ、ということだろうか。

 情報を求める流れ者の主人公に、素っ気なく応じるバーの店主。

 西部劇ではよくあるやり取りだが、リアルでやることになるとは思わなかった。


 僕と榊原は顔を見合わせ、カウンターの席に腰を下ろす。


おごるよ」


「じゃあマルガリータを」


 榊原のオーダーには迷いがなかった。


「お兄さんは?」


 女主人に問われて、乗ってきた車のことが頭に浮かんだが、代行を呼ぶしかないかとすぐに切り替える。


「梅酒をロックで」


 注文を受けて、女主人は体型に見合わぬテキパキとした動きを見せた。


「はいお待ちどお」


 目の前にグラスが置かれた。

 琥珀色の液体に透明な氷が浮かび、カラン、と涼しげな音を立てた。


 続いて女主人はマルガリータの準備に取り掛かる。


 手馴れた動きでシェイカーを振って、逆三角形のカクテルグラスに液体を注いだ。グラスの縁には雪が降ったみたいに白い粉が付着している。塩だ。スノースタイルと呼ばれる装飾である。


「こいつもどうぞ」


 注文した酒とは別にナッツ類の盛り合わせが二人の間に置かれた。これはサービスだろうか、それとも後で料金を請求されるのだろうか。深く考えるのはよそう。


「じゃあいただくよ」


 榊原はグラスをかたむけ、口の中を湿らせる程度にちびりと飲んだ。カウンターに戻したグラスの縁は、口をつけた部分だけ、粉雪のような塩がなくなっている。隣を見やると、榊原は舌先で唇をめていた。


 僕も梅酒をひと口。味はいいが口当たりが濃厚なタイプで、これならソーダ割りの方がよかったかもしれないと少しだけ後悔した。


 ともあれ、こちらは注文をしたのだから、次はあちらの番だ。

 目を合わせて情報を求めると、女店主はふくよかな身体をゆすった。


「あんたたちは水渡って呼んでたけど、あの子はうちじゃ田之上たのうえって名前で働いてるよ」


 偽名――ではない。旧姓だろう。七海の家庭環境からそう推測する。


「それはあの子が名乗ったんですか? 保険証などで確認は?」


「連れてきた父親がそう言ったんだよ。自分の娘をここで働かせるから、ってね」


「働かせるから――の続きは?」


「ツケはそれで許してくれないか、だとさ」


 女主人は一瞬だけ、汚い世間の裏側を見てしまったかのように顔をしかめる。それはおそらく、〝連れてきた父親〟への嫌悪感がさせた表情なのだろう。


 頭に血が上るのがわかった。

 感情的になっていると自覚する。

 久しぶりの感覚だった。


 仕事を始めてしばらくは、高校や大学の頃よりも感情の起伏が激しかった。主に怒りを感じることが多かったせいだ。大量の仕事を押し付けるだけでろくに教えもしない上司に、偉そうな態度で非常識な要求を突きつける客、そういったストレス要因にさらされてばかりの毎日だった。


 やがてそれらと折り合いをつけるすべを学び――あるいはすり減って、慣れて、ここ最近は感情の揺れを自分でコントロールできていたつもりだったが。


 父親の借金を返すために七海がバーで働かされている、という状況は僕にとって非常に強いストレスを感じるものだった。自分の子供をなんだと思っているのか。子供のいない独身男にも、子供が不当に扱われている現実に腹を立てる権利くらいあるはずだ。


 梅酒のグラスをあおって一気飲みする。酒でさを晴らそうとする、悪い大人の見本だった。


 カン、と音を立ててグラスを置いて、情報をシンプルに整理する。

 七海は父親に連れられてこの店に来た。

 そして、ダメ親父の姓は田之上。


「ここで働かせるという父親に、あの子は素直に従っていたんですか」


「そうだよ。あんなロクデナシの娘とは思えない、よくできた子だよ」


「18歳ですが、まだ高校生ですよ」


 七海の情報を教えてやると、女主人はまた顔をしかめた。

 その表情でわかったことがある。


「……父親は嘘をついていたんですね」


「ああ、娘は高卒だと聞いていたよ」


 18歳というのは、労働において大きな区切りになる年齢だ。


 18歳未満であればそもそもバーなどでの労働が禁止されているし、労働時間についても、22時以降のいわゆる深夜労働は禁止されている。


 18歳を超えていても高校生であれば、バーでの労働も深夜労働もどちらもアウトだ。七海の場合はこちらに当たる。


 つまり、18歳の高校生を働かせていたこの店は、法律的にかなりグレーなのだ。七海の父親――田之上の嘘は、娘を不当に働かせたうえに、この店にも損害を与えかねない。まともな大人のやることではなかった。


 知らなかったこととはいえ、この店に対しても苛立ちがつのる。


「あの子の父親は、、たぶん、信用できる人間ではありませんよね」


「何が言いたいんだい」


「あなたは、気づいてたんじゃないですか。あの子がまだ未成年で、学生で、こんな店で働いてはいけない立場だと、薄々は察していた」


 女主人は黙って話を聞いている。僕は続けた。


「ツケの代わりに自分の娘をよこすような人間が、まともに金を返すわけがない。回収できる見込みがないなら、代わりに働いてもらった方が得だと、そう考えたんじゃないですか」


「そりゃあそうさ、金は大切だからね」


 女主人は悪びれた様子もなく、ニヤリと笑う。


「田之上の連絡先は――」


 と問いかけた途端、女主人はこちらに背を向けた。

 これ以上は別料金、ということか。


「……カシスオレンジを」


 カクテルが出来上がるのを待っているあいだ、ナッツを手でつかんで放り込み、がりがりと噛み砕く。いくらか口の中の甘みがリセットできた。


「はい、お待ちどお」


 縦長のグラスの中で、オレンジの綺麗なグラデーションができていた。上が薄く、下に行くほど色が濃くなっている。南国の夕焼けのような色合い。


 グラスをつかんでひと息に半分ほど飲んだ。さっぱりした甘みと酸味が喉を通りぬける。後味にかすかにアルコールを感じるが、ほとんどジュースだ。


 グラスを戻すとき、コースターの下に一枚のメモ用紙が敷かれているのに気づく。手に取って確かめると、住所と電話番号が記されていた。なんて小粋こいきな情報提供の仕方だろう。このバーの雰囲気の良さも手伝って、洋画の登場人物にでもなったように錯覚してしまう。


 ともかく、欲しかった情報は得られたので、もうこの店に用はない。メモ用紙をポケットにねじ込み、立ち上がろうとしたとき、背後で扉が開いた。


「おーい、邪魔するよ」


 ただの客だった。3人連れの中年のサラリーマンだ。七海の問題とは関係なさそうなので、気にせず帰ろうと思ったが、


「ありゃ、今日は七海ちゃんはいないのかい」


 と残念がっているのを見て、僕はもう少し様子をうかがうことにした。

 まだカシスオレンジも残っている。


「ごめんねえ、あの子は今日はちょっと急用で来れなくなっちゃったんだよ」


 女主人のその言葉は、明らかにこちらに向けて発せられていた。僕は何ひとつ悪いことなどしていないのに、後ろめたい気持ちにさせられてしまう。


「そうかぁ、七海ちゃんの手料理が楽しみだったのになぁ」


「あら、あたしのお酒は?」


 と女主人が口元を押さえながら、わざとらしい猫なで声で問う。


 サラリーマンたちは、「ママのお酒も大好きだよ」「でも、それとこれとは」「なあ?」とあいまいに言葉をにごしながら、奥のテーブル席へと向かう。狭い店内を移動して、座席へと身体を滑り込ませる、その一連の動きは慣れたもので、いかにも常連客という風だ。


「あの子はここで、どういう感じで働いてたんですか」


 問いかけると、女主人はまたしても、こちらに背を向けてしまった。

 仕方ない。

 僕は残りのカシスオレンジを飲み干して、次のオーダーを告げる。


「カルアミルクを」


「女子かお前」


 隣から耐えきれなくなったように声が上がる。

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