先を考え始める人々
「長谷川さん、古井河先生」
いつものように夕食を終えて、だらりとした空気が流れているリビングにて。
七海が神妙な顔つきで僕たちを呼んだ。
先ほどまではソファに寝転がってスマホをいじっていたはずだが、今は姿勢を正している。というかソファの上で正座をしていた。
「えっと……、どうしたの? 水渡さん」
今日の洗い物当番の古井河が、台所から問いかける。
「実はあたし、受験しようと思って」
「――受験って、大学受験かい?」
二人のやり取りを聞くつもりだったが、思わず口をはさんでしまった。
何しろ時期が時期だ。もう十一月も半ばを過ぎている。狙う大学にもよるが、今から受験勉強に本腰を入れるというのは、かなりの出遅れだろう。
もちろん僕が受験生だったのはもう十数年も昔のことで、今は事情が変わっているのかもしれない。専門家の意見はどうなのだろうか、と台所に目を向けると、古井河は難しい顔をしていた。
「今から?」
古井河は蛇口の水を止めて、短く問いかける。
「はい」
「どの大学?」
七海が口にした大学は、彼女の母親が住む町の近くにある国立大学だった。
卒業後を――三人ぐらしが終わったあとを意識した進路選択。七海が先のことまで考えているのだと思うと、妙にしんみりした気持ちになってしまう。
感傷にひたる僕をよそに、古井河は教師の顔で念を押した。
「難関とまでは言わないけれど、簡単ではないわよ」
「わかってます」
七海は即座にうなずいた。目に力のこもった真剣な顔つきだが、少々、思い詰めているようにも見える。受験生なんて誰も彼も思い詰めているものだから、仕方がないのかもしれないが。
「そういうことなら、水渡さん。明日から家事は一切、やらなくていいから」
サポートを申し出ると、七海はソファの上で正座したまま、目を細めて肩を落とした。
「ごめんなさい」
謝罪しつつも、こちらの申し出を受け入れる七海。
それは意外な反応だった。
今までの彼女であれば「大丈夫です、家事もちゃんとやりますから」とゴネていた気がする。
甘えてくれた、ということだろうか。
口の端からため息がもれる。
「違うよ、水渡さん。そうじゃない」
「えっ?」
「君は悪いことをするわけじゃないし、もちろん僕たちも、迷惑だなんて思っちゃいない」
「あ……」
七海は顔を上げた。こちらの言わんとしていることに気がついた表情で、わずかに目をそらして、ぽつりとつぶやく。
「……ありがとう、ございます」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「古井河先生の目から見て、水渡さんの学力はどう? 合格できそう?」
七海が風呂に入っているあいだに、僕はそう切り出した。
入浴中の時間を利用して、その場にいない住人にはあまり聞かせたくない話をする――というのが完全にパターンになっていた。
「さっきも言ったとおりよ。基礎的な学力は十分だけど、受験勉強はそこからの積み重ねが大切だから」
古井河は洗い物を続けながら、こちらを見ずに答える。
「時間がない?」
「ええ。決心したのが夏ごろだったら、状況もまるで違っていたでしょうけど」
「それこそ夏ごろと今とじゃ、あの子を取り巻く状況が違いすぎる」
夏休みの頃の七海はムチャクチャだった。
母親との二人暮らしで、引越しが嫌で、だから宿代わりにとバイト先の副店長を頼ろうとする、行き当たりばったりな女子高生だった。おそらく経済的な余裕もなかった。
今になって大学受験の話が出たのは、新しい父親の助力のおかげだろう。
「家庭環境で進路が左右される子は何人も見てきたけど、やっぱり気持ちの良いものではないわね」
古井河は小さくため息をつき、目を細める。食器を洗いながら物憂げな顔をする女性には、不思議な色気がある。この感覚はいわゆるフェチ的なものなのか、それとも古井河だからそう感じているのか。
……最近、こういう自制を欠いた思考が多くなってきたように思える。
小さく首を振って、不埒な考えを頭から追い出す。
「そういう事柄に慣れないのは、君の良いところだと思うよ」
不意に食器のがちゃがちゃする音が止み、聞こえてくるのは蛇口からの水音だけになった。
「古井河?」
「長谷川君はいつもそうやって女性を落としてきたの?」
「今そんな軽薄な言動をしたつもりは全くないんだけど……」
冷たい声音での濡れ衣に、驚きつつもそう応じる。
何かに怒っているのだろうか、と古井河を見やるが、冷蔵庫の方を向いているので表情は見えない。ただ、その背中からはどこか、張り詰めた印象を受ける。
古井河もやはり疲れがあるのだろう。
学校の先生というただでさえ忙しい職業の、今はもっとも多忙な時期である。生徒を動揺させないように、学校での振る舞い方にも気を使っているはずだ。そんな彼女が感じているストレスは、僕などには想像もつかない。
そういえば、七海には伝えたけれど、古井河にはまだだったな。
「明日からは、古井河の分の家事も僕がやるよ。洗濯以外は、だけど」
「大丈夫なの?」
「そりゃあ決して楽じゃないけど、少なくとも君や水渡さんほどは大変じゃない。あとで返してくれたらいいからさ」
自分でそう言ってから、ふと、〝あと〟とはいつ頃になるのだろうかと考える。大学受験は冬いっぱい続くし、3月は高校の入試に卒業式、4月には入学式があるわけだ。しかし、そのときはもう、三人ぐらしは終了しているわけで。
思考停止に陥る寸前、古井河は無表情のままぽつりと、こちらに聞こえるか聞こえないかのギリギリの声でつぶやいた。
「ありがと、助かるわ」
「いやいや、なんのなんの」
笑顔でそう返すと、古井河は目を細めて、控えめにほほ笑んだ。
「……やっぱり、そうやって女性を落としてきたのね」
「いやいや、なんのなんの」
古井河の追及を、あいまいな返事でかわす。
冗談の裏側のメッセージは受け取ったけれど、今は何も返せない。彼女もきっと承知している。暗号を交換するスパイのような回りくどいやり取りに、心地よさを感じていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
受験勉強に力を入れるとなれば、アルバイトをしている時間はない。
十二月某日をもって水渡七海は退職することとなった。
最後のアルバイトを終えたあと、七海は各部署に退職のあいさつ回りをおこなった。菓子折りを持っていったのだが、搬入口に戻ってくるころには、両手では抱えきれないくらいの花束に替わっていた。
それだけではない。腕にはいくつも紙袋の持ち手を通していて、その中にはお土産がたくさん入っている。いかに七海が従業員たちから愛されていたのかがよくわかる光景だった。
「ちょっと長谷川さん、笑ってないで持ってくださいよ」
気の利かない男を不機嫌な声でせっつく七海。花束に隠れて表情はわからない。
「はいはい」
いくつか花束を抜き取ると、七海の顔が見えるようになる。瞳をうるませつつ、さみしげな苦笑いを浮かべていた。
「こんなにもらっちゃって、申し訳ないです」
「みんな君がかわいかったんだよ」
「そうですか? あたし、かわいいですか?」
「みんながね。娘や孫みたいって意味でね」
「うへへへ」
妙な笑い方をしている七海を見ながら、僕は切なさを感じていた。彼女に対してではなく、自分のことを考えながらだ。前にいちど僕がこの店から異動したときは、これほどのプレゼントはもらえなかった。この差はなんなのだろう……、と。
「長谷川さん?」
「ああ、いや。花束はどうする? 私の車に乗せておくかい?」
「――そういう話を店の中でするんじゃない。同居バレしたいのか」
と背後から鋭い声が飛んできた。
「あ、榊原主任。この度はお世話になりました」
七海が声の主に向かって深々と頭を下げる。
ばさっ、と花束がなびいて何枚か花びらが散った。
「すいません、急に辞めることになっちゃって」
「そうじゃないだろ」
不機嫌そうな顔で榊原は首を振る。
「え? ……あ、そっか! ありがとうございました」
七海はふたたび深々と頭を下げる。また花びらが散った。
「えへへ……」
「どうした?」
「実は長谷川さんにも似たようなこと言われたんです。悪いことをしたわけじゃないし、こっちも迷惑だとは思っていない、って」
「チッ……。そうか」
榊原は舌打ちしたあと、さらに嫌そうに口元を引きつらせる。ひどい反応である。
「じゃあ、あたしはそろそろ帰りますね。花束はちょっとずつでも、自力で持って帰りますから」
通用口の扉が閉まると、騒がしい女子高生がいなくなった反動で、一気に静かになったように感じる。有線放送は流れ続けているので、実際の音量は大して違わないはずだが、人の五感というのは奇妙なものだ。
「水渡は受験か」
扉を見据えながら榊原がつぶやく。
浮かない横顔をしているのは、主任として先のことを考えているからだと思い、僕はそっとフォローの言葉をかける。
「シフト調整がやっかいだと思うけど、私もできる限り協力するよ」
「長谷川は知ってるのか?」
「何を」
首をかしげてみせると、榊原はこちらをにらみ上げてきた。口を開こうとして、閉じる。めずらしく遠慮をしているらしい彼女の様子に、違和感を覚える。
「榊原主任?」
「あたしの見間違いかもしれないし、あまり気にすることじゃないのかもしれないが」
「どうしたんだい、めずらしく勿体つけた言い方をして」
軽口を投げてみても、榊原は重々しい態度を崩さない。
数秒ほどの沈黙のあと、ため息をついてから、言った。
「あいつ、他にもバイトしてるぞ」




