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両親からの電話

 その日、夕食の準備をしていると、お母さんから電話がかかってきた。

 近況報告のために、定期的に連絡を取り合っているのだ。


『七海ちゃん、今日もいい子にしてた?』


 お母さんの第一声に、あたしはスマホを耳元から遠ざけてため息をついた。


〝いい子〟なんて女子高生に使う言葉じゃない。先生だったら『親にとって子供はいくつになっても子供なのよ』とか言いそうだけど、あたしはそんな風に割り切れない。かといって、反抗心を表に出すほど子供でもないけど。


「うん、大丈夫」


 と当たりさわりのない答えを返す。


『長谷川さんと先生に迷惑かけてない?』


「ちゃんと世話になってる分は返してるつもり」


『そう。がんばってるのね』


「お母さんこそ、風邪とかひいてない? 寒いの苦手だったでしょ」


『平気よ、こっちはアツアツだから』


 電話の向こうでお母さんの声が弾んでいた。なんだかはしゃいでいる感じ。


「……アツアツ? 何それ」


『ちょっと替わるわね』


「え? ちょっとお母さん?」


 呼びかけると、返事の代わりにごそごそと音がした。

『いざ話すとなると緊張するな……』と迷っているらしい声や、『ほらほら、なんでもいいから早く』と急かす声が聞こえてきた。ちょっと遠いのは、電話を離してやり取りをしているからだろう。お母さんの声と、知らない男の人の声。


『あー……、もしもし』


 男性の声が聞こえた。

 若くはないけど、お年寄りというほどでもない。穏やかな男性の声だった。


「……はい」


 あたしはスマホを握り直して、次の言葉を待つ。

 電話の相手がお母さんとどういう関係なのか、わからないほどにぶくはないつもりだ。


『七海ちゃん、でいいのかな。洋美さんとお付き合いをさせていただいている者です――』



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 帰ってきた先生にさっきの電話のことを話した。


「それじゃあ、お母さんの再婚相手とお話したのね」


「ううん、再婚はまだ。籍は入れてないみたいだから」


「そうなの?」


「高校を卒業して、あたしが向こうへ行ってから、家族がそろったときに改めて、だって」


「ふぅん、なんだかいいわね、そういうの」


 先生は頬杖をついて、優しい笑顔を浮かべる。家族、という響きをうらやましがっているように見えた。


「センセも本腰入れて婚活してみたら? うちの母親でさえ相手が見つかるんだから、センセならイチコロでしょ」


「持ち上げるふりしておとしめてくるわね……」


「別にぃ、そんなつもりないけど」


 しゃべりながらあたしはテーブルに大皿を置いた。レタスやトマトでカラフルに盛り付けたサラダ。中央には厚切りのローストビーフたっぷりと乗せている。


「あら、豪勢ね」


 ごちそうを前にして先生の頬がゆるむ。


 続いてタイマーが鳴ったのでオーブンを開ける。グラタンも上手に焼き上がっていた。こんがりと焦げ目がついて、いい匂いが漂ってくる。


「まあ、こっちもおいしそう」


 あとは野菜たっぷりコンソメスープだ。人がそろってないので、加熱しようかどうしようか迷っていると、入り口のドアが開いて、申し訳なさそうな顔の長谷川さんが帰ってきた。スーツを着てる男の人って、3割増しくらいで格好良く見える。なんでだろう。


「お帰りなさい長谷川さん」


「ただいま。ごめんよ、仕事が長引いて」


「おかえりなさい、最近ちょっと遅くなってる?」


 と古井河先生が尋ねる。

 確かに先生の言うとおり、最近の長谷川さんは残業が増えている気がする。


「従業員が減っても仕事は減らないからね」


 長谷川さんは肩をすくめるけど、そんなに大変そうな様子じゃない。これくらいなら慣れっこって感じだった。やっぱり社畜なのかな……。


「大丈夫なの?」


「年の瀬が近づいたらこうなる。いつものことだよ」


 長谷川さんはコートを脱いでハンガーにかけると、そのままテーブルに着いた。


「仕事の話はよそう。今日はもっと景気のいい話があるじゃないか」


「景気のいい話?」


 と古井河先生が首をかしげる。

 強引な振りだったけど、先生の興味を引くことはできたみたい。


「誕生日おめでとうございます、センセ。これ、プレゼントです」


 あたしはこっそり冷蔵庫から取り出していたワインを、先生の目の前に置いた。


「えっ? ……誕生日? わたしの? プレゼント?」


 先生は素で驚いているみたいだった。声がいつもより高かったし、何度もまばたきをして、あたしと長谷川さんの間で視線を往復させている。


 しばらくすると気持ちが落ち着いたのか、先生は人さし指を伸ばしてワインボトルのてっぺんに触れた。ボトルの横腹にそって、指先でゆっくりとなぞっていく。底までたどり着くと、指で弾いた。キン、と涼やかな音が鳴る。


「ありがとう。すごくうれしいわ」


 古井河先生の笑顔は、今まであたしが見た中でいちばん作り物っぽさのない、純粋な微笑みのように見えた。


「三十歳の節目ですね」


 そう言い添えると、先生の笑顔が引きつった。まじまじとボトルのラベルを見つめて、


「……このワイン、三十年もの?」


「古井河と同い年だよ」


 長谷川さんがやさしい声で告げる。その口元はぴくぴくしていた。


「ふたりして女性の年齢をイジり倒して……」


 うつむいて肩を震わせていた先生は、やがて我慢できなくなったのか、がばりと顔を上げた。


「もういい。今夜は飲むわよ。あなたの三十年をわたしに見せてみなさい」


 ワインに向かって中ボスみたいなこと言ってる。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 そのあと、料理は無事に完食。

 ワインも宣言どおり先生ひとりで飲み干してしまった。


 酔いつぶれてしまった先生を布団に転がしてからリビングへ戻る。


「大丈夫そう?」


 長谷川さんが洗い物をしながら聞いてきた。


「吐いたりとかはなさそうです。珍しいですよね、あんなに酔っぱらうなんて」


「それだけ嬉しかったんだろう、水渡さんのプレゼントが」


「あたしたちの、です」


「うん、まあ、イタズラが成功したみたいで、悪い気はしないね」


 目線を手元に向けたまま、苦笑いを浮かべる長谷川さん。してやったり、っていう感じのその顔は、ちょっと大人らしくない。


「イタズラって……、子供みたいですよ」


「童心に返るってやつかな」


 長谷川さんは軽く顔をかたむけて洗い物を続ける。

 話が途切れてしまったので、あたしはソファまで移動して寝転がった。


 蛇口から流れ出る水の音と、かちゃかちゃと食器が当たる音を聞きながら、今日のことを思い返していた。


 お母さんからの電話と、知らない男の人の優しい声。


 あたしがお母さんのところへ戻ったら、二人は籍を入れるという話。


 あたしは二人の庇護ひご下に入り――家族になる。


 新しい父親は、たぶん悪い人ではないと思う。あたしの我がままで始めた三人ぐらしを、今すぐやめろだなんて否定しなかった。長谷川さんたちにも会ってみたいと言っていた。大らかな人だ。今までお母さんは男運がよくなかったけど、今回はいい人を引き当てたみたい。


 だけどその電話のせいで、終わりを意識してしまったのも事実だ。


 あたしの卒業と、三人ぐらしの終わり。


 今までそれは世界の終わりみたいに遠くにあったのに、あの人と電話口でやり取りしただけで、一気に現実味を持って感じられるようになってしまった。


 枕を胸に抱きながら、思う。


 早く大人になりたい。


 大人になって、自分の意思で、自分の決めたところへ行けるようになりたい。


 そしたら、中途半端にごまかさないで、ちゃんと告白ができるのに。


 子供を言い訳にしなくて済むのに。


 子供を言い訳にされずに済むのに。


 ちらりと長谷川さんを盗み見る。まだ洗い物の最中だけど、誕生日プレゼントの余韻よいんのせいか、ちょっとうれしそうな顔をしている。人の気も知らないで。


 沈んだ気持ちを紛らわそうとスマホを手に取った瞬間、電話着信でディスプレイが光った。


 表示されたのは名前ではなく数字の羅列られつ

 知らない番号からの電話なんて、別に珍しいことじゃない。いつもなら気にせず着信拒否するだけなのに、今日はなぜかその番号に不吉なものを感じて、目が離せなかった。


 画面に触れて、おそるおそる、スマホを耳に近づける。


『七海か?』


 不躾ぶしつけな声だった。

 ほんの短い言葉なのに、高圧的な態度が伝わってくる。


 あたしはソファから立ち上がると、長谷川さんの部屋を通ってベランダへ出た。

 嫌な予感がした。

 この人との会話を聞かれたくない。切実にそう思った。


「……どちら様ですか」


『おいおい、悲しいことを言うなよ』


 男はきっと電話口でニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。


『実の父親の声を忘れちまったのか?』

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