〝恋愛感情の表明があった場合〟
「あたしは長谷川さんが好きです」
嵐のような質問責めの終わりに、静かに告げられた言葉。
それが車内に染み渡り、しん、と沈黙が下りる。
涙目の七海とじっと目を合わせたまま、無言の時間に耐えていた。
ここで安易に目をそらしたり、ごまかしの言葉で逃げるのは彼女に失礼だろう。
それに、不甲斐なさも感じていた。こんな風に吐き出してしまうほどに不満を貯め込んでいたことに、気づいてやれなかった。
ともに過ごした時間はそれなりだが、その感じ方はまったく違うのだ。
この歳になって改めて〝多感〟という言葉の意味を思い知る。
かといって、すぐに返事をするのも軽薄だ。
そもそも僕は答えを持っているのだろうか。
考えがまとまらないまましゃべりだそうとして、口の中がカラカラに乾燥していることに気づく。ごくりと喉を鳴らして口内を湿らせ、
「僕は――」
「――ごめんなさい!」
こちらの返事にかぶせるように、七海は大声で謝りつつ、顔の前で手を合わせた。
「え?」
「今のは聞かなかったことに――じゃなくて、あたしの独り言をうっかり聞いちゃった体にしてください」
「……どういうことだい」
急な話に戸惑いながらも聞き返す。
ホッとした気持ちの方が強いのは表に出さない。
「先生が言ってた、あの卑怯な三つの条件、覚えてますよね」
「今まさに思い浮かべていたところだよ。……卑怯?」
七海が言っているのは、夏休みの終わりに古井河が出した、三人ぐらしの終了条件のことだ。
ひとつ、仕事に支障をきたすことになった場合。
ふたつ、誰かがこの暮らしを嫌になった場合
みっつ、恋愛感情の表明があった場合。
先ほどの発言は明らかに三番目の条件に該当している。
そう思ったのだが、
「まあ、取り消すなら別に」
「取り消しじゃないです。ちゃんと話を聞いてください」
「申し訳ない」
ちゃんと話を聞けと女子高生に怒られてしまった。
謝りつつも「じゃあどういうことなのか」と視線で説明を求める。
今になって恥ずかしさを感じてきたのか、七海は顔を赤くしてうつむきながら話を始めた。
「……こっ、告白自体を取り消すわけじゃなくて、独り言を盗み聞きしたことにしてください」
「盗み聞きはちょっと人聞きが悪いんじゃないかな」
「じゃあ立ち聞きでも又聞きでもいいですから」
なるほど。
七海の意図が見えてきた。
うっかり聞かれてしまった――つまり、伝えるつもりはなかったのに伝わってしまったのなら、それは〝告白〟ではなく〝独白〟となる。
古井河が提示した条件は〝恋愛感情の表明があった場合〟。
〝表明〟という言葉には、面と向かって相手に明かす、というニュアンスがある。
しかし、独りごとであれば、相手に伝えるつもりはなかったと言い訳ができる。
「あたし、この生活を終わりにされたら、路頭に迷っちゃいますから、助けると思って、お願いします」
七海はぺこりと頭を下げた。戻した顔には苦笑いが浮かんでいる。
「卒業まで返事はいりませんから。センセには内緒にしておいてくれませんか?」
大したものだと感心した。
つい先ほどまで、明らかに冷静さを失っていたというのに、ほんの数分でもう立て直している。
だけど、涙や鼻水の跡はそうはいかない。
助手席と運転席の間に置いてあるティッシュ箱から、二枚取って差し出した。
「わかった。古井河には黙っておくよ」
「ありがとうございます」
七海はティッシュをひったくると、僕に背を向けた。
鼻をかんでいるのだろう、丸まった背中を横目に、思う。
告白への返事以外の疑問には、しっかり答えないといけない。
――誠治さんって呼ばれるの、元カノを思い出すのが嫌だったんですよね。
「あの呼び方は……、認めるよ、君の言うとおりだ」
「えっ?」
七海がこちらを振り向いた。いきなりしゃべりだしてどうしたんだろうこの人、という戸惑いの顔だ。僕は彼女の愚痴を思い出しつつ、話を続けた。
――ブルーのマグカップ、未練があって捨てられなかったんですか。
「あのマグカップは片づけるのを忘れていたんだ、本当だよ」
「……あ」
と七海は口を丸くする。
僕の独り言が何を意味しているのかに気づいた様子だ。
――っていうか、センセとは本当に何もないんですよね。指輪とか贈ってないですよね。
「古井河とは何もないよ。贈り物もしていない」
「じゃあセンセのあれは根拠のない余裕……、はったりってこと? 帰ったらとっちめてやる」
握った右手を左手で受け止める仕草をしながら、物騒なことを言っている。
――あたしの服と髪型、いつもと違うんですけど、何も言ってくれませんよね。
「服装と髪型は……、申し訳ない。注意力散漫だったんだろうね。よく似合ってるよ」
「……遅いですよ、もう」
不機嫌ですとアピールするように唇を尖らせるが、その目元は笑っている。感情を抑えきれていないところが、年相応でかわいらしい。
――あたしたちって、あの人の代わりなんですか。
「代わりだなんて考えたことはないけど……、タイミングの問題があったことは認める」
「タイミング?」
「彼女とまだ一緒だったら、三人ぐらしは始めていない。はっきり言えるのはそこまでだ」
覚えているかぎりの質問に返事をし終えて、シートに背中をあずける。
思わずため息がもれた。
ここ数日のあいだ心の片隅に押しのけて、見ないようにしていたものがたくさんある。それらと改めて向き合って、ひとつひとつ、自分なりに折り合いをつけていくというのは、なかなか精神的にキツい作業だった。
七海はおそらく僕とは違って〝見ないようにする〟という一時しのぎができなかった。その結果が、さきほどの不満の爆発なのだろう。
「どうして正直に答えてくれたんですか。あたしが可哀想だからですか?」
その問いかけはただシンプルに、浮かんだ疑問を口にしただけという感じだった。今はもう爆発するほど貯め込んだものはなさそうだ。
「違うよ」
「じゃあ、いつものアレですか、大人の責任とか」
「大人も子供もない。僕のこれは……、謝罪の代わりだよ」
七海はぱちぱちと目をしばたいた。
「謝罪……」
「泣かせてしまったからね」
「うわ、その返し、ちょっとキザじゃないですか」
「そうかな」
「そうですよ……、でも、はい、そういうことなら許してあげます。だって」
七海は口元を押さえてくすくすと含み笑いをし、その笑顔のまま上目遣いにこちらを見た。
「だって?」
「さっき自分のこと〝僕〟って言いましたよね。あたし相手のときは、いつも〝私〟って言ってたのに。そーゆーの、なんか嬉しいから」
七海の指摘のとおり、僕は仕事とプライベートで一人称を切り替えている。さらに言えば、プライベートであっても年下や他人に対しては〝私〟という一人称を使うことが多かった。
今の僕は、その使い分けができていなかったのだろうか。
思い返してみるが、覚えがない。
その時点で七海への距離感が狂ってきているのかもしれなかった。
「一本取られたな」
「おじさん臭いですよそれ」




