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嘘と饒舌

 僕が持つよという長谷川さんの申し出は無言で断った。

 買った布団を両手で抱えて歩いていく。

 右手首には、お高いワインが入った紙袋。持ち手がこすれてちょっと痛痒いたがゆい。


 せっかくのデートだったのに、あたしはとてもむしゃくしゃしていた。

 昨日の夜から立て続けに心を乱される出来事があったせいだ。

 長谷川さんのせいだ。全部。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「あの二人、お互い嫌いになって別れた感じじゃないわね」


 昨日の夜、長谷川さんと瀬戸さんが部屋を出ていったあと。

 先生はリビングのドアを遠い目で見つめながら、そんなことを言った。


「どちらかに――たぶん瀬戸さんの方に何か事情があって、距離を取らざるを得なくなった。でしょ? 桐子ちゃん」


 ちゃん付けで呼ばれた榊原主任は舌打ちをして、


「桐子ちゃん言うな。……そうだよ、あんたの考えてるとおりだ。美月の親父さんが病気になって、看病のためにあいつは仕事を辞めた」


「誠治君に黙って?」


 見透かすような先生の言葉。

 それは当たっていたみたいで、主任は顔をしかめつつうなずいた。


「ああ。でも、その親父さんが亡くなって、いろんなことが片付いたところで、今も忘れられないでいる元カレに会いに来たんだよ」


「なるほどねえ」


「ところが、その元カレはこんなただれた生活を送ってるときた」


 主任がふんぞり返ると、ぎし、と椅子が音を立てる。


「そんなことないわ。きわめて健全な暮らしよ。ねえ、水渡さん」


「えっ……、あ、はい。エロはないです」


「そうじゃない。他人の目からどう見えるかってこった」


「まあ、そこは否定できないわねえ」


 そんな話のあと、主任のスマホに美月さんから連絡が入ると、主任は怒ってるような、寂しがってるような、複雑な顔をして部屋を出ていった。


 二人だけになったリビングで、先生がぽつりとつぶやく。


「……だから、わたしたちを拾ったのかしら」




 戻ってきた長谷川さんは、あたしたちに心配をかけまいとしているのか、仮面みたいな雑な笑顔を張りつけていた。それが逆に不安だったけど、あたしも先生も声をかけることができなかった。


 長谷川さんだけに気を遣ったわけじゃない。

 三人ぐらしというあたしたちの現状そのものに、三人ともが気を遣った結果なんだと思う。

 今はそっとしておこう、って目配めくばせをして、棚上げにした。


 翌朝になると、長谷川さんはすっかり元気だった。

 あたし自身忘れていた約束を守ってくれて、二人で出かけることになる。


 おかげで服にはちょっと気合が入ってしまった。


 足のラインがはっきり出るスキニージーンズをはいて、上は白のニットのインナーに、赤のカーディガンを羽織った。髪型だって少しいじったのだ。悪くないコーデだと思うんだけど、長谷川さんはあたしの服装なんて全然気にしていなかった。


 あたしの不満顔から察したのか、出かける直前に古井河先生が言った。


「仕方ないわよ、女子高生に一番似合う服はもう決まってるんだから」


 ティーンのおしゃれを全否定する言葉だった。




 それでも、ショッピングモールで長谷川さんが優しくしてくれるたびに、気持ちはちょっとずつ上がっていった。


 約束を覚えててくれたこととか。


 先生への誕プレを一緒に買ったこととか。


 雑談の中で子供扱いされることにさえ、居心地のよさを感じたりして。


 だけど、それらは風船みたいなものだった。

 カラフルで見栄えはするけど、軽薄で中身のないもの。



「親戚の子だよ」



 だってその一言で、積み重なった楽しさが全部、吹き飛んでしまったから。


 その場しのぎの方便なのはわかってるし、嘘をつくのが嫌なわけじゃない。


 あたしと長谷川さんの関係は、嘘でごまかさなきゃいけないものなんだ。

 それを思い知らされるのがつらかった。

 この場にいたのが先生や瀬戸さんだったら、嘘なんて必要なかったのに。

 二人との差を痛感して、虚しくなった。


 心の空白はそんなに長くは続かなかった。

 ここ数日の記憶で満たされて、かき混ぜられて、腹が立ってきた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 駐車場まで戻ってきた。

 後ろの席に布団を押し込んで助手席に座る。ワインはあたしの膝の上だ。

 長谷川さんは運転席についたけど、なかなかエンジンをかけようとしなかった。

 感じの悪い態度を取ってしまった手前、こっちから話しかけることもできない。


 沈黙の中で考える。

 お母さんの街へ行ったときにも感じたけど、二人で車に乗るのって、ありふれてるのに特別なことだ。


 密室で、あまり身動きも取れなくて、手を伸ばさなくても触れられる距離で。運転はドライバーに任せっきりで。それは大げさに言うなら、自分の命を預けている状態だ。握られているとも言えるかもしれない。

 それもいいなって、少し思った。

 あたしの命はあたしのものだけど、長谷川さんになら握られてもいいかな、なんて。


「水渡さん、さっき何か――」


 長谷川さんがやっと口を開いた。

 腫れ物に触るみたいな問いかけに、大きな声で質問をかぶせる。


「瀬戸さんのどういうところが好きだったんですか」


「え?」


「綺麗ですし、仕草とかかわいいし、男の人からすると、守ってあげたくなるって感じの人ですよね」


「水渡さん?」


「まだ好きなんですか?

 もう好きじゃないんですか?

 それとも、また好きになりましたか?」


「ちょ、ちょっと待った――」


 困惑している長谷川さんの言葉を、またあたしは声を張ってさえぎった。


「――答えてくれなくてもいいです。ただの愚痴ぐちです。ボヤキです。一方的にブツブツ言ってるだけですから」


 順番なんてバラバラで、理屈も通ってない、言いがかりみたいな疑問を、次から次へと投げつけていく。


「誠治さんって呼ばれるの、元カノを思い出すのが嫌だったんですよね」


「あのブルーのマグカップ、未練があって捨てられなかったんですか」


「戻ってきたときすごい落ち込んだ顔してたのに、ひと晩寝たらすっきりしてるのってなんなんですか。落差がすごくて、逆に不安になります」


「センセはセンセで何考えてるのかよくわかんないし――っていうか、センセとは本当に何もないんですよね。指輪とか贈ってないですよね。だって、こんなにいろいろあっても余裕なのって、怪しいじゃないですか。何かり所があるからじゃないかって疑ってしまいます」


 密室での質問からは絶対に逃げられない。

 声は車内で反響して、全部が相手の耳に届く。

 無視はできても、聞かなかったことにはできない。


 だけど、それは自分も同じこと。


 質問責めの雨あられは、あたしの耳にも届いてしまう。

 自分の幼さや我がままっぷりを、改めて思い知らされる。


 それでもかまわなかった。例えるなら、土砂降りの雨の中に飛び出して、わざと濡れネズミになるような、投げやりな心地よさだ。濡れた服をどうしようか、なんて後のことさえ考えなければ、それはけっこう楽しい開き直りだった。


 そのはずなのに、いつの間にか、あたしはうつむいていた。

 視界がにじんでくる。


「あと、あたしの服と髪型、いつもと違うんですけど、何も言ってくれませんよね。ご飯は新しいのを作ったら、新メニューだねってすぐに気づいてくれるのに」


「ふたり暮らししてた頃ってどんな感じだったんですか。やっぱり瀬戸さんが料理を作ってたんですよね。長谷川さん、あんまり自炊してないみたいだったし」


「そのときも、おいしいって笑顔で食べてたんですか。

 いつもありがとうってお礼を言ってたんですか。

 ――あたしたちって、あの人の代わりなんですか」


 人の過去に土足で踏み入るような、ひどい言葉が次から次へと転がり出てくる。子供扱いを逆手に取って、長谷川さんの甘さを計算して、何を言っても許されるだろうって。


 途中からは、そんな小賢こざかしい考えは飛んでしまっていた。


 全部吐き出そうと決めてしまったら、あれは出して、これは出さない、なんていちいち選んでいられない。そんな器用なことはできなかった。


「あたしは、代わりになるつもりなんて全くないですけど」


 顔を上げたら涙があふれた。

 頬を伝って、ぽとりと落ちる。

 それだけなら絵になるのに、鼻水も出そうだったから、あわてて鼻をすすった。

 ずずっ、と不細工な音。

 涙は女の武器と言うけれど、あたしには使い方がわからない。


「あの人と一部だけ、よく似たところがあるのは認めます」


 長谷川さんと目を合わせる。

 どんなにみっともない顔でも、こういうことを言うときくらい、相手をまっすぐ見ていないと、何も伝わらないと思ったから。


「あたしは長谷川さんが好きです」

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