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約束の日

 昨晩は仕事着のまま寝てしまったので、シャワーを浴びてさっぱりしてから服を着替える。リビングのカーテンを開けると、室内が朝日で満ちた。いい天気だ。


 ソファで眠っていた七海がまぶしさに顔をしかめ、目をこする。


「ん……、おはようございます……」

「おはよう」


 七海はすぐには起き上がらない。寝転がったままでこちらを見上げてくる。


「なんか普通……、むしろ、元気ですね」

「早めに寝たからね」

「ちゃんと、眠れたんですか」

「ああ。それで、今日はどうする?」

「えっ? ……あ!」


 七海は驚いた顔で、はじかれたように上半身を起こす。

 今日は買い物に行くと約束をした日なのだが、すっかり忘れていたらしい。昨日はバタバタしていたから仕方のないことではあるが。


「いいんですか?」

「約束してたじゃないか」

「そういうことじゃなくて……」


 七海は不安そうに眉を寄せる。昨日の夜、帰ってきたときに向けられたのと同じ表情だ。


「ん~、おはよ~……」


 そこに起き抜けの古井河が、寝ぐせの多い髪の毛を押さえながらやってきた。

 眠そうな顔をしていた彼女だが、僕たちの間の微妙な雰囲気を感じ取ったのか、すぐに表情を引き締める。

 しかしその口から出る問いかけは相変わらずだ。


「どうしたの? 何かあった? 寝込みを襲われた?」

「その心配は今さらじゃないかな」

「満を持して、ということもあるでしょ」

「今日は水渡さんと出かけるから」


 面倒くさい流れになる前に話を変える。


「……それって、デート?」

「違うってセンセ、ただの買い物だから」


 古井河のからかうような問いかけを、七海は手のひらを左右に振って否定した。

 意外な反応である。

 いつもの七海なら、もう少し挑発的な言動をしている場面のはずなのだが、今の彼女は思いのほか冷静だった。

 大人ふたり、思わず顔を見合わせてしまう。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ショッピングモールへ向かう車の中でも、七海は口数が少なかった。

 運転中はずっと助手席からの視線を感じていたが、赤信号で停まったときに七海を見ると、彼女はすでに窓の外へと顔を向けている、その繰り返しだった。


 何か言いたいことがあるのだろうか。あるのだろう。昨夜のことを聞きたいが、立ち入った話をするのも気が引けるから黙っている、といったところか。


 車を降りて、ショッピングモールの入口へ。

 広場にある案内図を横目に、七海に話しかける。


「水渡さんはよく来るの? ここ」

「まあ、割と。月イチくらいです」

「じゃあ案内は任せるよ」

「はい、任されました」


 七海は自信ありげにうなずくと、迷いのない足取りで進んでいく。

 人混みをかきわけてたどり着いたのは、家具や衣料、生活雑貨などを専門に扱っている店だった。布団も置いてある。


「ここは?」

「『ウキウキ良品』ですよ」

「それはさすがに知ってる」

「じゃあなんです?」

「いきなり布団を買ったら、持ち歩くのが大変だろう」

「……布団を買う以外にも、あちこち見て回ってもいいってことですか」

「この前そう約束したじゃないか」


 七海はぱちぱちと目をしばたくと、恐るおそるといった様子で、一歩、距離を詰めてくる。


「それなら、ちょっと見たいものがあるんですけど」


 まだ遠慮ぎみではあるが、七海は頼みを口にした。

 僕は軽くうなずいて応じる。それでいい。子供に遠慮されると大人のプライドが傷つくのだ。ここはひとつ、彼女の興味のあるものを買ってあげてもいいかもしれない。値段にもよるが。


 などと気前の良さを見せるチャンスをうかがっていたのだが、


「ダメだ、ここはいけない」


 やってきたのはワインの専門店だった。


 店頭には年季の入った酒樽が並んでいる。もちろん中身は空っぽ。雰囲気作りとディスプレイ用の備品だ。控えめな音量でピアノジャズが流れている。


 未成年が酒に興味を持つのは仕方ないことだが、七海のそれは、もしかしたら古井河の影響かもしれない。帰ったら注意をしなければと考えていると、七海が首をかしげて聞いてきた。


「長谷川さん、なんか勘違いしてません? あたしじゃなくて、センセに買ってあげようかなって思っただけですよ」

「古井河に? どうして?」

「誕プレです」

「たんぷれ」

「誕生日プレゼントの略です」

「いちおう知ってるけど、実際に聴いたのは初めてだよ。耳慣れない響きだね」

「ジェネレーションギャップですね」


 からかうように笑う七海に、こちらも苦笑いを返す。


「そうか、もうすぐ古井河の誕生日なのか」

「知らなかったんですか?」

「この歳になると、あまり意識しなくなるからね」

「そうですか? センセはすごく意識してましたけど。暗黒のオーラ背負ってましたよ」


 七海は口元を押さえてニヤニヤしている。その表情を見て、彼女の企みをなんとなく察してしまう。


「生まれた年のワインでもプレゼントするつもりかい?」

「長谷川さん、発想が鬼畜キチクいですね」

「面白そうだ」

「でも、そーゆーのってお高いかもしれないから、下見をしたかったんです」

「そういうことなら協力するのもやぶさかではないよ」

「やぶさかってなんですか?」

「思い切りが良くない、みたいな意味じゃなかったかな」

「じゃあ、やぶさかではないっていうのは、思い切りがよくなくない……、つまり、ノリノリで協力するってことですね」

「それじゃあ古井河の三十路みそじ到達を喜んでいるみたいに聞こえるじゃないか」


 店員さんに話を聞くと、誕生年ワインはプレゼントとしてなかなか人気があるらしい。気になるのは値段だが、30年物でも安いものなら一万円台前半からと、意外とリーズナブルだった。


 もっとも、それはこちらの経済力や金銭感覚での話だ。高校生にとって数千円の出費はなかなか大きい。七海は難しい顔でワインの値札をにらんでいた。


「割り勘にしようか」

「いいんですか?」

「酒よりも古井河が喜びそうなものが思い浮かばないんだ。連名にしよう」

「連名で贈り物する二人って、特別な関係って感じがしますね」

「そうだね」


 適当に返事をすると、七海はふくれっ面になる。だんだんいつもの調子が戻ってきているようで何よりだ。


 そう思っていたのだが、何事も簡単には進まない。




 ワイン専門店を出てから、次はどこに向かうのかと七海の先導に従っていると、横合いから声をかけられた。


「……長谷川?」


 声の主は中肉中背の冴えない風体の男性。高校時代の旧友だった。


「偶然だね」

「久しぶりだな、同窓会ぶり……? ……おい」


 あまり表情豊かではない旧友が、めずらしく口元を引きつらせる。

 その目は僕のすぐ後ろへ向けられていた。アラサー男性に同行している十代の女の子、すなわち水渡七海へと。


「お前まさか、とうとう……」


 事案を疑われている視線だった。

 七海を連れている時点で、知り合いに出会ったときの反応も予想はしていた。

 こいつの場合は面白半分なのだろうが、下手な対応をして怪しまれるわけにはいかない。


「親戚の子だよ」


 僕は用意してあったストーリーをすらすらと語った。


「今日は一人でこっちへ出てきたんだけど、危なっかしいからついてやってくれって、親御さんに頼まれたんだ」


「はい、誠治おじさんは潔白ですよ」


 合いの手を打つように、七海はほがらかに答える。設定をきちんと覚えているのはいいが、わかっていてもおじさんと呼ばれるのはやはり精神的にきつい。


 とはいえ、七海の物言いははっきりしていて、怪しいところはまったくない。逆に疑っていた者が自らの心の汚さを恥じ入るような清々(すがすが)しさだった。


「疑って済まなかったな」

「下衆の勘繰りってやつだ」

「お前はいつもひとこと多いな」


 あっさりと疑いを取り下げ、旧友は去っていった。


「どうにか切り抜けたか。いい演技だったよ」


 声をかけつつ振り返る。


 そこに、先ほどまでの朗らかな少女はいなかった。


 七海の顔からは感情が抜け落ちていた。


 表情を作ることを放棄してしまったかのような脱力感を、彼女から感じる。


「……水渡さん?」


 そのあまりの落差に心配して呼びかけると、七海は無言で歩きだした。走ってこそいないものの、普通に歩いていては見失いそうな速さだった。


 小走りにあとを追っていくこと数百メートル、七海はようやく立ち止まった。そこは最初に訪れた家具・生活雑貨店の前だった。



 ――いきなり布団を買ったら、持ち歩くのが大変だろう

 ――布団を買う以外にも、あちこち見て回ってもいいってことですか



 そんな話をした後で、ふたたびここへ戻ってきたのだ。


「布団、買ってきます」


 こちらの目を見てはっきりと七海は言った。

 その言葉は『もう帰ります』と同義だ。

ショッピングモールで知人とばったり出会いすぎなのはご都合主義ではありません……。

地方都市のイオンモールにおける、知人との遭遇率の高さを再現しただけなのです……。

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