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区切り

 古井河に腕を引っ張られてリビングへ。

 そこには古井河を含めて4名の女性がいた。なぜか全員立ち上がっている。


 同居人の二人に加えて、職場の同僚の榊原。


 そして、瀬戸美月。


 彼女たちが来ているという予感はあったが、それでもやはり、こうして目の当たりにすると、驚きは大きい。つばを飲み込み、かける言葉を探す。


 久しぶりの再会だが、美月に以前と変わった様子はない。表情が硬いのは、こういう状況なので仕方がないだろう。彼女らしい清潔感のある服装を懐かしく思う。


 美月がこの部屋にいる、その事実だけで少し目眩がした。

 二人で暮らしていたあの頃と、三人で暮らしている今が重なったような錯覚。


「み――瀬戸さん。久しぶり」


 四人の視線がこちらに集中するなか、僕はどうにか声を絞り出した。きちんと発音できているだろうか。


「お久しぶりです、長谷川さん」


 美月ははかなげに笑いながら、軽く頭を下げる。

 交わすあいさつはやはり他人行儀だった。

 数年ぶりの再会で、どんな態度で接すればいいのかわからない、という理由ももちろんある。しかし、他の人に見られているなかで、再会した元恋人らしいやり取りができるわけもない。


 まず七海の顔色をうかがう。

 目を合わせた途端、ふいっと顔を逸らされてしまった。

 何もやましいことはないはずなのに、胸に罪悪感が広がる。この感情はなんだろう。教育上よくないものを見せてしまったような気分だ。


 続いて古井河。

 相変わらず、楽しそうに笑っている。

 女性二人との同居という常識を疑われるような所業しょぎょうを、よりにもよって元恋人に知られてしまった男が、どのような末路まつろをたどるのか、ワクワクが止まらない、という顔だった。


 最後に榊原。

 鋭くも冷たい目つきでこちらをにらみつけている。

 女の敵、性犯罪者予備軍、人事部に頼んで異動してもらってもいい? ちょっと同じ職場で働くのはキツイから――などの敵対的な幻聴が聞こえた。


 とても落ち着いて話のできる環境ではない。

 数秒ほど迷ったが、ここで誰を優先すべきかは決まっている。


「……少し、外で話そう」


 美月に声をかけると、彼女はパッと顔を明るくしてうなずいた。こういう反応も昔と変わらない。周りに気を遣うように伏し目がちでこちらへ歩いてくる。


 ドアを開けてリビングを出ようとするとき、


「お風呂のお湯は抜いてても大丈夫?」


 と古井河が声をかけてくる。

 帰りは遅くなるのか、という遠回しな問いかけだった。

 そういう生活感を印象づける発言は控えてほしい。だいたい古井河は風呂掃除なんてしたことないじゃないか。


「そんなに長くはかからないから」


 短く返事をしてドアノブに手をかけたが、それをひねる前に今度は七海が話しかけてきた。


「お肉なくなっちゃったんですけど、どうしますか? 買ってきましょうか」


 そういう献身的な問いかけはやめてほしい。材料が足りなくなったらいつも買いに行かせているろくでなしみたいじゃないか。


「いや、肉抜きでもいいよ」

「ごめんなさい、わたしたちが食べすぎちゃったから……」


 美月が申し訳なさそうに謝るのを、榊原のヤジが邪魔する。


「はっ、肉欲は衰退したのか」

「桐子ちゃん!」

「別に朝帰りでもいいんだからな」


 僕は返事をせずに部屋を出た。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 アパートを出た僕たちは、特に向かう当てもなく夜道を歩いた。住宅街は人通りもほとんどなく、二人分の足音が不規則に響く。まばらな外灯の頼りない光に、羽虫が数羽だけ群がっている。

 美月は僕の半歩うしろをついてくる。付き合っていたころと同じだ。こちらが声を掛けないと、なかなか隣に並んでくれない。万事ひかえめな彼女の、それがいつもの立ち位置だった。


「本当にごめんなさい、桐子ちゃんがケンカ腰で」

「榊原の立場なら、文句をつけたくなるのも仕方ないさ」


 友達をかばう美月に、僕は苦笑いで応じた。

 この三人ぐらしが非常識なのは間違いないし、自覚もしている。そして、非常識な上司に対して、部下が反感を持つのも仕方のないことだ。ローキックの鋭さが増すのはまだいいが、長谷川なんて蹴る価値もない、という風に思われる方が精神的にこたえそうだ。


「でも……、あの二人は長谷川さんのこと、信頼している様子でした。桐子ちゃんも口で言ってるほど悪くは思ってないですよ、きっと」


 美月の声は心持ち弾んでいた。

 僕がいない間、4人で鍋を囲んでどんな話をしていたのだろうか。非常に気になるところだが、今は先に聞いておくべきことがある。


「――どうして今になって、うちへ来たんだい?」

「いろいろなことがひと段落したから、その報告に」


 美月の返事はシンプルだった。

 それで十分伝わるとわかっているからだ。


 美月は僕たちと同じ会社に勤めていたが、数年前に退職している。それと同時に、僕との付き合いも終わってしまった。

 彼女が辞めた理由は、末期がんにかかった父親の看病のためだったのだと、あとになって榊原から聞いた。

 それらがひと段落したということは、つまり――


 立ち止まって、半身で振り返る。

 美月は両手を前でそろえて、接客の見本のような立ち姿で待っていた。


「そうか……。お疲れ様、と言ってもいいのかな」

「はい、ありがとうございます」


 すっきりした笑顔に、引っかかりのない言葉。

〝いろいろなこと〟は彼女の中で消化できているようだ。


 ならば、それ以上は何も言うことはない。

 納得して歩き出そうとしたら、腕に引っかかりを感じ、振り返る。

 スーツの袖口を、美月の細い指がつまんでいた。


「ごめんなさい、あのとき、ちゃんと話をせずにいなくなってしまって」

「過ぎたことだよ」

「わたしは……、そうは思ってません」

「美月?」

「わたしはまだ、誠治さんが好きです。虫のいい話だってわかってます。でも今日は、それを伝えるために来たんです」


 なんの駆け引きもない美月の言葉は、曖昧にしていた現状への問いかけだった。

 僕は誰をどう思っているのか。

 はっきりさせることを強要する、とても強い言葉だった。


 もう数か月早く――この三人ぐらしを始めるよりも前に、そう言ってくれていたら、僕は美月とふたたび付き合っていただろう。

 別れたのはお互いを嫌ったからではない。一度離れたことで、ぎこちなさや違和感は残るかもしれないが、それでも一緒にいることに迷いはなかったはずだ。


 だけど、今は。


 明らかに同居人への気遣いを優先している自分がいる。

 古井河を、七海を、そして美月を、比較してしまう自分がいる。


 美月に限らず、誰かと付き合うことになれば、今の暮らしは終わってしまう。恋人に黙って二人の女性と同居を続けるような厚かましい精神力は僕にはないのだ。必然的に、三人ぐらしは終了せざるを得ない。


 自分の我がままで始めたこの生活を放り出して、美月との付き合いを再開することはできない。それは確かだ。彼女への好意よりも、三人ぐらしへの責任感の方が強い。強くなっていた。

 ――責任感。それ単体ならば格好いい言葉だが、本当はただの言い訳に過ぎないのかもしれない。


 以前の僕は、すべてをなげうって美月を求めるほど、彼女を本気で想っていなかったのではないか?

 その疑いは、かつての想いを揺らがせた。

 過去の揺らぎは現在の足元さえも不安定にさせる。


 誰を選ぶのか、などと積極的なことは考えられなかった。わかっているのは、今さら美月を選ぶことはできないという、消去法めいた結論だけだ。

 それを静かに行動に移す。


 スーツの裾をつまんでいる美月の手に触れると、彼女は嬉しそうに顔を上げた。

 違うんだ、と心の中で詫びる。

 手に触れたのは、君の言葉を受け入れたからじゃないんだ。


 美月の手を押さえたまま、僕は自分の腕を引いて、彼女の指を外した。


「あ……っ」

「ごめん」


 短く言って、前を向く。


「寒くなってきたし、もう戻ろう」


 美月からの返事はなかったが、歩き始めると、数メートル遅れて足音がついてくる。




 アパートへ到着すると、美月はエントランスで立ち止まった。


「わたしはここで桐子ちゃんを待ってます」

「そうか」

「はい。今日はいきなりお邪魔してごめんなさい」

「いや、大した歓迎もできなかった」

「お鍋をごちそうになりましたから」

「そうか……」

「気持ち、伝えられてよかったです。ありがとうございました」


 感情が抑えられた美月の笑顔に、こちらも相応の態度で返事をする。

 声のトーンや表情の端々に、湿っぽさを残してはならない。


「それじゃあ、元気で」

「はい、長谷川さんも」


 短く言葉を交わして、僕たちは別れた。

 とうの昔に終わっていた関係に、今ようやく区切りをつけて。




 階段の途中で、下りてくる榊原とすれ違った。


「こういうことは個人の自由だって理解はしてる、でも納得は別だ」

「ひいきがあるのは当然だよ」

「しばらく当たりが強くなっても文句言うなよ」

「君の厳しさはいつもありがたいと思ってる」


 最後の返事は舌打ちだけだった。




 部屋へ戻ると、リビングで二人が待っていた。

 ソファに横たわった七海は、枕を抱いて心配そうに唇を結んでいる。

 テーブルに座った古井河は、見守るような苦笑いを浮かべている。

 どちらも気を遣ってくれたのだろう。出ていくときと違って何も言ってこなかった。


 食事も風呂もかまわないとだけ伝えて自分の部屋へ引っ込み、ベッドに仰向けになる。


 その夜はずっと美月との思い出を回想した。

 無意識にではなく自覚的に、思い出すことを続けたのだ。


 未練や後悔とは少し違う。

 卒業式が終わったあとに校内を一人で回り歩くようなものだ。これでおしまいなのだという事実を刻みつけるための、心の儀式。


 そのおかげか、朝の目覚めは悪くなかった。

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