第三者
幸子さん(仮名)は玄関先で呆然としていた。
そういう反応になるのも当然だと思う。
元カレのアパートを訪れてみたら、別の女が出てきたんだから。しかもその女――古井河先生は、腕を組んで仁王立ちというポーズで、明らかに幸子さんを威圧していた。
幸子さんのこわばった顔が、あたしを見て少しゆるんだ。
だけどその直後には、さらにショックを受けた顔になる。
口元を押さえて、一歩あとずさりをする幸子さんに、あたしは思わず声をかけた。
だってあの反応、ぜったい勘違いされてる。
「――あ、あの! あたしたちは別に親子とかじゃないですし、長谷川さんはあたしの父親じゃありませんから」
幸子さんは目を丸くしつつ、ぎこちなく、弱々しく笑った。
「そ、そう、なんですか……」
「え、ウソ……、親子に見られてたの、わたしたちって……」
今度は先生がショックを受けているけど面倒くさいので放っておこう。
とりあえず幸子さんをどうしようかと考えていると、外から別の声がした。
「――水渡?」
ひょいと顔を出したのは榊原主任だった。
戸口の脇で待機していたらしい。
「げっ……」
「「げっ」とはなんだ「げっ」とは」
榊原主任は、古井河先生とあたしを交互に見て、ちょっとだけ眉をひそめる。
「……で、どういう状況なんだ? これは」
「知り合い?」
と先生は振り返って小声で問いかけてくる。
「職場の上司で、レジの主任の人」
「なるほど。誠治君の同僚ね」
と先生は今度は、向こうの二人にも聞こえるような大きな声で言った。
今までしたことのない下の名前呼び。たぶん牽制のつもりなんだろうけど、そういう小賢しいことをする人って、なんか負けそう。
「そういうあんたは、長谷川のなんなんだ?」
「ちょっと、桐子ちゃん」
榊原主任が挑みかかるような口調とともに玄関へ踏み込んでくる。その肩に幸子さんがそっと触れて、手綱を引くみたいに主任を落ち着かせようとしていた。
ほんのちょっとの言動で、この二人がどういう関係なのか、少しわかった気がする。
「彼のなんなのか……、なんて、改めて考えてみると、意外と即答できないものね」
先生は大げさに首をかしげて、思わせぶりなこと言ってる。
あたしは前に出てそれをさえぎった。
「――あの、入口で立ち話もなんですし、とりあえず、中に入りませんか?」
なんで一番年下のあたしが気を遣わないといけないんだろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
お鍋の準備をしていたテーブルに、主任と幸子さんにも座ってもらう。ちなみに幸子さんの本名は瀬戸美月さんというらしい。
人数が増えた分の食器を運んでいると、瀬戸さんが立ち上がった。
「あの、手伝いますよ」
「えっ、大丈夫ですよ、お客さんにそんなことさせられません」
気持ちはありがたいけど、台所はそんなに広くないので、丁重にお断りをする。
「……そう、ですか」
瀬戸さんは表情をくもらせて、静かに座り直した。
その明らかな落ち込みっぷりに、こっちが焦ってしまう。
あたし何か悪いこと言った?
「ひゅうひゅう、本妻気取りぃ」
「センセ、いちいち茶々入れないで」
先生に文句を言ってから、瀬戸さんへ向けて話しかける。
「あ、あの、今のはそういうんじゃなくて……」
「水渡、気にしなくていい。こいつちょっと打たれ弱いんだ」
と主任がフォローを入れてくれた。
でも、そっか。あたしの想像が正しければ、瀬戸さんはここで長谷川さんと一緒に暮らしてたんだ。それが今はどこの馬の骨とも知らない女が、二人も居座ってるんだから。胸中穏やかではいられないだろう。
それをあたしは、お客さん、なんて。
先生の〝誠治君〟呼びよりもよっぽど牽制みたいだ。
無意識に本妻気取りをしてしまってたんだろうか。
考えごとをしつつも、棚から二人分の食器を出して、冷蔵庫から追加の野菜を出す。
その間にテーブルの方では、榊原主任が口火を切っていた。
「それで、古井河先生だっけ。先生と水渡は、ここに住んでるの?」
主任はテーブルを指先でトントンと二度叩いた。
「ええ」
先生がグラスを掲げて応じると、なみなみと注がれたワインの水面が揺れた。もう飲んでる……。
「……それはどうして? いつから?」
主任の疑問に答えるべく、あたしと先生は三人ぐらしを始めた経緯を説明した。うちの家庭事情なんかのプライベートな内容もあったけど、この場で話をするだけなら、別に隠すほどのことじゃない。
主に先生が話をして、ときどきあたしが追加の説明をしていく。
長谷川さんがあたしの母と直談判をしてくれたところまで話し終えると、
「なるほどな」
「ご理解いただけたかしら」
「ああ、いい歳した大人がはしゃぎ過ぎだってことはね」
ドスの利いた声にびっくりして、あたしはテーブルの方を見た。
主任は先生をにらみつけ、その隣で瀬戸さんが目を丸くしている。
先生は特に気にしていない様子でワインをひと口。
「今となっちゃ、もう手遅れなんだろうが……、そうなる前に、もうちょっとやりようがあったんじゃないか? 赤の他人で三人ぐらし――しかもうち一人は未成年とか、リスキーすぎる」
「全く否定できないわね」
先生は余裕しゃくしゃくの声。
「長谷川のやつ、無害な善人だと思ってたが、ただの偽善者じゃないか。水渡のためとか言って、女と同居したいだけだろ。おためごかしにも程がある」
主任は舌打ちでもしそうな口調で長谷川さんをなじる。
「――あの、主任。お言葉ですけど」
さすがに聞き流せなくて、あたしは口をはさんだ。長谷川さんの厚意が曲解されるのは嫌だ。
「なんだ」
「長谷川さんは、ちゃんと言いましたよ。自分が楽しいからこの生活を続けたいって」
「――はぁ?」
主任がポカンと口を開ける。
対照的に、瀬戸さんは口元を押さえてクスリと笑った。
その仕草とか表情がものすごく自然でかわいくて、あたしは思わずじっと見つめてしまう。見とれたんじゃなくて、警戒対象を目に焼きつけるために。
「ちょっと美月、あんた何笑ってんの」
「だって、誠治さんらしいなって」
ああ、やっぱり。
この人が、長谷川さんを〝誠治さん〟と呼ぶ人なんだ。
瀬戸さんは楽しい思い出を語るようなやさしい顔で、話を続ける。
「自分が楽しいからって、きっと本心なんだろうけど、でも、それを明かしちゃうのが誠実だなぁって。あと、自分のためだとアピールすれば、あとのお二人も気が楽になるだろうって計算してるところも。……あ、すいません、知ったような口を利いて」
と瀬戸さんは手のひらで口元を隠して、小さく頭を下げる。
「いえ……」
先生は短く応じて、足を組み直していた。
あたしの立ち位置からは先生の表情は見えない。だけどその背中からははっきりと緊張感が感じ取れた。さっき主任にキツイ言葉をぶつけられていたときよりも、よっぽど余裕がない。
「――チッ」
と舌打ちをしたのは榊原主任だ。あたしの方を向いて、
「水渡、早く皿と肉、持ってきて」
今まで乗り気じゃなかったのに、急にそんなことを言い出す。
「あっ、はい。もう準備できます」
あたしは食器をテーブルへ並べ、大皿に盛った追加の食材を運んだ。
そうして、4人が席に着いた。すごい食卓だと思う。だって、このうち3人は間違いなく長谷川さんへの好意を持っているんだから。すごいというか、怖いというか。……修羅場?
榊原主任はどうなんだろう。怒っているのは、瀬戸さんやあたしのことを思ってなんだろうけど、でも、それだけじゃない気もする。よくわからない。
「最初に飯がマズくなる話をしとくが」
主任はあたしに向けて、そう断りを入れた。
「未成年との性交渉は、それだけで罪になるかもしれないってこと、頭に入れておけよ」
「でも、親が真剣な交際をしてると認めてくれているなら大丈夫なんですよね」
あたしは即座に切り返す。
よく調べてるのね、と先生が笑った。
「……それに、この状況も加味すれば、買春に当たる可能性だってある」
「この状況? 三人ぐらしがですか?」
「一宿一飯の恩を着せてみだらな行為に及んだとしたら、それは、対価を払って未成年者とセックスしたことになる。明らかな買春行為だ。ただの淫行よりも罪が重い」
主任の言うようなことを、考えなかったわけじゃない。だけど、第三者から聞かされたその解説には、世間知らずなあたしを緊張させるだけの重々しさがあった。
不安を振り払うように、断言する。
「大丈夫です。長谷川さんはそんなことしません」
「わからないだろ。あれだって生物学上は男だ」
「本能よりも理性が勝つ人です」
強がりを押し切ると、主任はため息をついて、椅子の背もたれに身体をあずける。
長谷川さんのそういうところは、長く一緒に仕事をしている主任だってわかっているはずだ。だからたぶん、この話はただの確認と警告なんだろう。それ以上の追及はなかった。
でも、その代わりに主任はいたずらっぽく口元を上げる。
「本当か? たしか美月とデキてたときは――」
「き、桐子ちゃん!」
瀬戸さんが顔を真っ赤にして主任の口を押える。
素で照れている反応を見せられてると、やっぱりつらい。長谷川さんとそういう関係だったんだって、いちいち思い知らされてしまう。
先生はどう感じてるんだろうと、横目で見たら平然としていた。
いちいち気にすることじゃない――さっき言ってたとおりの自然な態度だ。古井河先生は何も感じてないんだろうか。それとも、本当はそれなりにショックを受けてるけど、表に出さないだけ?
「まあ、困ったことがあったら相談しな。一時的な逃げ場くらいにはなってやるから」
あたしの心境を知ってか知らずか、主任はそんな気休めをくれる。
「よーし、それじゃあ食べましょ。話が長いからお腹すいちゃったわ」
先生は軽く手を叩いて、チクリと嫌味を付け加える。さっきからちょくちょく言動が小者だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
会議がずいぶん長引いて、帰りが遅くなってしまった。
『さんにんぐらし』の方にメッセージは送ったが、既読がつかないので、二人を待たせているかもしれない。
気にせず先に食べてくれてもかまわないのだけど、あの二人はたぶんそうはしないだろう。はやる古井河に七海がストップをかけている絵が簡単に想像できる。食材が準備された状態で鍋を囲んでいるのに、それに手を出せないというのは非常に申し訳ない。
年甲斐もなく、一段飛ばしでアパートの階段を上がっていく。太ももの筋肉がちょっとこの負荷キツいですねと不満を表明している。
ドアを開けると、それまでの急いていた気持ちが、一気に冷めた。
足元に違和感。
靴が多い。
決して広い玄関ではないが、それでもここまで足の踏み場がなくなることはなかった。出迎える靴は七海のローファーと古井河のヒールの二足だけだったのだ。
今日はそれに加えて、赤いスニーカーと、ヒールの低い白のパンプスが並んでいる。
どちらの靴にも見覚えがあった。
どれが誰の靴だとはっきり言えるわけではないが、自分のそう多くない女性の知り合いを参照して、その人が履いている様子がイメージできてしまう。見覚えというのはそういう意味だ。
突っ立っていると、リビングへ続くドアが開いて、古井河が現れた。
「おかえりなさい」
実に楽しそうな顔をしていた。
血みどろの残虐ショーに愉悦する古代ローマ市民のような笑顔である。
「……ただいま。帰っていいかな」
「ダメよ、あなたの帰ってくる場所は、ここしかないんだから」
長い冒険の旅の終わりのようなセリフとともに、古井河は僕の腕をつかむ。




