淡いブルーの女の人
その日のアルバイトを終えたあたしは、お客様案内のカウンターの中で、レジの日報を書いていた。自分がそのレジを担当した時間帯の、お金の動きなんかを記載するのだ。レジの人は毎日これを提出しないといけない。銀行じゃなくても会社ってお金にはうるさいのだ。一円ズレていてもちょっとした問題になってしまう。
逆に言えば、計算さえ合っていれば気にすることは何もない。今日のレジ仕事はパーフェクトだったので、日報はすぐに書き終わる予定だった。でも。
日報を書く手を止めて、あたしは上司に話しかけた。
「榊原主任」
「どうした水渡」
「主任って、長谷川さんのことなんて呼んでます?」
「副店長」
「そうじゃなくて、プライベートでは」
「プライベートでは会わない」
「じゃあ、仮に会うとしたら」
榊原主任は眉間にしわを寄せた。嫌いな食べ物を出された小学生みたいな、すごくはっきりした反応だ。あたしの質問がしつこいせいだろうか。それとも、質問の内容が気に障ったから?
「……そのままだ。長谷川って」
「そうですか。じゃあ、下の名前で呼んだりしません?」
「しない。お前は何が言いた――はい、いらっしゃいませ」
お客さんがやってきたので、主任はすぐさま接客用の態度で対応を始めた。古井河先生にしても、榊原主任にしても、大人の女性の切り替えの速さってすごいといつも感心してしまう。
「何してる、早く書きなよ」
お客さんの案内を終えると、またレジ日報の提出を急かされる。榊原主任はさっきの続きをしゃべるつもりはないらしい。どうでもいい雑談だと思っているのか、それとも、これ以上は話したくないのか。
もっと追及したかったけど、あんまりしつこくして怒らせるのも怖いので、あたしは残りを書いて日報を渡して、そっとカウンターを出た。
「あの……、すいません」
バックヤードへ引き下がる途中、店内でお客さんに声をかけられた。
若い女の人だ。たぶん二十代中盤。キレイだけど弱々しい表情や態度から、なんだか幸の薄そうな人だな、なんて失礼なことを考えてしまう。消え入りそうな淡いブルーのワンピースも、そんな印象を強くしているのかもしれない。
「あ、はい、いらっしゃいませ、どうされましたか?」
「レジの榊原さんは、まだお店にいらっしゃいますか?」
どうしましたか、よりもワンランク上っぽい言葉づかいで対応してみたんだけど、お客さんも普通に丁寧なしゃべり方をするので、この程度で調子に乗っていた自分が恥ずかしくなる。
「あ、はい。主任ならそちらのお客様カウンターに」
「そうですか、ありがとうございます」
幸子さん(仮称)は軽く頭を下げて、カウンターの方へ歩いていく。その動作はこなれていて、なんとなく、同業者っぽいなと感じた。かつてこのお店で働いていた人かもしれない。近くを通りがかったから昔の知り合いに会ってみよう、なんて考えたのかも。
ちょっと気になったので、引き返して遠くからカウンターの様子を盗み見る。榊原主任は幸子さんを見て目を丸くしていた。店内にいるときは常に気を張っている主任にしては珍しい反応である。やっぱり知り合いらしい。
視界に入らないように近づいて、商品棚の影から声だけを盗み聞く。
二人のやり取りは気安くて、慣れた相手とのキャッチボールみたいにスムーズだった。
「久しぶり。元気そうだな」
「ありがと、桐子ちゃんも、変わりないみたいでよかった」
あの榊原主任がちゃん付けで呼ばれているのってなんだかすごく新鮮。
「そっちはまあ、いろいろ大変だったな」
「ん……、でも、ぜんぶ片付いたから。葬儀も終わったし」
「そうか」
「長谷川なら、今日は本部で研修やってるぞ」
「えっ……」
「管理職を集めて、パワハラとかモラハラとか、そういうのの注意喚起だとさ」
「ちょっとしたことでも訴えられるご時世だもんね……」
「そういうわけだから、今日は店には戻ってこない。残念だったな」
「別にわたしは……」
「異性の影はないぜ。少なくとも社内では」
あたしは足音を立てないようにカウンターから離れた。
なんなの、あのやり取り。
幸子さんは長谷川さんに会いに来てたみたいだし、榊原主任は長谷川なんてプライベートな呼び方をしてるし、異性の影はないなんて報告は幸子さんが長谷川さんにとって特別な異性だったことの裏返しにしか聞こえないし。
――それに、主任が知らないだけで長谷川さんにはちゃんと異性の影があるし。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「――っていうことがあったんだけど」
服を着替えてからテーブルに座った先生に、あたしはさっそく店での一部始終を報告した。自分でもわかるくらい語気が荒くなっていたけど、落ち着いてなんていられない。
「あら、今日はしゃぶしゃぶなのね。今シーズン初めての鍋物、んー、お酒が進みそう」
先生はのん気なことを言いながら、もう温めてある土鍋のふたを取った。まだ中身はお湯だけなのでガッカリしている。
「ちょっとセンセ、聞いてるの?」
「はいはい、長谷川君に元カノがいたかもって話でしょ」
はっきりそう言われると、なんだか、すごく、イライラする。
「……センセはどう思ってるの」
「どうって別に、元カノの一人や二人くらい、いても不自然じゃないでしょう」
「自然とか不自然とかそういう話じゃなくて」
「好きな人には清い身体でいてほしかった?」
「きよッ……!?」
遠回しのような直接的なような、でもどっちにしてもイヤラシイ物言いに、あたしは絶句してしまう。このエロ女教師!
「昔、誰かと付き合っていて、でも合わなかったから別れた。それだけのことでしょ」
「わかってるけど」
「ずっとそばにいても苦じゃない相手って、なかなか貴重なんだから」
「そうかもしれないけど」
「何が不満なの?」
先生は小さな子供の我がままを受け入れるみたいな、やさしい顔で笑う。その余裕がまた腹立たしいけど、あたしだってそれを表に出さない自制心くらいはある。
「仮に――長谷川さんに彼女がいたとしたら、それはモヤモヤするけど」
「けど?」
「今はその人と別れてしまっているのも、あまりいい気分がしないっていうか」
「別れていることのどこが嫌なの」
「なんだろ……、結果? ううん、実績、かな……」
「実績?」
「だって、それはこの先、あたしもそうなるかもしれないってことだから」
あたしは気持ちを整理する。言葉を探して、伝え方を考える。
「仮に、長谷川さんとあたしが、そ、そういう関係になったとしても、それは絶対じゃない、いつか終わってしまうかもしれない、不確かなものなんだって思って」
あたしのこれは、弱音なんだろうか。
先生が腕を伸ばしてきて、頭に手を置いた。ぽんぽんと軽くなでる。
「そうね。生きている限り、あらゆる物事は不確かだから。勢い任せで道が開けることもあるし、慎重に歩いていても穴に落ちることだってある。こうしなさい、なんて簡単には言えないわ」
「……センセ?」
手はすぐに離れてしまう。教え導く仕事をしている人が、それを否定するようなことを言うなんて。スマホがネットにつながらなくなったみたいな不安が、じわじわと広がっていく――
それを「なんちゃって」とうやむやにするように、古井河先生は首をかしげた。
「お腹すいたから、もう食べない?」
「ダメです。長谷川さんが帰ってくるまで、白菜の切れ端すら入れないから」
「ちぇー、水渡さんは鍋奉行ねぇ」
場の空気はすぐに落ち着いて――
同時に呼び鈴が室内に響いた。
「こんな時間に誰かしら」
古井河先生が立ち上がって、応対に行ってくれた。アラサー男性の部屋なのに女子高生が出迎えるのは、社会的にいろいろマズいということで、長谷川さんがいないときの来客は、基本的に先生が出ることになっている。
リビングのドアが開いて、閉じる。
玄関のドアを開ける音。
そして、ドア越しのくぐもったやり取りの声。
「はい……、ここは確かに長谷川の部屋ですが……、わたしですか? 見てのとおり、ただの同居人です。……失礼ですが、あなたは、長谷川とはどういったご関係ですか?」
相手の声はよく聞き取れないけど、先生の声だけでなんとなくわかる。相手が長谷川さんの知人だということくらいは。
予感というほどのものでもない。
あたしは席を立って、ドアを開けた。
古井河先生の背中ごし、玄関先に女の人が立っていた。
淡いブルーのワンピース。
たった今、思い出した。
このあいだ長谷川さんが落として――そして隠すように仕舞ったマグカップと同じ色だ。




