誠治さん
台所上段の収納スペースを整理していたら、淡いブルーのマグカップを見つけて、ぴたりと手が止まった。
彼女の荷物はすべて片づけたつもりだったが、こんなところに残っているとは思わなかった。
完全に不意打ちだ。帯電しているわけでも高温になっているわけでもない、何の変哲もないマグカップに、触れるのをためらっている自分がいる。
たぶん、未練とは違う。
あのときの無力感を思い出すのが嫌なだけだ。
マグカップを取って、乗っていた椅子から下りようとしたとき、
「……せ、誠治さん」
急に声を掛けられて、マグカップを取り落としてしまう。
「あっ!」
と七海が声を上げたが、幸い台所の床にはシートを敷いてある。ゴトンと大きな音がしたものの、マグカップは無事だった。割れてくれてもよかったのだが。
「あーびっくりした……。ごめんなさい、妙なタイミングで声かけて」
七海はソファに座ったまま、しょげた顔で頭を下げる。抱いていた枕に顔が埋まった。
「いや、今のは落としたこっちが悪いよ」
手早く床に転がるマグカップを回収する。
あまりこれを七海や古井河には見せたくなかった。
「……でも、急にどうしてあんな呼び方を?」
「えっと、うちの店の常連で、ものすごい美人の奥さんと、なんかフツーのだんなさんの若夫婦がいるじゃないですか。まだ小さな子供を連れてる」
「ああ、いるね」
彼らの姿を思い浮かべながらうなずく。
「奥さんがだんなさんのことを、名前にさん付けで呼んでたんですよ」
「それを真似したと」
「なんか、いいなーって思って」
七海は顔の前で両手の指をくっつけて、テントのような形を作った。
人の呼び方には距離感が現れる。
彼女は露骨にわかるやり方で、距離を詰めようとしているのだろうか。
仮にそうだとしても、普段ならば何も言わずに様子を見るところだ。しかし、今回ははっきり拒否することにした。あの呼び方は遠慮したい。個人的につらいものがある。
「水渡さん」
なるだけ明るい声で、軽い調子を意識して話しかける。
「実は……、僕は自分の名前にちょっとしたコンプレックスがあってね」
「ぜんぜんおかしな名前じゃないと思いますけど」
七海は首をかしげる。
「名前自体は何も問題ないんだけど……、むかし流行ったドラマの登場人物に、同じ名前のやつがいたんだ」
「悪役だったんですか?」
「そう。女性をとっかえひっかえして悪びれもしない、ひどい男でね。最後には捨てた女性の一人に腹を刺されてしまう」
「それは……、長谷川さんも気をつけないとですね」
「僕にはそんな甲斐性も度胸もないよ」
笑顔を作りながら椅子に足をかけて、マグカップを上段の収納スペースへ戻す。いちばん奥へ押し込んだ。いつかこのアパートを引き払う日が来るまで、二度と見ないで済むように。
「ところで長谷川さん、次の日曜日ってお休みですよね」
「ん? ああ、うちはきちんと週休二日のホワイト企業だよ」
若干すすけた白ではあるが。
「誰にアピってるんですか」
「何か用事かい?」
「そろそろ秋も深まってきたじゃないですか。週末からちょっと冷え込むって予報も出てたし」
確かに、十月も下旬に差し掛かったこの時期は、スーパーマーケット的にも重要なポイントだ。夏物の売れ行きが日を追うごとに鈍っていき、逆に鍋物用の商品が伸びてくる。
「……ああ、さすがにタオルケット一枚じゃ眠れないね」
「はい、だからデートに行きましょう」
七海は満面の笑顔で言った。
「買い物だろう?」
「男と女がそろって買い物に行くことを、世間一般ではデートと呼ぶんですよ」
「布団を買うだけじゃないか」
「意味深な買い物ですよね」
僕は一瞬、返事に詰まる。
ここ最近、七海の距離感はさらに近くなった。
先日、古井河と二人で帰りが遅かったあの日を境にしてだ。
それを不快に感じているわけではない。むしろ逆で、遠慮をされるよりもずっといいと思っている。
こちらが勝手に戸惑っているだけだ。
本来なら彼女がどんな話を振ってきても、余裕をもって返さなければならないのだから、そう振る舞えないこちらに問題がある。
「ニ〇リでいいかな」
お値段以上な某家具メーカーの名前を出すと、七海は首を左右に振った。
「えー、駄目ですよ。ニ〇リだと家具しか見るものがないじゃないですか。デートじゃなくて布団を買うだけになっちゃいますよ」
「だからそう言ってるじゃないか」
七海は頬をふくらませて、抱きしめた枕に形の良いあごを押しつける。
「約束したのに」
ぽつりと、さみしそうなつぶやきをこぼす。
いつか古井河と映画を見たあとで、七海が自分ともデートをしないと不公平だ、と言っていたのを思い出す。
あんなものを約束とは言わない――そう口から出かかったが、あのふくれっ面に余計なひと言を突き刺せば、とたんに割れてしまうだろう。触らぬ神にたたりなしだ。
それに、正直なところ。
最近はあまり七海にかまってやれていなかったなと、反省がないわけでもない。
……かまってやれていなかった?
おいおい、ちょっと待ちなさい長谷川誠治。
自分で自分の思考に驚いていた。
かまってやれていなかった、というのもずいぶんな上から目線だが、それは七海だけを見ていて出た言葉ではない。古井河という比較対象あってのものだ。
二人の女性を比較して、距離感や接する時間のバランスを考えている。
それはなんとも……。
「……長谷川さん?」
「あ、ああ。それじゃあどこに行く?」
名前を呼ばれて、反射的にそんな提案をしていた。考えていた内容が後ろめたかったせいだろうか。
「いいんですか? もし何か用事があるなら、あたしは別に気にしませんけど」
七海は枕にあごを押しつけたままで目を伏せる。
急に遠慮をされても違和感しかない。
「そういうセリフはもうちょっと平気そうな顔でしゃべりなさい」
「ですよねー」
一瞬で表情を切り替えて、悪びれた様子もなくあっけらかんと笑う七海。
僕は苦笑いを返しながら、心の中で願っていた。
先ほど語った実在しないドラマを、この子が検索しませんように、と。




