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〝誰かがこの生活を嫌になった場合〟

 その日の朝は、起きるとすでに朝食が用意されていた。

 ただし、僕と古井河の二人分だけだ。


「おはようございます」


 洗面所から出てきた七海は、制服姿で髪型も整っており、完全に登校する支度ができている。


「水渡さん、朝は食べたの?」

「はい、洗い物も済ませてますから」


 こちらの問いかけに答えながら、七海は学校指定のかばんを持ち、玄関へと向かう。一瞬たりとも立ち止まらないのは、よほど急いでいるからだろうか。


「もう出るのかい」

「はい、行ってきます」


 扉が閉まると、先ほどまでのあわただしい音がなくなり、拒絶のような静けさが満ちる。

 反射的にテレビのリモコンを操作してから、そうした理由を自覚する。朝のニュースへの興味よりも、無音を嫌う気持ちの方が大きかった。


 分断の続く国際情勢や、世界各地で発生している異常気象、その一方で高値続きの株式相場。ひと昔前ならばそれぞれがトップニュース扱いされるほどの大きな出来事なのだが、まとめて報じられると、どうしても印象が小さくなってしまう。


 テレビを眺めながら朝食を食べていると、寝起きの古井河がダラダラした動きでやってくる。リビングを見回して七海がいないことに気づくと、


「……あら、水渡さんはもう出かけたのね」

「ああ」

「ふぅん、また(・・)?」


 そう。七海が朝早いのは今日だけではない。ここ数日ずっと、僕たちが起きる頃にはアパートを出るようになっていた。高校までの距離を考えると、そこまで早く出る必要はない。気になって理由を尋ねてみると『朝の学校って勉強に集中できるんです』とのことだった。それで納得したわけでないが、それ以上の追及もできない。


「しかも、帰りも遅いじゃないか」

「そうねえ」

「盛り場へ出入りしていなければいいんだけど」

「言葉が古いわ。盛り場って、どういう場所のことを言っているの」


 古井河はあくびをかみ殺しながら向かいの席に座った。


「そうだなあ、ゲームセンターとか」

「いかにも不良がたむろしていそうな場末のゲーセンだったら、だいたい経営難で潰れてしまっているわ。残ってるのはボウリング場なんかと一緒になった、複合型のプレイスポットっていうの? そういうタイプのお店くらいよ」

「詳しいんだね」

「そういう場所のチェックは若手の先生の役目なの」

「大変だね」

「ええ、若手だから」


 本当の若手は面倒ごとを押し付けられたら嬉しそうな顔はしないはずだが、まあ、そこを指摘するのは野暮――否、やぶ蛇というものだろう。みつかれてしまう。


 両手をそろえていただきますと告げて、古井河はジャムを塗りたくったトーストにかじりつく。咀嚼そしゃくして飲み込んだのを確かめてから、次の質問へと移る。


「じゃあ、学校で水渡さんに変わったことはない?」

「特にないわ。何。さみしいの?」

「心配しているだけだよ」

「家族がそろって……、もぐ……、食事できないなんて、んぐ……、珍しくもなんともないわよ……、もぐ……」

「食べながらしゃべらない」


 七海がいないと一気に生活が雑になる古井河である。


「あなたは過保護なのよ。水渡さんが家事から離れてくれるんだから、悪いことじゃないでしょうに」

「その理由がわからないと、保護者としては不安なんだよ」


 そう言いながらも、七海の態度が素っ気なくなっていることに、安心している自分もいる。

 彼女からの好意は僕の勘違いだったか、あるいはもう、気持ちが変化しているのだろう。その結果、あるていど他人行儀な距離感になっているのなら、それはこの三人ぐらしを続けるにあたって、望ましいバランスと言える。


 このまま七海の卒業まで、平穏無事に毎日が過ぎてくれればいい。


 そんな僕のことなかれ精神を察したのかはわからないが、古井河は口元にブルーベリージャムをつけたままニヤリと笑った。


「なるほど……、それじゃあここは、わたしがひと肌脱いであげましょうか」




 一日の仕事(と残業)が終わり、大いなる不安とほんの少しの期待を胸にアパートへ帰ってくる。古井河は七海から何か聞きだしてくれただろうか。


 ドアを開けると中は真っ暗だった。

 普段ならば誰かしら部屋にいる時間帯なのだが、二人とも帰っていない。となると、やはり古井河は失敗したらしい。


 手探りで照明をつけると、テーブルの上に白い円柱形の物体が置かれていた。日本が世界に誇るインスタント食品であるカップラーメンだ。手前には割り箸も用意されている。


 そして、カップ麺の下敷きになったメモ用紙が。


『帰りは遅くなります 古井河・水渡』



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 アパートの近くのファミレスで、あたしと先生は向かい合っていた。

 先生の前にはステーキセットやサラダなど、トータルで4ケタ行きそうな料理が並んでいる。対面のあたしはコップの水だけだ。


「好きなもの頼んでいいって言ったのに」

「別におなか空いてないから」

「そう」


 あと、こうしてたら店員さんから『ツレに何も食べさせないヒドい女』という目で見られるだろうし。


「話ってなんなの」

「長谷川君が心配してたわよ。夜の街で悪い遊びにハマってないかって」

「勉強してるだけだし」

「本当に?」

「あたしがいない方が、センセたちも気楽でいいんじゃないの」


 今のセリフをあたしは普通にしゃべれていただろうか。ふてくされた声になっていなかっただろうか。先生はにこりと口元を上げた。


「ああ、やっぱり、そういうことだったのね」

「そういうことって何」

「〝この暮らしが嫌になった〟の?」


 三つの終了条件のひとつを先生はチラつかせる。

 あたしがそういう気持ちになっていないかどうかを、確かめようとしている。


「そこまでじゃないけど」


 でも、あの部屋にいると、少し憂鬱ゆううつだと感じることはある。

 以前と比べて明らかに距離が近くなっている長谷川さんと先生を見ていると、やっぱりあたしみたいな子供は見向きもされないのかな、って気持ちになる。


「わたしと長谷川君は、別に何もしてないわよ」

「でも、好きだって聞いたし」

「沖君から?」


 先生は頬杖をついて顔をかたむける。ウェーブのかかった髪が揺れた。

 あたしは小さくうなずいて、先生の目を見つめた。

 何かをごまかそうとしたり、はぐらかそうとしても、見逃さないから――そういうメッセージを込めたのに、先生はあたしの視線なんて気にならないっていう様子で、まるで関係のなさそうな話を始めた。


「大人になると告白しなくなるって話、知ってる?」

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