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祭りのあとの大人たち


 アパートに戻ると、古井河が先に帰っていた。

 テーブルにはビールの空き缶が2つ転がり、半分まで減ったワインボトルが鎮座している。


「長谷川君、遅ぉい」


 こちらを向くなり不満を言う古井河は、普段よりろれつ(・・・)が回っていない。


「そっちが早かったんじゃないか。打ち上げとかは?」

「誘われたけど、用事があるって断っちゃった」

「用事? 宅飲みが?」

「一人で飲みたい夜もあるのよ……」

「そう」


 改めてテーブル上を見回す。つまみはチーズたらやサラミ、あとからになったツナ缶の横に醤油のビンがある。いかにも料理のできない独身女性の酒盛りだった。


「何よぉ、憐れむような目で見ないで」

「そんなつもりはないよ」

「ていうか長谷川君、どうしてスーツなの。仕事は休みだったんでしょ」

「ちょっとやむを得ない用事でね」

「水渡さんの誘いを断る口実?」


 酔っているくせに、鋭い。……いや、違うか。酔っているから、いつもなら気づいても口にしないような、痛いところを突いてくるのだ。容赦がなくなっている。


「……飲みすぎだよ」

「あなたも飲みましょうよ」

「車の運転ができる人がいなくなったら困るだろう」


 ミネラルウォーターをコップに注ぎ、古井河の前に置いた。


「ありがと」


 そう言いつつも、古井河は僕の入れてやった水を無視して、ワインの入ったグラスをかたむける。


「また、助けたでしょ」

「なんの話?」

「クレープの材料が大量に残りそうだったところを、アイデアひとつで一発逆転――あれ、長谷川君の入れ知恵よね?」


 入れ知恵とはまた、言いがかりのような言葉選びである。


「何か、まずかったかな」

「わからない」


 古井河はビールの空き缶を指先で転がした。

 からからから、と乾いた音は、ワインの瓶にぶつかって止まる。


「わからないって……」


「生徒たちにとっては、良い文化祭になったと思う。それは間違いないわ。でも、その一方で、ひとりの女の子の憧れを、より深いものにしてしまった」


 この話に明確な主語は必要なかった。


「あの状況を、見て見ぬふりはできないだろう」

「だから、わからないって、言っているのよ……」


 古井河はテーブルに両腕を置き、その上に右頬をのせた。いつもは綺麗にウェーブのかかっている髪も、今は疲労の表れのように乱れている。


 今日の文化祭の話をしているのに、もっと別のことが本題になっているような感覚。それに居心地の悪さを感じて、自分の部屋へ避難しようとすると、


「今日、生徒に告白されたの。もちろん断ったけど」


 逃がさない、とばかりに重い話題を投げかけてくる。

 無視はできないが、反応にも困る。おめでとうなどと言えるわけがないし、惜しいことをしたねと茶化すのも失礼きわまる。迷ったあげくに口にしたのは、ありきたりな慰めの言葉だ。


「大変だったね」

「そうよ、大変だった。弾丸みたいな強い気持ちを正面からぶつけられたら、跳ね返すわたしだって、無傷じゃいられないのよ」

「その傷を癒すために飲んでたってわけか」

「だから長谷川君。わたしに優しくして」

「は?」


 古井河は勢いよく立ち上がり、あっという間に距離を詰めてくる。そんな急に動いたら酔いが回るんじゃないかと心配していると、


「何を言って――」


 そのまま引っ張られて、尻もちをつくようにソファに座らされる。続けて、古井河も隣に腰を下ろした。


「膝枕して」

「酔ってる?」


「わたしが思うに、心というのはその人と同じ形をしているのよ」

 古井河は自分に酔っているとしか思えないようなセリフを吐く。

「でも、ときどき、何らかの理由で大きくなって、身体の外側まで広がってしまうことがある。そういうときに、余計なことを言ったり、いつもと違う行動を取ったりするのよ」


 酔っぱらいを詩的に肯定しているのだろうか。


「さすが恋愛大河れんあいたいが先生」

「ちょっとなんでそのペンネームを……」

「文芸部の展示を見たんだ」

「うわぁ……、この羞恥心の責任を取ってもらわないと」


 古井河はそう言って、僕の膝に頭を乗せた。止めるひまもなかった。

 膝の上に乗った顔の、ふたつの目がこちらを見上げている。


「あまり、やわらかくないわね」


 それはたぶん、緊張で身体が硬くなっているからだろう。このまま何もしないのも手持無沙汰だし、間が持たない。膝に乗ってきた猫を撫でるみたいに、古井河の髪の毛を指先でいてみた。


「ん……」


 古井河はくすぐったそうに目を細める。

 そうしていると、今度は心の底から彼女をいたわる言葉が出てきた。


「……大変だったね」

「ありがと」

「少し意外だったよ。古井河が――」甘える、という言葉を使うのはなぜか躊躇ためらわれた。「――こんな風になるなんて」

「実家にいるときはけっこう、こんな感じだったのよ」

「そう」

「大五郎にはいつもくっついてたわ」

「誰」

「柴犬よ」

「二足歩行ですらないのか」


 古井河はくすくすと笑い、こちらへ手を伸ばしてくる。指先で僕の頬をなぞり、重力に引っ張られるように腕を下ろした。


「長谷川君って、なんか、安心する」

「たぶんほめ言葉なんだろうね」

「近くにいるのが自然な感じっていうのかしら、でも、犬とも猫とも違う……。……亀?」

「あいつら変な臭いがするじゃないか」

「青春ソングが聴きたい」

「どうしたのいきなり」


 何の脈絡もない話題の切り替えについていけないが、古井河の中ではきちんとした理由があるらしい。


「……文化祭が終わると、そういう気分になるの。疲れたけど楽しかったー、っていう達成感を抱えて帰っていく生徒たちを見送ってから、一人の部屋に帰って、あの頃を思い出すみたいに聴いてたんだけど」


 なんとも不憫かわいい行動である。口に出してみて、恥ずかしいと思ったのか、古井河は照れ隠しのように両手の指を絡めて、親指同士を触れ合わせる。


「今はほら、ね、せっかくだし」


 僕は黙ってオーディオのリモコンを操作した。メリハリのあるキーボードと、その後ろでかすかにギターとシンバルが聞こえるイントロが流れ始める。


 その歌詞に合わせたわけではないだろうが、2番に入る頃には古井河はまぶたを閉じてしまった。


 最後まで聴き終えてからオーディオを切ると、かすかに寝息が聞こえてくる。あどけない寝顔だった。いつもの古井河愛佳の、教師らしくあろうとする緊張感のようなものが抜けて、今の彼女は実年齢よりも5歳は若く見える。文化祭の期間中は帰りが遅かったし、ずいぶん疲れていたのだろう。


 スタイルの良い彼女の無防備な姿に、何も感じないと言えば嘘になる。こんな状態で手を出さないなんて有り得ない、と考える人もいるだろう。それでもやはり僕は、何かをする気にはならなかった。今の古井河は駆け引きなどではなく、心からリラックスして眠りに落ちているのだと思うから。


 ……とまあ、きれいごとを並べてはみたものの、頭の片隅で目を光らせているもう一人の同居人の存在が、手出しをためらわせているのは間違いないが。


 静かに立ち上がって、古井河の身体をソファに横たわらせ、そっと毛布を掛けてやる。あとは七海が帰ってきたら任せよう。


 テーブルの上の酒盛りの痕跡を片付けようとして、ワインのビンをつかんだところで手を止めた。やはり、これらはそのままにしておくべきだ。『帰ってきたらすでにこの有様だったんだよ』という言い訳ができる。


作中の曲はフジファブリックの『若者のすべて』をイメージしていますが、読者の皆様に置かれてはご自分のお好きな青春ソングでお楽しみください。

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