女教師へ禁断の質問
部屋へ戻ると、ソファに寝転がって本を読んでいた七海が身体を起こした。
「ただいま、水渡さん」
「お帰りなさい。早かったですね」
皮肉めいた返事をする七海の声は、明らかにトーンが低い。しかしそこに口を出してもへそを曲げられるだけだ。
「そうかい?」
と僕は軽く流しつつ、荷物を置きに部屋へ向かおうとしたのだが、
「どうしたの水渡さん、嫌なことでもあった?」
古井河は平然と切り込んだ。
どうしてそういうこと言うわけ?
思わず振り返ると、古井河は薄く笑みすら浮かべていた。対する七海はぴくりと眉を上げ、顔の下半分を本で隠す。表紙からして古井河の私物の少女漫画のようだ。
「別に……、同居人に隠れてこそこそ二人で出かけるのとか、なんかイヤラシイなって」
七海はそこで言葉を切って、こちらをにらんでくる。
「いやらしいことは何も」
「シネコンで映画を見てきただけよ。『電気の子』」
古井河が割り込んでくる。CMも頻繁に流しているタイトルなので、名前だけでなんの映画かわかったらしい。七海は首をかしげて古井河を見た。
「センセ、オタク趣味は隠してたんじゃないの?」
「何を言ってるの、すでに誰かさんがバラしたそうじゃない」
「あー、それは、つい」
「つい?」
古井河が挑発的に語尾を上げる。
「必死に隠し通そうとしてる秘密が、実はとっくにバレてるっていうシチュエーションが滑稽で……」
「いい性格ね……」
「まあまあ、僕たちは単に食事をして、映画を見ただけだよ」
女性陣の間をとりなすと、また七海がこちらに噛みついてくる。
「どうしてですか?」
「たまには水渡さんに休んでほしかったからさ」
「あたしは休みたいなんて言ってないです」
「休んだ方がいいと、僕たちが判断したんだよ」
このやり取りはよろしくない。
どれだけ落ち着いた口調で話しかけても、根本的なところで七海は納得してくれない。彼女の気を晴らすには、望みどおりに家事を任せるしかなさそうだが、大人側としては子供にあまり負担をかけたくないのだ。平行線である。
「――今度は水渡さんも一緒に行く?」
古井河が問いかける。それこそ聞き分けのない子供をあやすように。
言葉に詰まった七海は、ソファから足を下ろして座り姿勢にもどりつつ、古井河から目を逸らした。
「いいです、そんなの。高校生にもなって親子連れで出かけるみたいでヤだし」
「親子……」
古井河の声が震える。ささやかな反撃だが地味に効いていた。
やはり七海は頑なだ。
今回のような強引な手を試してみたが、七海を家事から遠ざけるという効果よりも、家の雰囲気が悪くなるというマイナス面の方が大きいように思える。
学校生活にも意識を向けてほしい、という発想がそもそも大人の押し付けにすぎないのかもしれない。
この問題にはもう触れない方がいいのだろうか、とお手上げになりかけたとき、
「……でも、あたしもちょっと、ここ1週間くらい、帰りが遅くなりますから」
七海は渋々ながらという感じで言った。
古井河と顔を見合わせ、お互い首をかしげる。どういう心境の変化なのかはわからないが、文化祭には参加する気になっているらしい。
僕たちが裏でこそこそ気を回さなくても、彼女は彼女で勝手に変わっていく、ということか。ただの気まぐれかもしれないが、今はそれで良しとしよう。七海にはもう少し気ままに振る舞ってほしい。
「それで、センセに質問があるんだけど」
「わたしに? 勉強以外のことよね」
「生徒に告白されたことってある?」
一件落着で気がゆるんだのもつかの間、唐突におかしなことを言い出した。
しかし、古井河は答えるのに特に抵抗はないようだ。椅子を引いてそこに座り、質疑応答の姿勢である。
「そうねぇ……、採用されてからしばらくは、よくあったわね。校舎の裏に呼び出されたりして」
浮かべる笑みは照れ笑いではなく苦笑いだ。
「それ、ぜんぶ断ったの?」
「もちろん」
即答する笑みはどこか挑発的。
「どうして? 年下は好みじゃないから? 年が離れすぎてるから?」
年が離れすぎてるから? のところで頬が引きつるのが見えたが、古井河は足を組み直しつつ精神を立て直す。
「年齢とは関係なく、教師と生徒は、そういう関係になってはいけないのよ」
「倫理的にダメってこと?」
「そこはあまり……、イケナイ行為の方が熱くなれるものだし」
唇を舌で湿らせ、表情を引き締める。
「重要なのは、先生は生徒を評価する立場だということ。そして、その評価は進学や就職を――要するに人生を左右するものだから、決して贔屓があってはいけないのよ」
数秒ほど、七海が理解するのを待って、古井河は話を続ける。
「仮にわたしが生徒と付き合うことになったとして、そのことがばれたら、成績や内申を操作していたと疑われるわ。間違いなく」
「上手に隠していれば、いいんじゃないの」
「ずっと隠し通せたとしても、自分自身は偽れない。わたしは、交際する相手を色眼鏡で見ない自信がないもの」
古井河は自分の胸に手を当てて、ほんの一瞬だけ、僕のほうを見た。
「身びいきで高い点をつけてしまったり――逆に、贔屓をしないようにと意識しすぎて、本来の評価よりも低く見積もってしまったり、とにかく、正しい評価ができなくなる。
だから、生徒からの告白という時点で断るしかないのよ。気持ちはうれしいけど、ね」
生徒から告白されたことはあるか。
ありがちな質問に対する古井河の返事は、思いのほか真摯だった。
おそらく、何度も質問されたことがあるのだろう。彼女自身、何度も自問自答をしたに違いない。古井河の言葉は滞りなく、日ごろからその問題について考えているがゆえの洗練が感じられた。
「そっか……、わかりました」
七海は居心地悪そうにうなずいたあと、ふと思いついたように聞いた。
「じゃあ、卒業した後にもう一度告白されたことは?」
「ないのよ、それがぁ……」
先ほどまでの凛々しさはどこへやら、古井河はがくりとうなだれる。
「……みんな遊びだったんじゃん」
七海の声が弾んでいる。
「違いますー、男子三日合わざれば刮目せよっていうでしょ、若者の心は移ろいやすいのよ」
「別にどうでもいいけど」
「ちょっと水渡さん雑すぎないー? 先生もう今夜はボトル開けちゃう」
「早くお風呂入って」
古井河はゾンビのようにのそりと立ち上がると、背中に哀愁を漂わせて風呂場へ消えていった。
「安心しました?」
七海がソファ越しに僕を振り返り、イタズラっぽく笑う。
「……もしかして、さっきの質問、そういう狙いだったのかい?」
「それだけじゃないですけど」
前を向いた七海の表情は見えなくなる。
「文化祭が終わったら、あたしともデートしてくださいね」
じゃないと不公平ですから。
そうつぶやく彼女の、黒髪からのぞく耳が赤くなっている。




