〝この生活が仕事に支障をきたすようになった場合〟
待ち合わせ場所はショッピングモールに併設されたシネコンの前だった。
いい歳をした大人同士のデートといっても、古井河から出されたプランは、夕食のあとで夜間割引料金の映画を見るだけだ。時間帯をのぞけば中高生と大差はない。
そして、服装に関しては明らかに中高生以下だ。
僕はワイシャツにスラックス。古井河はレディススーツ。お互い仕事が押したため、服を着替える余裕もなく、仕事着のままだった。
「着飾ることもしないなんて、なんだか倦怠期みたいね」
「素の自分を見せられる関係ということにしておこう」
観たのは話題の大作アニメーション映画『電気の子』だった。激しい帯電体質のため、触れる者みな感電させていた少女が、絶縁体質の少年と出会ったことで、嫌いだった自分を好きになっていく、少年少女の成長物語である。SNS上では「感動した」「泣けた」ではなく「痺れた」という感想があふれているらしい。
「古井河がこういうのを見るのは意外だったよ」
「そう? アニメだから?」
僕の言葉に軽い反感を持ったらしく、古井河は挑みかかるような口調になる。
「わたしたちが子供の頃ならいざ知らず、今ではアニメ=子供向けなんて言う大人はただの世間知らず、老害と認識されかねないから、気を付けた方がいいわよ」
「そういう意味じゃなくて、古井河の部屋には、ほら、顔の細長い半裸の男性たちが絡み合っている表紙の本がたくさんあるじゃな――」
「――いやあああああ!?」
古井河が絶叫しながら平手で僕の口をふさいだ。顔を近づけて、小声で激しく問い詰めてくる。
「どうしてそれを知ってるのよ? まさかわたしの部屋に」
「水渡さんに聞かれたんだよ。これは何ゴミですかって」
打撃を受けた顔面をさすりながら答える。親指と中指で本をつまんだ七海の嫌そうな顔は、今でも鮮明に思い出せる。
「あの子……、許せない、布教してやる……」
「もう上映時間だよ」
映画を見終わったあと、フードコートに立ち寄った。
「感想語っていきましょ」と誘われたのだ。
「面白かったね、画も綺麗だったし」
「エンタメなのに現代社会への問題提起やさり気ないメッセージ性もあって、今やれるものを詰め込めるだけ詰め込みました、っていう気合が感じられるわ」
「評論家みたいなことを言って」
「ね、長谷川君はどこのシーンがよかった?」
古井河はテーブルに肘をつき、身を乗り出して、手の甲にあごを乗せる。彼女らしいしなやかな姿勢。
僕は迷わず、あるシーンを思い浮かべた。
「たぶん、あまり一般的じゃないと思うんだけど……、主人公の父親代わりの男性が、主人公に説教をするところかな」
主人公の行動を引き止めようとする男性の言い分は、まったく正しかった。押しつけがましいわけでも、傲慢なわけでも、現実が見えていないわけでもなくて、本当に主人公を思いやっての言葉だったのだ。
物語のお約束どおり、主人公は言いつけを破ってしまうのだが、それは悲劇の引き金にならなかった。逆だ。主人公の無鉄砲な行動が、道を切り開いたのだ。もし男性の言いつけを守っていたら、主人公もヒロインも命を落としていただろう。
「あの説教が、常識的には正しいにもかかわらず、結果的に間違っていたっていうのが、僕には堪えたよ」
古井河は苦笑いを浮かべつつ、紙コップのコーヒーをかき混ぜる。
「わたしたちはもう、十代の主人公やヒロインには感情移入できないのかも。それよりも、彼らの周りの大人たちの、守りに入った良識に共感してしまうんだわ」
「古井河」
僕は彼女を呼びながら、その目を見つめた。
「……なに?」
古井河は頬杖をやめて姿勢を正す。
「大事な話があるんだ」
「大事な、話?」
「どうやって切り出そうか迷っていたんだけど、君の言葉でハッとなった」
「どの言葉?」
「守りに入った良識」
「そ、そう……、守りに入るの……?」
古井河はなぜか落ち着きを失くした。ウエーブのかかった髪に手櫛を入れたり、口元の艶ぼくろに触れたりと、そわそわした動きだ。
「わたしは別に、それも悪くはないと思うけれど……、むしろ願ってもないというか……、でも、周りの人にはどう説明するの? 特に……」
「実は、異動の話が来てるんだ」
動きが止まった。
「……そう、異動……、異動のことかぁ……」
再び古井河は頬杖をついた。どこかふてくされた態度である。
「どうしたの」
「別にぃ……」
「けっこう重要な話だと思うんだけど」
「まあ、そうよね。特に今のわたしたちにとっては」
古井河は頬杖をついたまま、視線を引き締め、まっすぐに見据えてくる。惚れ惚れするような表情と切り替えの速さだった。
「まだ確定というわけではないんだ」
「断ろうと思えば断われるけど、昇進に影響する、みたいな感じ?」
「人事査定には影響しないよ。表向きは」
「心証はどうしようもないものね」
「現状で、受ける話じゃないとは思っているけど」
それでも古井河に伝えたのは、彼女が語った三人ぐらしの終了条件に触れてしまうからだ。
「この生活が仕事に支障をきたすようになった場合、ね」
「君の判定は?」
「アウトでしょ。働く場所を左右してるんだから」
「意外とルールに厳しいんだね」
「そうかしら。長谷川君はどうしてわざわざ伝えたの? 黙って握りつぶせばよかったじゃない」
「僕たちの間で隠し事はしたくない。特に、三人ぐらしに関しては」
「律儀ね。それとも、潔癖?」
独り言のような問いかけに、僕は答えられない。
いい意味での大ざっぱさが自分には不足している。それを痛感する人生だったが、どうしても変えられないまま、今まで生きてきたのだ。
「思いのほか、あっさり終わっちゃったわね。水渡さんはどうするの?」
古井河は特に未練もなさそうに聞いてくる。
「今の部屋を借りたままで、二人で住んでもらう、という線で考えてはいるよ」
「それが妥当かしらね。わたしもその方が便利がいいし。もっとも、あの子次第なんだけど」
互いの意見が出そろって、あとは七海に伝えるだけだ。
しかし、それでいいのだろうか。
古井河は自分に課したルールを守ることにこだわって、本心を覆い隠しているのではないか。
僕もまた、これまでの生き方から外れられないまま、安易な決定に流れているのではないか。
探るような沈黙を破ったのは、僕でも古井河でもなかった。
「――おお、長谷川じゃないか。こんなところで会うのは珍しいな」
昼にも顔を合わせた船橋部長だった。隣には奥様だろうか、すらりとした女性を連れている。
「ああ、職場じゃないんだ、そのままでいい」
船橋部長は立ち上がろうとしていた僕を片手で制する。
そして、意味深な笑みを浮かべて古井河を見た。
「そうかそうか、なるほどなぁ」
と大げさにうなずいている。
「あの、部長?」
「ああ、いい、いい。言わなくてもわかってる。この女性が理由だな。いつもなら二つ返事のお前が、今回の異動話を即答しなかったのは」
「それは」
そのとおりなのだが、おそらく部長は僕と古井河の関係を誤解している。
「綺麗なお嬢さんじゃないか、お前も隅に置けないな」
「あの、部長、この人はそういう――」
僕の弁明は綺麗なお嬢さんにさえぎられた。
「古井河、と申します。長谷川とは高校の同級生でした」
「なるほど、そういう縁か。同窓会では引く手あまただったんじゃないかね」
「お上手ですね」
「しかし、長谷川を選ぶとは、君もいい目をしている」
「ふぅん、あなた、評価高いんだ」
冗談めかしてこちらへ笑いかける古井河。
「こいつは見た目こそ冴えないが、仕事は確かだし、気が回るし、何より……、そう、気概がある」
「気概……、ですか?」
古井河がまばたきをした。興味深そうに瞳がゆれる。
「ああ、いちど決めたことを堅実に、着実に進めていく精神力、とでも言えばいいのかな」
「仕事でいちばん大切な力ですね」
「んん、そのとおり。聡明なお嬢さんだ」
「恐縮です」
やり取りがひと段落したところへ、そっと奥様が声をかける。
「――あなた、あまり二人を引き止めてはいけませんよ」
「おお、そうだったな」
部長は僕の肩をばしばしと叩いて、
「すまんすまん、長谷川にもいい人がいたと知って、つい気分が乗ってしまった。邪魔をしたな、異動の話は忘れてくれ」
「部長、それは……」
「そういう相手がいる者をよそへ飛ばすほど、会社も冷血じゃない。候補からは外しておくから気にするな」
愉快そうな笑顔を残して、船橋部長とその奥様は歩き去っていった。
「誤解、されちゃったわね」
「よく言うよ、まったく」
古井河はくすくすと含み笑いをもらし、僕はそれに深いため息で応じる。
「思いのほかあっさりと解決しちゃったけど、どうするの?」
「どうって」
「この流れ、水渡さんに言うの?」
「言えるわけがないじゃないか」
理由は定かではないが、きっと悪いことが起こるに違いない。具体的には、僕の朝食が白米と納豆だけになってしまうような、僕の洗濯物だけが皺だらけのまま干されてしまうような、そんな予感がするのだ。触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず、である。




