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異動話は突然に

 社会人にとって、退勤後の時間というのは貴重なものだ。趣味に費やす者がいれば、資格の取得などの自己投資に充てる者もいる。そしてもちろん、別の会社に勤める休日の合わない恋人との逢瀬を楽しむ者も。


「長谷川」


 14時を少し回ったころ、バックヤードで榊原さかきはら主任に声を掛けられた。


「今日はなんかソワソワしてないか」

「そうかな」

「挙動不審ってほどじゃないが、動きに落ち着きがない」

「そんなことはないよ」


 と静かに否定するものの、榊原はいかにも万引きをしそうな鞄の持ち方をしているお客様に向けるような、疑惑の視線を向けてくる。


「最近の長谷川はおかしい」


 断言されて焦りはしたが、それを顔に出すことはない。ここ最近――特に八月以降の自分が置かれている状況が、それまでとは全く違っている自覚はあるのだ。よほど決定的な証拠を突き付けられない限りは、知らぬふりを装えるよう、心の準備は万端だった。


「そう? どのあたりが」

「今までになくきちんとしている」


 きちんとしている、というのはおそらく七海のおかげで食生活が改善されたからだろう。あと、同居人の視線があるせいか、服装や身だしなみには今まで以上に気を遣っている。


「ひどいな、普段はきちんとしていないみたいじゃないか」


 苦笑交じりにそう返事をするが、榊原の視線は変わらずだ。


「あと、水渡との距離が近くなったように見える」

「そうかな……。自覚はないんだけど、気を付けておくよ」


 こちらはあくまでも、注意してくれてありがとう、という対応を取っておく。管理者の立場にある者が、特定の従業員と親しくしているのは、あまり好ましいことではない。相手が女子高生アルバイトとなるとなおさらである。


 いい歳をした大人が、立場を利用して若い子と馴れ馴れしくしている――そんな噂は、導火線を走る火花のように、あっという間に広がっていく。その先に待っているのは爆発だ。僕はまだはじけたくはない。


 ともあれ、どうにか榊原の追及から逃れられそうだ――ひと息ついたところで、裏口の扉が開いた。


「おう、お疲れ様。長谷川に榊原か、久しぶりだな」


 額に光る汗を拭きながら、気安く声をかけてくるのは、五十代くらいの恰幅の良い男性だ。ノーネクタイのワイシャツの腹部が膨らんでいる。


「お疲れ様です、部長。お久しぶりです」

「お疲れ様です、船橋ふなはし部長」


 僕たちはそろってていねいに頭を下げた。船橋部長は気さくな人柄だが、それは礼を失していい理由にはならない。本部の人間というのは、店舗側の人間にとっては良くも悪くも〝お客様〟なのだ。


「今日はどうされたんですか?」


 榊原の問いかけに、船橋部長は彼女ではなく僕の方を向いた。


「ちょうどよかった。長谷川、お前に話があったんだ」

「僕に、ですか?」


 言葉に詰まり、榊原と顔を見合わせる。

 中途半端な反応をしてしまったのは、船橋人事(・・)部長の話とやらに、嫌な予感しかしなかったからだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 船橋部長との話を終えると、榊原につかまってバックヤードの端へと連行された。ほかの従業員の目には、僕が榊原に恐喝されているように見えなくもない。

 内容が内容だけに、榊原は声を潜めて問いかけてくる。


「やっぱり異動の話?」

「まだ内々示レベルらしいけどね」

「場所は?」

「県外」

「また?」


 榊原が顔をしかめた。

 僕は数年前にも県外店舗への異動を経験している。当時は一人暮らしということもあり、また、いろいろと気の滅入る問題もあったので、むしろ県外への異動は歓迎していた。嫌な思い出を忘れて心機一転、遠隔地手当も付いてと、いいことづくめだったのだ。

 しかし、今は非常にタイミングが悪い。


「前の異動のときは、二度目はないから是非に、って感じで頼まれたんだけど、あっさりひるがえされちゃったなあ」

「されちゃったなあ、じゃないだろ」

「あイタ


 榊原の上半身はほとんどブレなかったが、僕のすねには芯まで響く重い衝撃が走っていた。


「長谷川はちょっと便利に使われ過ぎ。文句のひとつも言わないでヘラヘラしてるからそういう扱いを受けるんだ」

「僕の価値なんて動かしやすいことくらいだからね」

「いや、長谷川は上の評価けっこう高いよ。特に従業員間のバランスを取るのが上手だって、部長も言ってたし。実際、あんたが抜けてからこの店ちょっと人間関係がゴタついたからな」

「そういえば、戻ってきたら何人か辞めてたね」

「もうちょっと自信持ちな」

「いやあ、辞める人は何かと理由をつけて結局離れていくものだよ。……まあ、フォローしてくれてありがとう」


「チッ」

 礼を言ったというのに榊原の返事は舌打ちであった。

「で、いつから?」


「ひと月後みたいだけど、今回はまだ返事は保留にしてあるんだ」

「へえ、反抗したのか」


 榊原は感心したように眉を上げる。


「反抗って、子供じゃないんだから。ただ、ちょっと心配事があってね」

「何。まさか女でもできた?」

「例えば、知り合いから犬を預かっていたとして、僕がいなくなったらその世話を誰に頼めばいいのか、とか、そういう話さ」

「あんたのアパートってペット禁止じゃなかった?」


 確かにペットを飼うのは禁止されているが、三人で住むのは禁止されていない。


「さて、残りの時間もキリキリ働こうか」


 なおも話を聞きたそうにしている榊原を振り切って、バックヤードから売り場へ出た。店内をぐるりと回って、再びバックヤードへ戻ってくる。


 そして、トイレの個室に籠もって手早くグループラインにメッセージを打ち込んだ。今日は帰りが遅くなるので夕食は要らない、という旨を伝えるためだ。


 七海を騙しているようであまり乗り気がしなかったが、異動の件はまず古井河と二人で話し合った方がいい。そういう意味ではこの企ても、怪我の功名、不幸中の幸い……、だめだ、しっくりくることわざが浮かばない。これもあとで国語の先生に相談してみよう。

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