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被保護者の背伸び

 九月の中旬になった。

 十月の頭に始まる文化祭へむけて学校は活気で満ちているけど、中でも三年生のノリはちょっと複雑で、いくつかの勢力に分かれている。

 受験が控えているので遊んでいるヒマはないという進学組・一心不乱勢。

 受験が控えているからこそ最後に盛り上がりたいという進学組・エンジョイ勢。

 受験にあまり真剣ではない進学組・のんびり勢。

 そのほか、専門学校勢、就職組などだ。


 そのいずれにも属していないあたしは、放課のチャイムと同時にさっさと下校した。クラスみんなで何かを成し遂げよう、という雰囲気が嫌なわけじゃない。あたしには大事な役目があるのだ。


 新しい帰り道のルートをまだ身体が覚えていないので、別れ道のたびに、どっちだったっけ、と考えながら歩いていく。

 途中、冷蔵庫の中身を思い出しながらスーパーでいくつか食材を買い足して、現在のホームである『メゾンド伯鳴』へ帰ってきた。


 エントランスへ入るとき、周囲を見回して、見知った顔がいないのを確かめる。やましいことは何もないけど、職場の上司との関係を勘繰られても面倒だから。ちょっとした自己防衛だ。


 階段を上がりつつ、キーホルダーから合鍵を探す。鍵を開けて中に入ると、上り口に男物の革靴が並んでいるのを見つけて、少し心が弾んだ。


「ただいまー!」


 部屋全体に響くように大きな声で呼びかけると、


「おかえり」


 聞こえるか聞こえないかの穏やかな声が返ってくる。


 リビング兼キッチンに長谷川さんがいた。ワイシャツとスラックスという会社帰りのスタイルで、その上に青白チェック柄のエプロンをかけている。


「今日は早かったんですね。……って、なんですかその格好」

「ご覧のとおり、料理を始めるところさ」

「えー……」

「どうしてそんな嫌そうな顔を……、私の料理に不安でもあるのかい」

「不安じゃなくて不満です。料理ならあたしがやりますから」


 長谷川さんを押しのけて、キッチンの平台に買い物袋を置いた。ドン、と派手な音がするように置いてやりたかったけど、それだと中の卵が割れちゃうから、そーっとだ。


 この三人ぐらしにおいて、家事全般はあたしの仕事だ。特に夕食にはちょっとしたプライドを持っている。長谷川さんにも、もう一人の同居人にも、この役目は渡せない。


 あたしが強く主張すると、「そういうことならよろしく頼むよ」とか言って簡単に引き下がるのがいつもの長谷川さんだ。でも、今日は妙に強情だった。


「いやいや、たまには台所に立たないと、勘が鈍ってしまうからね」

「じゃあ聞きますけど、何を作るつもりだったんですか」

「肉野菜炒めかな」

「他には?」

「うーん……、インスタントの味噌汁があれば、バランス的には問題ないだろう」

「問題ないことないです。素っ気なさすぎです」


 そんなやり取りをして、だいたい理解した。長谷川さんの自炊レベルは15くらい。焼いたり煮たりの初歩しかできない人だ。具体的に言えば、カレーや野菜炒めくらいしかできない人だ。調味料は市販の○○の素ばかり使っているし、サラダは自分で盛り付けたりしないのだろう。


 あたしは制服の上に赤白チェック柄のエプロンをかける。そして、キッチンの支配権を取り戻すために、少しずつ長谷川さんを追い詰めていった。包丁の使い方に注文をつけ、調理器具の配置に茶々を入れ、火加減の調整にダメ出しをして、


「弱火でじっくりです、焦げ付かないようにゆっくりかき混ぜてください」


 最終的には簡単なお鍋の番を押しつけた。

 フライパンを振るあたしの隣で、おたまを持って鍋の中身をかき混ぜている長谷川さん。こうやって二人並んで台所に立っていると、同棲中のカップルか新婚さんみたいだ。見たことも体験したこともないけど。

 長谷川さんはこの状況をどう思っているのだろう。ちらと横目で見上げてみても、その表情に動揺の色はない。いつもどおり余裕のある、かすかな笑みを浮かべている。


 長谷川さんはあたしの恩人だ。

 バイト先の上司と部下という理由だけで強引に押し掛けた家出娘あたしのために、寝床を提供してくれるような物好き、あるいはお人好し。最初はそう思っていた。


 夏休みの間お世話になるだけで十分だったし、それ以上なんて望んでなかった。先のことなんて、考えてもいなかった。

 だけど、長谷川さんは〝先〟を用意してくれた。

 転校したくないというあたしの我がままを叶えるために、卒業までこの部屋で住まわせてくれると言ってくれたのだ。


 ちょっと有り得ないくらいの厚遇には、もちろん理由がある。下心だ。残念なことに、それが向けられている相手は、たぶんあたしじゃない。


 そんなことを考えて気が散っていたせいか、フライパンを振った拍子に野菜の切れ端が飛び出してしまう。それをつまんで三角コーナーへ投げ入れていると、玄関の方から物音がした。


「ただいまー。あー疲れた」


 もう一人の同居人にして、あたしの担任でもある、古井河愛佳のご帰宅だった。

 授業をしているときの、格好よくて張りのある声とは違う、ちょっとだらしのない無防備なしゃべりかた。出かけるときはパリッと糊の利いていたレディススーツも、今は心なしかくたびれているように見える。


「お帰りなさいセンセ」

「おかえり古井河」


 揃って迎えるあたしたちを、先生はじっと目を細めて見つめてくる。


「二人とも、何をしているの」

「見ればわかるだろう。料理だよ」

「せまい台所に並んで、おそろいのエプロンで?」


 あからさまに不機嫌な声を聞いて、あたしは逆にちょっと楽しくなってきた。


「同棲中のカップルみたいでしょ」


 あたしが長谷川さんにすり寄ってみせると、


「歳の近い父娘みたいね」


 先生は軽く肩をすくめて自分の部屋へ向かい、


「そんなに老けて見えるかな……」


 長谷川さんはあたしの言いつけを守って一定のペースでお鍋をかき混ぜている。

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