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九月一日

 その日の朝食は和風だった。


 白米とみそ汁からは湯気が立ちのぼり、焼き鮭の身の鮮やかな紅色に対して、皮は黒色でカリッと焼けている。小鉢にはしそ昆布が少々。朝からなかなか手間のかかった献立である。


「……そういえばわたし、白みそって初めてかも。みそ汁が甘いのって始めは違和感あるけど、慣れると悪くないわね」


 みそ汁を一口飲んだ古井河が感想を述べると、それを皮切りにして我が家のみそ汁報告会が始まった。


「ウチは白みそと普通のみそが半々くらいだったかな。大根やらニンジンやら玉ねぎやら、野菜もけっこう入れられてたっけ」


「それ長谷川君のお母さん豚汁と勘違いしたんじゃないの」


「あたしん家はあたしの好みによって白みそオンリーです。油揚げは外せません」


「ああ、ウチは油揚げを入れない側の家だったから」


「あたしがここの食卓を牛耳っている以上、宗旨替えしてもらいます」


「着々と水渡さんの色に染められているわね」


 七海が満足げに胸を張り、古井河が面白がってそんなことを言う。


「それはいいんだけど、納豆だけは勘弁してほしいな」


 僕の視線の先、女性陣の席には納豆のパックが置かれている。僕のところにはない。和朝食のたびに二人から薦められるのだが、そのたびに丁重に断っている。


「それが信じられないのよねぇ」

「はい、ノー納豆ノーライフですよ」


 二人は口をそろえて僕の態度を否定しつつ、納豆をかき混ぜる動作をシンクロさせる。


 だが、どう言われようが僕は納豆が嫌いだ。

 臭いがまず耐えられないし、際限なく伸びる細い粘糸も駄目だ。口の中でもしつこく臭気を放ちながら粘りの勢力圏を広げていく、あの腐った大豆を食卓に置いてはいけない。あれはそもそも食べ物ではないのだ。


「納豆を食べないから元気が出ないのよ」


「ビタミンにミネラルに食物繊維も、たっぷり入ったすばらしい発酵食品なんですよ。長谷川さんの歳だったら、ええと」


 七海はスマホの電卓を使って謎の計算を行い、


「毎朝一パックと考えても、約一万一千パックもの納豆を失ってきた計算になります」


「それ、離乳食の頃から食べさせてないかな?」


「食育でしょ」


 僕は閉口した。

 二人の納豆賛美にはついていけない。

 納豆を食べてないばかりに人生まで否定されそうな勢いだった。


 食後の口臭という問題点をついてやろうと思ったが、それは理性がギリギリ押し止めた。どう考えても悪手だ。恐ろしい反撃が来ることはわかり切っている。


 言葉での戦いにおいて、女性対男性という時点ですでに勝ち目がないのに、そのうえ数でも負けているのだから話にならない。

 納豆至上主義者たちへの反撃をあきらめて、焼き鮭の身をほぐしにかかる。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ワイシャツにネクタイを通し、服装を鏡で確認してリビングへ戻ると、二人も身支度を終えたところだった。


 古井河は女教師然としたレディススーツ。表情は凛々しく、口元の艶ぼくろが色っぽい。寝起きのだらしなさを知っている人間からすれば詐欺のレベルでの変わりようである。


 七海は女子高生然とした制服姿。赤いリボンのついた半袖のシャツに、短いスカート。これくらいなら大人しい方ですよ、と言っていたが大丈夫だろうか。というか僕は何を心配しているのだろうか。


 今日は九月一日。

 新学期の始まりの日だということを、ここ最近は仕事でしか意識していなかった。例えば、弁当用の商品の売れ行きが伸びるだとか、弁当を買っていく学生客が増えるといった、注意すべきポイントのある日として。


 しかし今日は、七海があらためて伯鳴高校へ通い始める日なのだ。

 そのためにやった無茶の数々を思えば、感慨深いものがある。


「あら、長谷川君、ネクタイが曲がってるわよ」


 古井河が僕の首元に手を伸ばし、ネクタイの位置を調整する。おかしいな、今日はしっかり整えたはずなんだけど。


「あっ、センセずるい。狙ってたでしょ」


「なんのこと? わたしはただ、同居人の格好がだらしないのが許せないだけ」


「長谷川さん、これしきのことで新婚夫婦っぽいとか思わないでくださいね。はいこれ、ハンカチです」


「ちょっと水渡さん、手渡してくれたらいいから、ポケットに無理矢理ねじ込まないで」


 古井河はネクタイをつかんでは引っ張って、明らかに位置がずれてきていた。七海は僕たちの周りを子犬のようにつきまわっている。


 ばたばたと騒々しくて、新婚夫婦なんて発想はとてもじゃないが出てこない。


 だったら、この三人をひとまとめにしてみたら?


 ――仲のいい家族みたいだ。


 するりとそんな言葉が浮かんできて、笑いそうになった。




「それじゃあ」


「行って」


「きまーす」


 部屋の鍵を閉めて、それぞれの移動手段でそれぞれの目的地へ向かう。


 あの大雨の日。

 ここで座り込んでいた七海と出会ったのは、およそひと月前のことだ。


 当時の七海にとって、この部屋は一時の逃げ場であり、隠れ家に過ぎなかった。

 では、今はどうだろう。

 遠慮なく「行ってきます」と「ただいま」を言える場所になっているだろうか。


 僕がそういう場所を用意するのは当然として。

 彼女には、それを特殊ではあっても、特別なことだと感じてほしくはなかった。


 僕は平然と、何食わぬ顔をして、彼女の居場所を守りたいのだ。

 それがこの三人ぐらしにおける、自分の役目だから。

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