結果報告と最終確認
およそ二時間かけてアパートに帰ってきた。
こんな長い時間の運転は久しぶりだったので、駐車場に車を停めると、肩の荷が下りて深いため息が出る。
「何を話したのか、聞かなかったね」
あのあと、洋美さんと僕が何を話していたのか。
退屈な道中では絶対に聞いてくると思っていたが、七海は一切、その話題に触れなかった。
「そりゃあ、気にはなりましたけど……、わざわざあたしを遠ざけたんですから、聞かせたくない内容だったってことでしょ。それにいちいち踏み込むほど、あたし、空気が読めない人間じゃないつもりですけど」
「なるほど」
「大人でしょ」
「いや、大人でもそういう思慮ができない人はいるよ。だから、大人だとか子供だとか、そういった言葉で精神的な成熟度を区別することはない」
「つまり、ほめてるんですか? たしなめてるんですか?」
「うん? 両方じゃないかな。あまり意識してなかったけど……」
その返事のどこが不満だったのか、七海は唇を尖らせる。
「もう、ちゃんと意識してくださいよ。長谷川さんの言葉で一喜一憂する人だっているんですから」
「そうかな」
「そうです。部下にとって上司の言葉は絶対なんです。ちょっとほめられただけで舞い上がるし、ダメ出しされたら落ち込んじゃうんです」
「肝に銘じておくよ」
「はい、よーく考えてくださいね」
子供に説教されてしまった。
しかし、七海の言うことにも一理ある。少しばかり相手との距離が近くなると、話をするときに深く考えなくなってしまうのはよくあることだ。だからこそ、親しき仲にも礼儀あり、という言葉が生まれたのだろう。
――そして、これから対峙する相手には、最大限の礼儀を持って接しなくてはならない。
歩きなれたアパートの階段を一歩上がるごとに緊張感が高まっていき、それは部屋に入ったときに最大限に達した。
古井河がソファに座っていた。
いつもは壁に沿った配置のソファが、今はなぜか窓を背にしてリビングの入口を向いている。テーブルが隅にどけられて、古井河と僕たちを隔てるものは何もない。まるで玉座の間のようになっていた。
「遠路はるばる、お帰りなさい。無事なようで良かったわ」
レディススーツ姿の古井河が、二人掛けのソファの中央で足組みをして、僕たちを出迎える。その表情は逆光のせいでよくわからない。
「ご心配、痛み入ります」
「……長谷川さん? 何言ってんの?」
「いや、なんかついね」
女王陛下に謁見するみたいな雰囲気に乗せられてしまった。うっかり跪くところだった。
僕たちのおしゃべりを咎めるように、古井河は足を組み直す。
「長谷川君って思ったより行動的なのね」
「時間がなかったから、焦って動いただけだよ」
七海の転校と同居には、親の許可が必須だ。許しを得られなければ何も始められないから、まずそこを確定させたかった。それだけの話だ。
「ふーん? 水渡さんの顔を見る限り、OKだったみたいね」
「ああ」
古井河はわずかに眉を動かしたが、反応はそれだけだった。未成年の実の娘と年上の男性の同居を許す母親、という非常識な判断にも、それほど驚いた様子はない。
古井河はこれまでにも何度か、洋美さんと電話連絡をしている。そのやり取りのなかで、古井河なりに洋美さんの人格を感じ取っていたのかもしれない。この親ならそういうこともあるだろう、と。
「でも、わたしには何も話してくれなかったわね」
「ええと、それは」
「朝っぱらから電話一本で、水渡さんが伯鳴にまた入れるか調べてくれ、だなんて」
「いや、あれはほとんど昼間――」
古井河に連絡を入れたのは朝の十時を過ぎてからだ。そう弁明しようとしたが、鋭い眼光によってさえぎられる。素直な謝罪。求められているのはそれだけだった。
「――朝っぱらから電話を掛けるという社会人にあるまじき非常識なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
「ふん。鬼の居ぬ間になんとやら、ってことでしょ」
僕は無言で頭を下げる。平謝りである。
――と、七海が僕の前に回り込んだ。
まるで僕を守ろうとするかのように。
「センセ、あんまり長谷川さんを責めないで」
あるいは、古井河女王に立ち向かうかのように。
「長谷川さんは、あたしのために、何時間も車を運転して、お母さんに会いに行ってくれたんだから。あたしのために。だったらあたしも同罪でしょ」
かばってくれるのはありがたいが、しかし〝あたしのため〟を強調しすぎているように聞こえたのは、こちらの気のせいだろうか。
「大人と子供が一緒にいて、同罪なんてありえないわ」
古井河はため息をつく。
お説ごもっともであるが、しかし〝子供〟という単語にことさら力が込められているように聞こえたのは、こちらの気のせいだろうか。
「……それと、いちおう報告ね。転校の方はなんとかなりそうよ」
古井河は渋々といった口調で語る。相手を喜ばせるのがわかっているからだろう。
「ホントに?」
案の定、七海の声は弾んでいた。顔が見えなくても笑顔になっていると確信できる、うれしそうな声だ。
「ええ、編入試験は、あなたの学力なら必要ないでしょう。親御さんを招いての面接くらいかしら。夏休みが明けてからでは、こんな風にはいかなかったはずだから、そこは長谷川君の即断のおかげね」
最後の褒め言葉に、七海はうれしそうな顔でこちらを振り返る。
ほめられてもあまり実感がないが、七海がそんな風に喜んでくれるのは悪くない。
ただ、七海の肩越しに見える古井河の表情は、相変わらず冷ややかに僕を見据えている。
「本当に、水渡さんを住まわせ続けるつもり?」
やはり来た、核心を突く最終確認。
「ああ」
それに僕は、シンプルにうなずきを返した。
「それなら、仕方ないわね。三人ぐらしは継続ということで」
古井河は当たり前のように〝三人ぐらし〟と言った。
それはつまり――
「えーっ? じゃあセンセも居座り続けるの?」
「水渡さん、言い方」と僕はそっとたしなめる。
「年端のいかない女子生徒を、いい歳した男と二人きりで同居させるわけにはいかないでしょ?」
「いかないことないのに」
「わたしは家賃から水道光熱費、食費に雑費まで全部出すの。だから実質、賃貸契約みたいなものよ」
「それには部屋主の許可がいるんじゃないですかぁ?」
不服そうな七海をスルーして、古井河は部屋主に問いかける。
「かまわないでしょ」
「ああ、もちろん。毒を食らわば皿までと言うし」
「何よ、わたしが皿なの? ……というか食らうつもりなの? 毒を?」
「言葉ひとつで目くじらを立てないでほしいな。政治家じゃないんだから」
「ちょっとした言葉の端々に本音が現れるものでしょ」
「〝乗り掛かった舟〟の方が良かったんじゃないですか」
と七海が笑い、
「ああ、それだ」
と僕は頭をかく。
しかし心の中では、違うよ、と七海の言葉を否定していた。
ここはやはり〝毒を食らわば皿まで〟が正しい。
そちらの方が、覚悟を決めている感じがする。
騒々しいやり取りが落ち着くと、七海が急に神妙な顔つきをした。
「あの、あたし、ひとつ聞いておきたいことがあって」
「何?」
「どうして、こんなに良くしてくれるんですか?」
迷子になった幼子のような顔で続ける。
「あたしにあんまり都合が良すぎるから、怖くて聞けなかったんですけど、いま聞いておかないと、ずっとモヤモヤを抱えることになってしまうから……」
潤む瞳をこちらに向けて、七海は答えを求めている。
必死な眼光はまるで似ていないが、その目元はそっくりだ。
僕は彼女の母親を思い出す――
◆◇◆◇◆◇◆◇
「「やけにあっさり許可したな」って顔をしてますね」
七海を遠ざけて、二人きりになると、洋美さんはそう切り出した。
「そうですね。もっと断固として反対されると思っていました」
「もし断っていたら?」
「そのときは、この話が終わるだけです。水渡さんはこちらへ引っ越し、私は向こうのアパートでひとり暮らしを続ける。そうして、本来の形に戻る」
「あら、あの子をさらっていく、くらいの気概はないんですか?」
洋美さんは面白がって首をかしげるが、こちらにそんな余裕を挟むつもりはない。
「……例えば、水渡さんが子供としてあるまじき扱いを受けているのだとすれば、そうする動機にはなるでしょう。でもこれは、極論すれば単なる転校です。珍しいことではありません」
「ええ、そのとおり。あの子が願い、あなたが受け入れ、わたしが許した。その結果よねぇ」
逆に言えばそれは、誰か一人が意見を翻すだけで終わってしまう、不安定な状況と言える。
七海の願いは聞いた。
自分の望みは理解している。
では、洋美さんはなぜ、この非常識な同居を許すのだろうか。
「こういうことを言うと、人でなしみたいに思われるかもしれませんけど……」
洋美さんは髪の毛を指先でくるくると弄びながら話をする。
「わたしとしては、ね。七海ちゃんが戻っても戻らなくても、どちらでも良かったんです。どっちにしても、メリットとデメリットがあるっていうか……」
「メリットと……、デメリット?」
「七海ちゃんは家事を頑張ってくれるから、いてくれたら助かるけど、それだと、彼とゆっくりできないでしょ? そういうジレンマがあって、悩ましいところだったの。そこに、長谷川さんの申し出があったから、そういうことなら、お願いしようかなって。七海ちゃんの本当の気持ちが知れて感動したっていうのも、もちろんあるんですけどね」
あまりに開けっ広げな物言いに、こちらが何も言えないでいると、洋美さんは口元の笑みを収めて、こちらを見つめた。
「――身勝手な大人と責めますか?」
「……いえ、」
「でしょうね、だって、あなたも同じだもの」
◆◇◆◇◆◇◆◇
――水面に映る月のように捉えどころのない瞳が、今も脳裏に焼き付いて、僕の言動を見張っている気がした。
そのまぼろしを振り払い、目の前の彼女に、正直な答えを返す。
「しばらく三人で暮らしてみて、それが思いのほか楽しかったんだよ。だから……、終わってしまうのが惜しいと思った」
僕の答えがそんなに意外だったのか、七海は呆気に取られている。まだ続きがあるのではないかと待ち構えている様子だったが、五秒が経っても、十秒が過ぎても、こちらが何も言わずにいると、
「えっと、それじゃあ、長谷川さんは……、いきなり有休取って二時間も車を飛ばして、うちの親と直談判して引き留めようとするくらいには、あたしとの生活が楽しくて、終わらせたくなかったってこと、なんですね」
「コラ、あたしじゃなくてあたしたちでしょ」
と古井河がこちらをにらみながら即座に訂正を入れる。
「わかりました、ありがとうございます」
七海は頭を下げると、足取りも軽く台所へ向かう。
「もういいのかい?」
「はい、楽しいって、長谷川さんのための――つまり、自分のための理由ですよね。だったら信じられるし、それに、すごく、うれしいですから」
鼻歌交じりでエプロンをかけながら、料理の準備を始めていく。




