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母と娘

 水渡母との面会場所は、引越し先の近くのファミレスだった。


 避暑目的の客で混雑しているかと思いきや、店内はがらんとしていた。暑すぎて出歩く人間が少ないせいだろうか、それとも単にこの店が不人気なせいか。


「顔を合わせるのは、初めましてね。七海の母の、洋美ひろみです」


 向かいの席に座る洋美さんは、うっすらと笑顔を浮かべたまま言った。


 第一印象として、若い。


 年齢は37歳と聞いているが、どこへ行っても「そうは見えない」とお世辞抜きで言われるような、若々しい外見をしている。


 若さだけではなく、無邪気さがセットになっているからだろう。幼さと言い換えてもいい。構いたくなるような弱々しさや、隙のある女性だと感じた。


 その印象はたぶん、意図的なものだ。

 この人は、仕事などで少しでも困ったことがあれば、男たちからの手助けを当たり前のように受け入れるだろう。なんなら本当は困っていなくても、困ったふりをして助けを待つのではないか。

 もっとも、女性に慣れているとは言いがたい僕の心証なので、真偽のほどは保証しかねるが。


「……初めまして、長谷川です」

「長谷川さん。うちの七海がお世話になっています」

「いえ、世話になっているのはこちらの方です。水渡さんが家事全般をしてくれるおかげで、とても助かっていますから」


 事実だが社交辞令でもある、そんなやり取りを聞いて、七海は照れくさそうに肩をすくめる。


「ご迷惑をかけてないのなら良かったです。それで、今日はどうしてこちらへ?」

「それについては、水渡さんから話があります」


 話を振ったものの、七海はすぐに口を開かない。


「七海ちゃん、向こうでの用事は終わったの?」


 問いかけられて、恐るおそる顔を上げる。

 そして、まっすぐ母親の目を見つめながら、言った。


「実はね、お母さん……、あたし、向こうの学校をちゃんと卒業したいの」


「まあ」

 と洋美さんは丸くなった口を手のひらで覆う。

「それって、つまり、わたしたちと一緒にではなくて、向こうでひとり暮らしをしたいってこと?」


「あ、えっと、その」


 七海ははっきりしゃべれなくなり、母親から目を逸らしてしまう。


「それは難しいわねぇ、とにかく住む場所を構えるお金がないわ。今から奨学金なんて無理でしょう? あの人が――今おつきあいしている人が、そんなお金を出してくれるとは思えないし……」


 現実的な話になった途端、洋美さんは落ち着きがなくなる。視線はきょろきょろとさまよい、しきりに頬をなでたり髪に触れたりする。


〝そんなお金〟という言葉には反感がないでもなかったが、僕は口出しせず、静かに成り行きを見守る。今はまだ、七海はすべてを打ち明けていないからだ。


 七海は人見知りするタイプではないし、自分の考えもきちんと口に出せる子だ。

 そんな彼女であっても、親の意見に反対するのは容易なことではない。


 親というのは厄介なものだ。物心つくまでは彼らに付き従わなければ生きていけなくて、あるていど心身が成熟してからも、あらゆる物事の評価基準や比較対象、あるいは反面教師として意識し続けてしまう――それはもはや、人というより環境に近い。


 それでも、望みを叶えるためには、彼女が自分の言葉で伝えなければならない。

 ようやくそれで、スタートラインだ。


 ちらりと横目でこちらをうかがう七海に、僕は小さくうなずきを返す。


「お母さんには、感謝してる」

 七海は改めて、そう切り出した。

「離婚してから、女手一つであたしを育てるの、大変だったと思うし……、だから家事は率先してやってきたし、バイトのお金も家に半分入れてたし……。むかし苦労した分、今、お母さんが男の人と付き合うのも、いいことだと思う。でも、あたしは……」


 いちど視線を外し、数秒ほどの間。


「今の高校は……、初めて自分で目標を決めて、努力して、つかみ取った場所だから」


 背筋を伸ばして、誇らしげにそう宣言した。


「仲良くなった友達もいるし、それに……、好きな人もいるし」


 ほう、と僕は小さくうなずく。

 七海は学校では人づきあいが希薄だ、と古井河は語っていたが、そんなことはないらしい。友達がいて、好きな人もいる。となると、なるほど、アラサー男性と同居してまで伯鳴高校に執着するのも納得である。


「だから、あたしは、引越しはしたくない。向こうに残りたいの。わがままを言ってるって、わかってるけど、でも……」


「七海ちゃん……」


 洋美さんの表情が強張る。

 七海の希望それ自体を否定しているわけではないのだろう。ただ、金銭面という現実的な問題があって、娘の願いを聞き入れられないでいる。


 だったら今が、その懸念を取り除くタイミングだ。


「学費はともかく、住む場所については今までどおり、私の部屋を使ってもらって構いません」


「……え」


 こちらからの提案に、洋美さんは丸くなった口を手のひらで覆うのも忘れて、ぽかんとしていた。信じられないものを見たという顔だ。


「……本気なの?」


「はい」


 と僕はうなずきを返す。


「七海ちゃんも、そのつもり?」


 洋美さんは娘の真意を確かめるように、七海の顔をのぞき込んだ。隣のアラサー男性に騙されてるんじゃないの? という疑惑の念をひしひしと感じるが、この程度なら想定内だ。

 むしろ、予想していたよりもかなりゆるい。年頃の娘を同居させてやろう、などと戯言たわごとを抜かすアラサー男性を前にしている割には、ずいぶんと落ち着いた反応である。


「……ん」


 七海はこくりとうなずいた。

 頬を染めるんじゃない、あらぬ誤解を与えてしまうだろう。


「ええと、これってもしかして、娘さんを僕にください、っていう状況なのかしら……」


 洋美さんは頬に手を添え首をかしげる。


「違います」


 母娘そろって恋愛脳め……。


「でも、長谷川さんにメリットがないでしょう?」


 洋美さんは口元に笑みを浮かべつつも、こちらをじっと見つめてくる。

 当然の疑問だった。

 なのでもちろん、答えは用意してある。


「先ほども言いましたが、仕事で忙しい人間にとって、家事をやってくれるのはとても助かりますから。それだけで十分すぎるほどです」


「そう……、わかったわ」


 洋美さんがうなずき、七海は顔をほころばせる。


「いいの? お母さん」


「七海、あなたが自分で決めたことなら、これ以上は何も言わないわ。……家賃がかからないのはいいことだし」


 後半のセリフをこちらに向けて、洋美さんはおだやかに笑う。


「でも、いろいろ手続きが必要でしょ? もうあなたは転校しちゃってるんだし」


「今日はお母さんの許可をもらいに来ただけだから。細かい話は、また今度。書類へのサインとか、もしかしたら面談とかも、頼むかもしれないけど……」


「それくらいならお安い御用よ」


 申し訳なさそうに上目遣いをする娘へ、母親は口元を上げてみせる。


 これは、了解を得られたということで構わないのだろうか。


 もっと突っ込まれると思っていただけに予想外だ。

 ひょっとしたら顔に出ていないだけで、内心では激しい葛藤があったのかもしれないが、未成年の娘を赤の他人と同居させるという一大事の判断にしては、ずいぶんとあっさりしている。


 ――などと考えていたら、不意に洋美さんと目が合った。


「七海ちゃん、ちょっとだけ、席を外してくれない?」


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