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独身男性の視点から見る七海の変化

「背中、流しましょうか?」


 湯上り女子高生のしっとりとうるんだ瞳を向けられて、脱衣所の扉に手をかけた状態で硬直してしまう。


「……は?」


 こちらの反応が予想外だったのか、七海はあわてた様子で小刻みに首を振った。


「ちょ、固まらないでくださいよ、いつもの小悪魔ジョークじゃないですか」


「ダメよ水渡さん」


 古井河が椅子から立ち上がって声をあらげる。


「スク水なら許されるとか考えているのかもしれないけど、それは大きな間違い、むしろ逆効果になりかねないわ」


「え、センセ、なに言ってるの……」


「ごめんよ水渡さん、酔っ払ってるんだこのアラサー」


「誰がアラサーよ、……いやアラサーなんだけど……」


 古井河は力なく椅子に座り直す。


 入浴する男性に対して『背中を流そうか』なんて尋ねるのは、確かに七海の言うとおり、ありがちなジョークだ。過剰反応してしまったこちらが悪い。


 しかし、そんな僕たちの妙な空気を、七海は妙な方向に誤解したらしい。


「ふーん……」


 と腕組みをして、汚職政治家でも見るような視線を向けてくる。


「元同級生が二人きりで? ほどよくお酒も入って? いい雰囲気になってたのかもしれませんけど? 未成年も同居してるんですから? 教育上よろしくないことは? あまりなさらない方がよろしいんじゃないですか?」


 ネチネチと語尾を上げて嫌味を連発されるが、僕たちは返す言葉がない。ふん、と七海は鼻を鳴らし、コーヒー牛乳を注いだグラスを持ってソファの方へ歩いていく。


 ご機嫌を取るのは古井河に任せよう。女性同士、そちらの方が適任のはずだ。

 そう言い聞かせて僕はそのまま風呂場へ向かう。


 逃げたわね、と言いたげな視線には気づかないふりをした。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 七海の変化は時間が経つにつれて、より明らかなものになっていった。


「長谷川さん、あたし今日からソファで寝ますね」


 風呂から出てリビングへ戻ると、洗濯物をたたんでいた七海がそんなことを言う。


 三人ぐらしを始めた当初から、七海には僕のベッドを提供していた。自分がまともなベッドで眠り、女の子にはソファを使わせるというのは、僕の価値観では〝無し〟だったからだ。


 決してフェミニストを気取っているつもりはない。


 自分のベッドをゆずっている一方で、七海に家事の多くを任せても抵抗感がないあたり、僕は案外、父に似て価値観の古い人間なのかもしれない。


 ――そんな思考は表に出さず、七海に理由を問うた。


「ん? どうして」


「だって、その……」


 七海は下を向いて言いよどむ。その手の中で僕のワイシャツがぐしゃぐしゃになっているが、あとでアイロンをかけてくれるのだろうか。


「長谷川さんのベッドで寝るのって、なんていうか、匂いが……」


「あ、ああ……、やっぱり臭うかな」


 タバコはやらないしアルコールもたしなむ程度の僕は、体臭もそうキツくない自負があった。しかし、それでも、若い子にとっては耐えがたい臭いなのだろうか。


 仕方がないとわかっていても、はっきり言われるとつらいものがある。


「あ、いえ、そういう意味じゃなくて、その……。長谷川さんがすぐ隣にいるみたいで、落ち着かなくて」


 七海は言いにくそうに目を伏せて、顔を合わせようとしない。


 ひょっとしてこれは、体臭だけではなく、存在自体を遠ざけたいと言われているのだろうか。違うと言ってほしいが、あまり追及して面倒くさいと思われるのもつらい。


「……まあ、そういうことなら構わないよ。睡眠の質は大切だ。私も最近、きちんと眠れてない日は、仕事の始動が鈍いなと実感するようになってきててね。むしろベッドで寝られる方がありがたいよ。ハハッ」


「へいへいピッチャー強がってるぅ」


 外野からヤジが飛んでくる。というかセンセはなんでまた新しいワイン空けているのだろう。


 しかし、古井河の言うとおり、僕はそれなりにショックを受けていた。

 これが娘から洗濯物を別にしてほしいと言われた父親の気持ちか……。


 ちなみにこの三人ぐらしにおいて、洗濯物はすでに男女別々に洗っている。それに加えて体臭の話だ。時間差での追い打ちであった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 朝、七海に起こされるようになった。こちらから頼んだわけではないし、そもそも僕は自力で起きられるのだが、彼女はそんなことなどお構いなしに布団を引っぺがすのだ。しかも、今までの起床時間よりもずいぶん早い時間に。


「長谷川さん、朝ですよ」


「ん……、あと三十分……」


「耐えますね……、これならどうですか」


「うっ……」


 カーテンの開く音とともに光が差し込んできて、思わずうめく。まぶしい陽光をさえぎろうとタオルケットを探すが、それはすでに手の届く範囲にはない。


 仕方なく上半身を起こして目を開けると、私服にエプロン姿の七海が立っていた。得意げな顔で僕のタオルケットを持っている。


「おはようございます、長谷川さん」


「どうしてもっと寝かしてくれないんだ……」


「早起きは三文の得って言うじゃないですか」


「この眠気を我慢して何が得られるというのか……」


「二人きりでゆっくりお話しできる時間とか?」


 七海は首をかしげて調子のいいことを言い、くるりとエプロンをひるがえしてリビングへ戻っていく。


 このまま二度寝してやろうかとも思ったが、それでは子供のいたずらに抵抗しているようで大人げない。立ち上がってリビングへ、そしてテーブルの席について、朝食の準備をしている七海を眺める。


 その動作はなめらかで、迷いがなく、料理に慣れているのが素人目にもわかった。


「長谷川さん」


「なんだい」


「あたし今日、青葉と会ってきます」


 包丁を使っている手元に真剣な目つきを向けながら、七海はそう宣言した。


 三ツ森青葉。


 七海の中学時代の友達で万引き犯の女子高生と、


「会ってどうするつもり?」


「謝るんです。進学先を黙っててごめんって」


「そうか」


 と僕は応じる。


 数年前の裏切りを、今になって謝罪したところで、相手との関係に変化があるのかどうかはわからない。ただ、謝ると決心した彼女自身には、間違いなく変化があるだろう。あるいは決心した時点で、すでに変化しているのかもしれない。


 あとは直接、三ツ森と会うことによって、トラブルが起こらなければいいのだが。


「気をつけて、行ってきなさい」


 ほとんど反射的にそう告げると、包丁の音が止んで、七海が目を丸くしてこちらを見ていた。


「青葉ってそんな危ない子に見えましたか?」


「いや、少し派手めなだけの女子高生だったよ。ただ……」


「ただ?」


「前に水渡さんが言っていたことを思い出したんだ。ほら、合鍵を渡そうとしたら、君は一度それを断っただろう」


 そして、ひどく冷めた表情で、僕の甘さを指摘した。


『――あたしがこの街とか学校とか人生とかが全部どうでもよくなって、どこか遠くへ行っちゃいたいって思ってたら?』


『副店長みたいな人は、格好のエサになっちゃいますよ』


 七海はバツが悪そうに目を逸らしつつも、手は動かして料理を再開している。


「あー……、その節は小娘のくせに知ったような口を利いてしまってゴメンナサイ……」


「あれは君の実感が言わせた言葉なんだろう。そこに年齢は関係ないよ。ただ……」


「また、ただ?」


「万引きの一件で話をしてみて、あの子は、君の言うところの『全部どうでもよくなって』いる状態だと感じたんだよ」


 投げやりなだけならまだしも、それが周囲への攻撃になってしまうと危険だ。大げさかもしれないが、七海がそれに巻き込まれはしないかと心配していた。


「それでもやっぱり、謝ってきます」


「そうか」


「……ちゃんと謝れるなんて偉いと思いませんか?」


 七海はこちらの顔色をうかがうように、上目遣いでそんなことを言う。


「いや、君の謝罪はどちらかというと、自分の気持ちをすっきりさせるためだろう」


「うわ、そういうこと言います?」


 七海は大げさにのけぞるが、そのリアクションはツッコミを受けるボケ役のような、想定内の気配を感じた。つまり、


「自覚してるんじゃないか」


「そりゃもちろんしてますよぉ、自分の気持ちがわからないお子様じゃないんですから」


 七海は口をとがらせつつ、頬をゆるませるという奇妙な表情をする。怒ったふりをしながらも、内心では嬉しさをこらえきれない、そういう顔だ。


「うん? それはつまりどういう顔?」


「少女のがんばりに冷や水を浴びせるひどい大人だなぁって思ったんですけど、でも、あれ、これってもしかして長谷川さん、あたしを少なくとも子供扱いはしてないんじゃないかしら、って思い直してニヤニヤしそうになるのを耐えてる顔です」


「自己理解が深すぎる……」


 そんなやり取りを交わしながらも、七海の両手は止まることなく、着々と朝食をこしらえていく。

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