溺れる子供を助けるために
あぁ、俺ってば一体どうしちゃったんだろ。
ついさっきまで普通に高校生をしていて、家に帰る途中に子供の助けになりたくて、川に足を突っ込んだところだったっていうのに。なんでこうなった。どうしてこうなった。
向こうの俺はあれからどうなっちゃったんだろうなぁ。あの感じだと、たぶん溺れて死んでしまったのではないだろうか。見事に川に真っ逆さまだったし……。底にも沈んでいってしまったし。
近くに人がいなかった分、子供が助けを呼びに行くまで相当時間がかかるはずだ。誰かが気づいて川まで来たとしても、その頃にはもう俺の体は下流に流され、川底だ。すでに手遅れとなっていることだろう。
しかし、だからといってなぜ俺は違う体に魂を宿してしまったのだろう。せめて転生させるなら、以前の記憶は帳消しにしてほしいところだった。そうすれば俺は自分に疑問を抱くこともなくウェインと名乗れたはずで、ウェインとして彼らしく振る舞えたはずなのに。
ウェインもこんな未熟な俺が体を奪ってしまって、きっとお空のどこかで怒っているに違いない。……元々どんな子だったかはわからないんだけどさ。でもなんとなく、そんな気がする。
お前の魂は本当に消えてしまったんだろうか。お前の意志は此処にあるんだろうか。俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。なぁ、どうしたらいいんだよ、ウェイン。俺、どう振る舞っていけばいいんだ?
ウェインは、どうしたかったんだ? どんな風に生きたかったんだ? どんな夢があったんだ? なにかやりたいこと、あったんじゃないのか?
そう問いただしたところで、答えてくれる彼ではないけれど。
深い溜息を吐いて滅入っている俺の近くで、子供達が川辺で無邪気に遊ぶ声が聞こえる。その姿を目で追いかけた俺は、更にげんなりとしてしまった。
お前達、よくここで遊べるなぁ……。だってここ、あの集落の人達がおしっこしたり、排便なんかもしちゃうところなんだろ……?
ここで遊ぶってことは、その中を裸足でばちゃばちゃ駆け回っているわけで。もしかしたら底には言葉で言い表したらいけないものが沈んでいるかもしれないわけで。汚物の中で遊んでるってことだよな……?
うん、俺にはやっぱり生理的に無理だよ……どう考えても無理ですよ……。ウェインだったら、その中に交ざって一緒に遊んだりするのかな。この衛生上、かなり「おえっ」なところではしゃぎまわったりするんだろうか。
しかもここって体も洗ったりする場所なんだよな。みんな、気にしないのか? 余計体に汚いものを塗しているんじゃないのか? 底は汚いけど水だけは綺麗だったりするんだろうか。出した物は下流に流れていっているから問題ないとか、そういうこと?
川の流れを見つめながら、俺は物思いにふけっていた。なんだかもう、色々と現実逃避したい気分だった。ウェインに生まれ変わって数時間しか経っていないというのに、色々と疲れてしまった。
人生で今が一番精神的に参ってるんじゃないかと思えてしまうぐらい、全てが嫌になりそうだった。
誰かに乗り移るだなんて、そんなこと経験したことがないからさ。むしろ本当にこんなことあるんだなって俺が驚いてるんだよ。対処法もわからないから、どうしたらいいかさっぱりだし。相談できる人もいないし……困ったなぁ。困ったよ。
頭を抱えては悩み、堪らず重苦しい溜息を吐き出す。吐き出したところで俺の悩みは消えないけれど。さらに重くなるばかりだけど。
もう一度川の中で溺れてみたら、元の姿に戻るんじゃないだろうか。
そんなバカみたいなことを考え始めた時、突如辺りに子供達の悲鳴が響き渡り、俺は息を呑んだ。
なんだ、と顔を上げると、川辺で遊んでいた子の内の一人が、水中でもがもがと手足をばたつかせているのが見て取れた。
まわりの子達はその様子に驚き、ただ呆然とし、それを突っ立って見ていることしかできずにいる。
お……おいおいおい、もしかしなくても溺れてんじゃないか、アレ! なんで誰も助けを求めに行かないんだ!? つうか、なんで助けてやらない!? みんなで腕を引っ張るとか、せめて体を支えてやるとかできるだろ……?
それでいいのか、お前達! 子供ながらももっと出来ることがあるだろう! 見ているだけって、そんな話あるか?
俺もここでボケっと傍観している場合ではないと、急いで子供達のところへ走り出す。だが、すぐに足が止まってしまった。
だってここは皆が排泄物を垂れ流しているところ。川の中へ足を突っ込もうとするも、俺の理性が本当にそれでいいのかと頭の中で呼びかける。
う、と言葉を詰まらせてしまった。
見た目は普通の川なのに。なんの変哲もない川なのに。水だって澄んでいて、川底を覗くことができるぐらい綺麗な色をしているのに。
俺だって、俺だって嫌だよ……。汚物の中に自分から突っ込んでいくなんて、本当は生理的に無理だ。夜も眠れなくなる程の嫌悪感が襲ってくるかもしれないだなんて考えると、泣きたくなってくる。
でもこのままじゃあの子が、溺れている子の命が危ないかもしれないんだ。汚いのが嫌とか、そんなこと言ってる場合じゃないんだ。わかるだろ? わかっているだろう、俺。状況をよく考えろ。
でも、だとしても、それでも俺の中の理性が必死に抵抗しようとしている……。
その間にも子供の体はどんどん水の中へと沈んでいく。
子供達はただ佇んで、その子が沈んでいくところを見守るばかりだ。
俺は比呂だ。ヒーローを目指す男だ。
汚物がどうとか、ヒーローであるならばそんな些細なことは気にしてはいけないはずだ!……多分。
いやいやいや、汚れたならば洗えばオーケー! 石鹸の一つや二つ、家にはあるって信じてる。一生懸命洗えば頑固な汚れも取れる、取れる! 拭っても落ちない体の汚れなんてきっとない! 心の傷も、いつかきっと癒える! というわけで、行くぞ俺! 立ち止まっている場合じゃないぞ、俺!
知らない場所で、いつもの俺じゃない体で、ヒーローとして初めての活動だ! 気張っていこうぜ!
「待ってろよ、そこの名前もよく知らない子……!」
覚悟を決めた俺は川の中へと単身で突っ込んでいく。
ざぶざぶと水を掻き分け、豪快に走ってきた俺の姿を子供達は振り返り、目を大きく開いて見つめていた。
なんだ、その目は。今は俺に驚いている場合じゃないだろう! そんなことよりも今はこっちを優先だ! 驚くぐらいなら手の一つや二つ、貸してやってくれないか。
俺は急いで溺れている子の腕を掴み、引っ張り上げた。
「おい……っ、黙って見てる場合じゃないだろ! どうして誰も助けを呼びに行かないんだ!」
「だ、だって……」
「だってじゃないだろ、緊急事態だ! 早く行け! 大人を連れてこい!」
「でも、ウェイン……今ここで動いたら、きっと僕達まで」
「だって、とか、でも、とか、そんなこと言ってる時じゃないんだよ! お前達の友達が死ぬかもしれないんだぞ、それでいいのか!?」
引っ張り上げようにも、ウェインのか弱い力ではどうにもできない事に気づく。
あぁ、またやっちまったよ俺! いつもの俺の体じゃないんだった! 十歳なんだったー! 息を詰めて踏ん張っても、ビクともしない。
「ウェイン、そいつはもう無理だ! 早く逃げよう!」
「はぁ……? なに子供のくせに薄情なこと言ってるんだよ……っ、友達なんだろ……!」
「早く逃げないと、俺達まで巻き込まれるぞ!」
巻き込まれるだって!? なにをまた馬鹿なことを言ってるんだよ……! 俺はこの子のこと全然知らないけど、絶対に見捨てたりはしないぞ! この子を置いて逃げて、取り返しのつかないことになってみろよ、絶対に後悔すんぞ!
もう一度足腰に力を入れて踏ん張ろうとした時、俺は一つのおかしな点に気がつく。
よくよく見てみると、子供達がいる場所は底が浅い。ウェインの背でも水は膝ぐらいまでしかなく、特別危ない要素はない。なのに、この子だけがこの場で溺れるようにして手足をばたつかせている。
なぜだ……? なにかが、おかしい。
俺は試しに膝を着いて、水の中に腕を突っ込み、直接川底を触り、確かめてみる。底は砂利になっていて、特になんの変哲もない普通の川だ。
だがその溺れている子のまわりだけ、どうも地面がぼこぼこと変化している。子供の左腕だけが川底に吸い込まれ、身動きが取れなくなっているようだ。
そこにだけ穴が空いていて、吸い込まれるようにして引っ張られてしまったのだろうか。たまに見る、プールの吸水口の事故と同じだ。そりゃいくら引っ張り上げようとしても、俺一人の力じゃ助け出せないわけだ。
ならば、と俺はその子の腕のまわりの砂利を掘りあげていく。
川の中では流れもあり、砂利も固い分なかなか手で上手くは掘れないが、少しでも隙間さえ空いてくれればそれでいいのだ。隙間に指を突っ込み、そこからこの子を引っ張り上げてみる。
指が傷つくだなんて気にしていられない。爪が剥げるかもだなんて、言ってられない。ウェインの腕力でどこまで出来るかはわからないが、とにかく今はやってみるしかないんだ。
「なにしてるんだよ、ウェイン! そいつはもう食われてる! 逃げ出せるわけがないんだよ!」
その言ってる意味が俺にはさっぱりわからないんですが! どんな状況なのか全く判断がつかないから、説明するならするで主語からきちんと話してくれないかな!?
すると、急に川底がぼこぼこと波打ち始める。地面が生きているかのように蠢き始め、さすがの俺もその異変に気づき、水の中から腕を引き上げた。
子供達が悲鳴を上げながら、一斉にその場から退散していく。
だけど溺れている子だけはそのままだ。手足はばたばたと動いていることから、まだ息はあるようだ。なんとか助け出してやらなければ。
ていうかホント君達、薄情すぎやしないかい!? さっきまで一緒になって遊んでたくせにさ、そんなに我が身が大事か? 俺には見捨てるなんて選択肢、考えられないぞ! そんなこと言ったってあの子達には通じないんだろうけどさ!
そうこうしている内に、今度は徐々に水面が上がっていく。俺もバランスを崩し倒れそうになるが、なんとか足を踏ん張り耐えてみせる。
すると溺れていた子供の体も水面と同じく浮上していき、それはそのまま宙に浮いていった。
「……は?」
その惨状を目の当たりにし、俺は唖然とした。
子供の体は重力に逆らい、確かに空へと浮いていった。だがその子が足掻いていたのは、決して溺れていたからじゃなかったことを今になって理解する。
子供の片腕は何かに強く噛みつかれ、どうしても逃げるに逃げられない状況になっていた。噛みつかれているというか、さっきの子が言っていたように食われていると表現したほうが正しいのか。
ミミズに似た、体長三、四メートルぐらいはありそうな大きなバケモノが、子供の腕に歯を立てたまま水面から顔を覗かせてきたのだ。
嫌でもバケモノと目が合うことになり、俺はその場で固まってしまった。
なんだ、この無駄に大きなバケモノは。バケモノというより、モンスターだ。ロールプレイングのゲームに出てくる、中型サイズのモンスター。まるでそのもの。
実物を目の当たりにした俺は恐怖とショックでそのまま意識を失ってしまいそうになる。が、なんとか頭を振って堪える。ここで俺が意識を手放したら、誰があの子を救うんだ? 俺しかいないだろう、しっかりしろ!
しかしこれ、本物なんだよな? テレビのドッキリで本格的なモンスターを用意しました、とかじゃなく、本物のモンスターなんだよな?
泣き叫ぶ子供の姿を見ていたら、これは冗談なんじゃなく本当に今起きていることなんだと実感する。