どのタイミングで傷つけられた?
「…………?」
『ヒロさ……っ、――――!!』
ルナが隣で息を呑んだのがわかる。
でも俺は自分の状況を確認できる程の余裕が、今はない。
それでもどうにか小道まで進もうと這いつくばって移動してみるも、今度はなにかどろりとした物が腹の辺りを流れていくことに気がつく。
さっきから一体どうしたのだろうと服の上から腹を撫でてみると、どうやら一部分が冷たく濡れている。ぴちゃぴちゃと、まるで大量の水を零したかのように。
雨で濡れたのだろうか。
他はこんなに酷く濡れたりしていないのに?
俺の腹の辺りだけが異常な程濡れるって、ありえないんじゃないか。
つん、と鉄臭いニオイが鼻を掠めていく。
「さ、っきから……なんだ……?」
雨が静かに降り注ぐ音だけが、俺の耳に届く。時間が経てば、視界がぐらぐらと揺れ始める。
でもこんなところで倒れてはいけないと、前に進むことだけを考えながら、ゆっくりと一歩ずつ踏み出していく。
だけど途中、足が縺れて転んでしまった。
妙に息が切れているし、腹は痛いし、目はチカチカしているし、それ以上にやっぱり腹が痛いし。
這いつくばってでも逃げなければと動き出そうとするも、手にべたりと赤黒いものがついていることに気がついてしまった。
「え……?」
『展開します! こうなっては、人目など気にしていられません……!』
ルナはなにを展開しようとしているんだろう。それよりも、俺の手についているこれはなんだ?
血……。俺の腹から、血が流れている?
一体、いつ。どこで。どのタイミングで傷つけられた? だからこんなに腹の辺りが痛むのか?
傷を認識すれば、表現しようのない激痛が更に俺を襲う。痛みを和らげようにも、どう動いても、黙っていても、それは治まってくれない。
呼吸は浅くなり、とにかく息苦しい。
でも、逃げなければいけない。怪我も気になるけど、今の俺のするべきことはアディから距離を置くことだ。
ずるずると、痛みに歯を食いしばりながら耐えつつ地面を這っていけば、後ろから笑い声が聞こえた。
「……無様なものね。虫のように這いつくばってでも私から逃げ出そうとするだなんて、往生際が悪いにも程があるわ」
アディではないその声に、恐る恐る肩越しに振り返る。
するとそこには、フォルトゥナ学園の試験会場入口付近で顔を合わせた、アディの母親らしき女性が佇んでいた。
口元に手を当てながら、俺のことを推し量るような目で眺めている。
なぜ、この人がここにいるんだろう。俺が逃げ出したことに気づいて、すぐに後を追ってきたんだろうか。
その視線に不気味さを感じて、すぐに顔を逸らし、小道へ向かい這っていく。
逃げたところで人通りの少ないこの場所では助けを求めることなどできないし、そもそも俺のような容姿の人間を見ず知らずの誰かが助けてくれるとは思えない。
痛い。けど、そんな弱音を吐ける状況ではなくなってきた。
「……なぜ、私の結界を崩すことができた? なぜ、お前はまだ生きている。まさか、不手際があったのではないだろうな」
「……母さん、なぜあいつを……」
「不甲斐ないわね、お前は。その程度で膝をついて。何の為にお前を見張りにつけたと思っている」
ルナの術が解けたであろうアディが、母親に声をかける。だけどその返しはとても冷めていて、彼への気遣いなどは一切感じられない。
俺は止まるわけにも行かず、地面を這ったままだった。
「お前が失敗したのか? 奴にくだらん同情をし、自ら逃がしたのではないだろうな」
「……ちが、う。俺は……俺は、きちんと母さんの言う通りに、瓶を開けて……あいつのところへ」
「ではなぜ外へ逃げ出している」
「わか、らない。でも俺は確かに、そうしたんだ……母さんの、言った通りに」
アディが、責められている。
アディの母親に対する言葉遣いは、きちんと言いつけを守ったと主張する幼い子供のような、たどたどしい話し方だ。だから怒らないで、と。遠回しにそう言っているようにも聞こえた。
聞いているこちらが心配したくなる、険呑な雰囲気が二人の間を漂っていた。
「それ、よりも……どうしてヒロを、あいつを傷つけたんだ……? なんで、そんなことをしたんだ……っ、どうして。俺はそんなこと、聞いていない」
「どうして? 決まっているだろう。これ以上私の手から逃げられないよう、恐怖を植え付けておくためだ」
アディの母親が、こちらへ向かって歩いてくる。
草を踏みつける音が近づく度に、俺の心臓が飛び出そうな程大きく鼓動を放つ。
逃げなければいけない。捕まるわけにはいかない。捕まればそこで終わりだ。だけどこの傷を前に、逃げ切れる自信がない。
「恐怖とは、痛み。傷など放っておいても塞がる。死に至る深さではない。安心しろ」
地面を這いつくばりながらも、その声はきちんと俺の耳に届いている。
そんなことを言われて安心できるわけがないだろう。ふざけるなよ。
しかもその言い方だと、アディの母親が俺に怪我を負わせたってことで合っているよな? 放っておいても塞がるって、傷の手当て一つしないつもりかよ。化膿したらどうするつもりなんだ、せめて応急処置ぐらいしろっていうんだ。
そんな奴の手に捕まってたまるか。好きなように扱われてたまるか。絶対、捕まってなんかやらない。
「待っ……てくれ、母さん。少し、時間をくれ。必ず俺が、あいつの意思を奪うから。だからそれまでは、俺がなんとかするから。だから――――」
「黙りなさい」
アディの言葉を遮るように、彼の母親はぴしゃりと言ってのけた。それ以上は何も言わせないといったようだ。
「お前は奴を道具として見ていない。奴に対し、なにかしらの感情を抱いている。そんなことでは計画に支障を来すだけだ。誰であろうと邪魔をすることは許さないと言ったはず」
「だけど、母さん」
「お前を捨てずにここまで生かしたのは何のためだと思っている」
捨て、ずに……?
俺はその心無い言葉に、ぴくりと反応した。
「ここまで育て上げてやったのは、誰だ。他人と違うお前をここまで育てるのに、どれだけ苦労したと思っている」
「……っ」
「お前のせいで、私がどんな目に遭ってきたかは知っているな。誰のせいで、他人に蔑まれるばかりの人生を送ることになったのか、理解しているな?」
俺の体の下に、ゆっくりと、もう一度魔法陣が描かれていく。
恐らくルナが瞬間移動しようと展開してくれているのだろう。
俺がここで捕まるわけにはいかないから。俺を利用させるわけにはいかないから。
でも俺も、ここですぐには逃げ出せない。そんな言葉を聞いたからには、放っておけない。言ってやらなきゃ、どうにも気が済まない。
親が子供に放つとは思えない言葉に、ただ反吐が出そうになる。
「自分がどのような存在であるか、身の程を知れよ。お前のような異端な子供を相手にする人間など、この地にはいない。今生きていられるのは、私がこうして気にかけてやっているからだということを忘れるな」
「俺、は……俺は……」
「……術が展開されているな。マナを持たない者には使えぬ術だと思ったが、どうなっている。なにか後ろ盾がいるのか」
腹からの出血は止まらないし、痛いし、何も考えられないくらい頭がぼーっとしてきたし、雨は冷たいし、呻き声を上げたいぐらい辛い。
でも、言わなきゃいけないことがある。あの人に、言ってやりたいことがある。
アディがどんな想いで母親の言葉を聞いているのかを考えたら、ただ悲しくて仕方ない。
「……俺は、ただ」
「その力がなければ、お前のような子供などすでに見限っていた。闇に感謝しておきなさい。そんなことよりもまずはあの男だ。まさか瓶の中身を盾にしているわけではあるまい」




