暗い水の中、闇に包まれた視界
* * *
暗い水の中を泳いでいた。
どこを見ても、世界は闇に包まれている。とても静かだ。水の流れる音さえ聞こえなかった。
泳いでいたといっても、体は動かない。ぷかぷかと、でも底に沈むことなく、仰向けになったまま、浮いていた。だから流されていると言ったほうが、正しいのかもしれない。
どこまで流れていくのかわからず、俺は自分から動くことができなかった。もしかしてこのまま元の世界へと戻っていくんだろうか。
風に飛ばされたと思いきや、落ちたところは水の中。地球に戻れるならそれに越した事はないけど、流されるまま迷路に迷い込まなきゃいいな。
水の流れに身を任せ、ゴールの見えない何処かを進んでいく。
途中ぽつりと、雫の落ちる音がした。
音が聞こえると、沈んでいた意識が浮上していく。
そろそろ起きろと自分の中の俺が言っている。
勝手に開いていく瞼に、まだ眠いと抵抗しようとしてみるものの、素直に言うことを聞いてくれない。
どうしたもんかとおとなしく目を覚ましてみると、そこにはまた同じような暗闇が視界いっぱいに広がっていた。
「…………?」
まだ夢の中、ってわけじゃないだろうし、それとも闇が俺自身を包み込んでいるんだろうか。眠っても闇、起きても闇、さて一体どこに光があるんでしょうか。
体を起こして周囲を確認しようと試みるも、途端に腕や足、全身に激痛が走る。
「――――っ!?」
あまりの痛みに、声にならない声が上がる。悶絶したくても、転がろうにも転がれない。
なんだ、この痛みは。急に意識を失った後、俺は一体どうなったんだ。
それに、ここは。
「保健室、ってわけでもなさそうだな……」
え?
自分から出た声に、一瞬だけ思考が止まる。
今の声は、誰だ? いつものウェインの、子供らしい高めのキーじゃなかった。
むしろ聞こえたのは、ウェインではなく俺……。元々の、久しぶりに俺本体の声を聞いたような気がした。いつも話せばウェインなもんだから、今更この声を聞くと違和感を感じてしまう。
一気に体を起こそうとしても、痛みが強すぎて無理なので、ゆっくりと関節を曲げて少しずつ動いてみる。
長い間眠っていたような、ずっとそのまま同じ体勢で固まっていたような感覚に、ひやりと汗が滲んでいく。
痛いけどそれを我慢して、でも耐えて、少しずつほぐすように動かす。
「な、んだよ、これ。ってててて……。もしかして、アレか。やっぱり向こうの世界に行っていたのは夢で、ここは病院の中……俺はずっと眠ってて、その影響か? 長い間眠ってたってことかな。リハビリが必要な体の硬さだ……」
こっちの時間は深夜帯で、だから外も部屋の中も真っ暗なのか……?
とは言っても、俺が横になっている場所はベッドなんかじゃなく、硬い床の上なんだけど。
なんでこんなところで横になっているんだろう。だからこんなにも体が痛むんじゃないのか。
ナースコール、ナースコールはどこだ。看護婦さん、俺、目が覚めましたよって知らせないと……。
手を伸ばしても、ボタンはどこにも見つからない。
体を反転させようとした俺は、こっちを見つめる二つの満月があることに気がついてしまった。
「こんなところに、お月様……? あれ、ここって月が二つもあったっけ。むしろ向こうの世界にも月なんて二つ、あったか……? いや、それ以前にここ、室内なんじゃ……」
綺麗だなぁなんて場違いな事を思いつつ、ぼうっとそれを見つめ続けていると、不意にその月が横に動いた。
えっ、と驚くと、月は徐々にこちらに向かって近づいてくる。
足音と共に近づく金色に、俺はようやく見上げていた月が本当の月ではないことに気づいた。
「――――っ!?」
それは、目だった。
金色の目が、俺を見ていたんだ。
咄嗟に体を起こして距離を置こうとするものの、まだバキバキに硬い関節が痛みを引き起こし、悶絶する。悲鳴に近い声を上げるしかなかった。
「ってぇ!! な、なんだ、誰かいるのか……!? どこなんだ、ここは! え、もしかして看護婦さん!?」
んなわけないだろと自分ではわかっていても、口に出さずにはいられない。
「だよな……看護婦さんだったら普通、なにかしら一声かけてくれるはずだもんな……! しかも床に寝せられてるって、おかしくないか!? 病院だったら病人を床に投げておくなんてまずありえないもんな!」
恐怖をかき消すように叫んだところで言葉を返してくれる誰かではない。
しかもこれ、俺の体だし。ウェインじゃなくて、本体の、比呂の体だし。
ということは、まだ終わってないのか? まだ俺は地球に帰っていないのか、それともまだ天国に向かっていないだけなのか、さぁどっちだ?
体の痛みのほうが大きくて、どうも自由に動けない。
「くっ……そ……! なんでこんなに体が痛いんだ!? まるで直前まで硬直していたかのような激痛だ……!」
涙が滲みそうになるけど、今は泣いている場合じゃない。それよりもまず、身の危険を感じなければいけなかった。
目の前にいる誰かが早くなにか言ってくれなければ、状況がわからない。
ここは一体どこなのか。元の世界なのか、それとも向こうの世界なのか。
床に這いつくばったまま、俺はその前にいる人物を睨み上げる。
満月が、静かに見下ろしていた。
「……なぁ、ここは一体どこだ? 病院か、それとも俺の家なのか、はたまたどこか別世界の学園の中なのか。教えてくれよ……。状況がさっぱりわかんねぇ!」
ただでさえウェインの中にいる時だって、自分の状況を理解するまでが大変だったのに。それがこんなにもころりとまた一転されると、更にワケがわからなくなってくる。
体の痛みだって、なんだよこれ。動かせないぐらい全身が痛むって、なにをしたんだよ。鞭打ちとはまた違うし、誰か説明してくれよ。俺に教えてくれ。
「……落ち着け」
「これが落ち着いてられるかってんだ! 色々あったせいで自分の記憶が定かではないっつうか! 一体なにがあって俺はこんなところで寝ていたんだ!? ここがまだ夢の中なのだとしたら俺は夢を見続けていたいと思うし、もし現実なら真っ直ぐ家に帰りたい! 親の顔を見て安心したい! だからとにかくまずはここがどこなのか教えてくれ!」
俺は取り乱していた。
自分に何が起こったのかわからないから、いつも以上に取り乱していた。
心臓は無駄にバクバクと音を鳴らし、顔が熱く火照ってくる。
一言を口から声にして出せば、続けざまに言葉が出てきてしまう。
目の前にいる誰かがどんな奴かなんて、それすら把握できそうにない。男か女かも、例えばそれがどんな姿をしているのかさえ、見ようとしていない。俺にとって、敵なのか、味方なのか、それさえ知ろうとしなかった。知る余裕もなかった。
「落ち着け、そして呼吸しろ。そのままではいずれ過呼吸を引き起こす」
「だからまずはここがどこか教えてくれよ……! 教えてくれたら落ち着くからさぁ!」
「俺の言っている意味がわかるか?」
「わかってるよ、聞いてるよ! でも俺がいま聞きたいのはそんなことじゃない! 俺が知りたいのは、ここがどこなのかであって、それでヴァーミリオンは……!」
「聞いていないな」
「聞いてるって! それよりも早く教えてくれよ! ここは一体どこで、俺はどうしてここにいるのか、いつから倒れていたのか一から全て状況を説明してくれ……っ」
「……はぁ。なら仕方ないな。歯を食いしばれよ」
歯を食いしばれって、なんだよ。
痛む体を無理に起こし、わざわざ見上げてみせれば、突然俺の頬に鈍い衝撃が与えられた。
反動で、体が後ろにひっくり返っていく。
驚いた俺はそのまま目を見開いた。
はじめは何をされたのか、わからなかった。でも、仰向けに倒れて呆然と上を見つめていると、頬がじんじんと痛み出したことがわかる。
そこで、ようやく殴られたんだと気づいた。
「……っ、は? なぐ、られた?」
「あぁ、殴った」
「な、なんでいきなり殴られなきゃならないんだ!? 俺、なんか腹が立つことでもしたか? 言ったか!? ただすこし気になること聞いただけじゃん!」
「落ち着けと言ったのに聞かないからだ」
だからといって、普通いきなり殴るか? 思わず舌を噛みそうになった。
「……さっきよりは落ち着いたか?」
「お陰様で!」
「そうか。ならば答えよう。お前が言った通り、ここはとある世界の学園の中だ。お前が元いた世界ではない、わかるな?」
男が俺の目を見て、ゆっくりと告げていく。
それはきっと地球のことじゃないって言ってるんだよな。わかるよ。




