ボロ屋はボロ屋だった
* * *
「ほら、お家に着いたわよ。待っててね、今お部屋の準備をするから」
あまりのニオイに涙が止まらず、ぐったりとしていた俺は父さんと思われる男の人に背負われて、自分の家だという場所に帰ってきた。
父さんも母さんと同じで、汗臭いというか、かなり酸っぱいニオイが強くて、耐えるだけで精一杯だった。まるで夏の日に剣道の練習が終わって脱いだ後の防具のような臭さだ。衣類が汗を吸っているというか、汗を肌に擦り込んでいるというか。とにかく強烈で、俺の鼻を突き刺す。
洗濯をしていないのだろうか。洗濯をしたとしても柔軟剤が負けてしまうような体臭を持つ人達なのか……?
家はトタン板で作られたような小さな家で、耐震強度などまるで無いような、本当に今にも崩れてしまいそうなあばら家で、それを見た俺は目をまん丸にした。屋根は所々板が剥がれ、壁にもいくつかの隙間が空いている。
これ、本当に人が住む家なの? 最近あまりこういうタイプの家って日本では見かけないと思ってたんだけど、まだあったんだ、と驚きを隠せない。台風が来ればすぐに吹き飛ばされてしまいそうだ。地震なんてきたらあっという間に下敷きになってしまう。
「……すきま風が酷そうなお家で」
「え、なにか言った?」
いいえ、なにも言っていませんと手を前に出し、ジェスチャーで伝える。俺の住んでいた家とは似ても似つかないところである。
はっきりと言ってしまえばぼろ屋。発展途上国でよく見かけたことのある家だと、頭の片隅でぼんやりと考える。失礼な事だというのはわかってる。きっと俺が贅沢な生活を送ってきた人間の考え方なのだと今、思い知らされた。ごめんなさい。
しかしここは本当に人が生活する家なのだろうか。
トイレや風呂、洗面所なんて絶対に設備されていないと思うのだが。電気とか火とか、繋がっているのか? どこを見ても電柱の一本もそこには見当たらないし、ガスボンベすら存在していない。ご近所さんまで家と同じような形をしているし。なんだろう、この嫌な予感。
「ウェイン、本当に大丈夫なの? なんだか前と雰囲気が変わってるような気がするし……。ねぇ、お母さん、もう一度病院で診てもらった方がいいんじゃないの? お父さんもそう思うよね?」
俺達の後方で、多分姉だと思われる女の子が不安げな瞳でこちらを見つめている。式場を出た後も、この子だけは俺のことをずっと怪しむように遠巻きにして見ていたのだ。
実際俺も今の自分の状況がわかっていないので、俺自身目の前にいる家族を、彼女と同じように訝しむ目で見ているのかもしれない。
この子もそれに薄々気づいていたりして、それで互いに怪しんでいるのかも。子供は少しの変化にも敏感だって聞いたことがあるし。いや、ホント俺ってばどうしちゃったんだろうね。むしろ俺が事情を聞きたいぐらいだよ……。
なんだか周りを見渡しても知らない場所しかないし、むしろ現代の日本にこんな質素な集落なんてある? ってぐらいおかしなところに来てしまっている。どこかの山奥で暮らす部族のような集落に来てしまった感覚だ。
テレビでしか見たことがないし、たとえ田舎でもここまで現実とかけ離れた場所があるなんて聞いたことがない。一体いつの時代の風景だ。
そして、それ以上に気になったのが父さんや母さん達の髪や瞳の色だ。
母さんはさっきも言ったようにライトブラウンの色をしていて、父さんは深い青、後ろの女の子は薄い水色の変わったカラーをしている。どう見ても同じ地球人とは思えない、変わった色をしているのだ。いや、外人でもこんなに鮮明な青はいないんじゃないだろうか。まるでゲームやアニメにでてくるファンタジーな世界の住人だ。
染めなきゃこんな色にならないよな……。外人だってさすがに髪が青いまま生まれてくることはないだろう。
俺は一体どんな恰好をしているのか。
体はいつもより確実に小さくなっているし、声も全然違うし、早く鏡を見て、一度この目できちんと確かめたいところだ。
川で溺れて意識を失って、目が覚めたら違う世界に生まれ変わっていたなんて話はさすがにないよな? ないよ、な……?
最近流行りのアニメや漫画、小説の展開を思い出し、俺は顔を真っ青に染めていく。今なら父さん達の髪色にも負けない青色をしているんじゃないだろうか。
そんなこと、あるわけない。あるわけがないんだ。あれは空想の世界で、現実でそんなことがあってたまるか。俺は認めないぞ、と頭を強く横に振る。
「あのね、ジル。お医者さんで診てもらうにしても、たくさんのお金が必要になるのよ。今はまだそんな余裕はないから、あなたもそんなことは言わないようにしてね…………っ、ウェイン、顔色が悪いわ!」
ウェインの顔色の悪さに気づいた母さんが姉との会話を途中で切り、すぐに俺の傍へと駆けつけた。
途端、風に乗ってまたあの独特な……汗が乾いたようなきつい臭いが俺の鼻へと漂ってくる。この異臭と、不安な現状が相まって、顔色が相当に悪くなってしまっているのかもしれない。
ごめん、母さん……あんまり俺に近づいてほしくないなぁ、なんて。そんなこと、思ったりして。
ここは外だというのに、どこにもない窓を開けて、つい換気してしまいたくなる。新鮮な空気が吸いたい。……外なのに新鮮な空気がないって。語尾の辺りに草が生えてしまいそうだ。
「落ち着け、クレア。ウェインはまだ具合が良くないんだ。一度この世から去ろうとしたところをこの子はまた戻ってきてくれたんだ。それは疲れたりもしているだろう。落ち着くまで、まずはそっとしておいてあげよう」
父さんが柔らかな表情で、酷く取り乱す母さんを落ち着かせるように声をかける。
目を細めておっとりと話しかけるこの人はとても優しそうな顔をしていて、俺はすぐに好感を持った。どことなくその雰囲気が、俺の本当の父さんと似ているような気がしたからだ。
これで臭いがなかったら、ずっとこの人の後をくっついて歩いていたかもしれない。体臭だけが、残念だ。非常に残念だ。
親しみを込めた瞳で見つめていると、父さんはにこりと微笑んで、俺を背に乗せたままそのボロ屋へと足を運んだ。
家の中は案の定、綺麗とは言い難い室内となっていた。やはりボロ屋はボロ屋だった。
「ウェイン、少しここで待っていなさい」
父さんはそう言うと背負っていた俺をその場に下ろし、優しく頭を撫でた。
何をするんだろうと眺めていると、父さんは部屋の押入れと思われる場所に上半身を突っ込み、なにか探しているのかガタガタと大きな音を出し始める。
一体どれだけその中に物が詰まっているんだろうと若干引きつつも、俺は様子を窺いながらその隙に室内を見渡し、観察をしてみた。
俺の住んでいる家とは違い、ここは玄関で靴を脱ぐ事もなくそのまま土足で部屋に上がり、生活を送っているようだ。よく海外で見たことのあるスタイルだよな。床が外からの砂利や埃なんかで汚れていそうで、正直あまり好きではない。家の外装も相俟って、余計汚く見えてしまっている。
「一応ワンルームだけど、部屋の仕切りが何もない……。キッチンらしき台はあるけど、やっぱり風呂もトイレもないじゃないか……」
「トイレ? おしっこなら外でしてくるんだぞ、ウェイン」
「え、外!? 外でするの!?」
「なにを今更驚いているんだ……。今までもずっとそうしていたじゃないか。川でしていただろう? 空から戻ってきたばかりで、忘れちゃったのか? 一人で行くのが怖いなら、お姉ちゃんのジルを連れていきなさい」
「お、お姉ちゃんを連れて!?」
父さんは当たり前のように言っているけど、俺にとってはトンデモ発言だ。
生まれて十七年、トイレを覚えるまで父さんや母さんがついてきて見てくれたこともあるだろうけど、さすがに高校生になってまでそれはない。
しかも、女の子の前でおしっこをしろだなんて……思春期の少年を前に勘弁してくださいよ、お父さん! 俺にはそんな度胸も覚悟もないよ……。
人前で恥ずかしげもなくおしっこをして喜ぶなんて、ただの特殊なプレイでしかない。変態だ。
「ひ、一人で出来るから大丈夫……。場所さえ教えてくれたなら」
筋肉バカと言われようと気にしなかった俺でも、さすがに少しばかりの羞恥心というものはある。こればかりは無理だ、絶対に無理。なので、丁重にお断りしておいた。
「父さん、ここってお風呂はどうしてるの? 頭が痛くてその辺りのこと、よく思い出せないんだ」
上手く誤魔化しつつ、俺はこの家の情報収集を始める。
自分の状況もよくわかってはいないが、もしこれから先この家で過ごさなければいけないというのなら、ここの生活スタイルを聞き出しておかなければいけない。
だって、必要不可欠なライフラインが見当たらないだなんて、どうやって生きていけばいいのかわからない。
この家のどこを見ても電気なんてものは見当たらないし、キッチンと思われる場所にはコンロなんて便利なものはない。トイレもなければ、電話も、テレビも、レンジも、何一つその存在がない。文明の利器がないなんて、信じられないよ。
みんな、どうやって過ごしているの? 現代っ子な俺にはさっぱりわからない。体に嫌な緊張が走り抜ける。
「風呂……? 体を綺麗にしたいなら、少し離れた場所にある川で水浴びをしてきなさい。でもお前は身体が弱いから、濡れた布で体を拭くだけにしておくんだ。高熱を出されたら困るからね」
「か、川……!? それはまたワイルドな生活っぷりで!」
「とにかくお前は体を休めなければいけないんだ。絶対に無理はしないように」
父さんはそう言うと、押入れから布団らしき薄汚れた大きな布とマットレスを取り出した。それと同時に床板と、あれはサイドフレームだろうか。その他にも数個部品を押入れから出している。
あれは見たことがあるぞ。もしかしなくとも父さんはベッドを作ろうとしているんだろうか。いや、だとしてもその衛生上良くなさそうな布団は何なんだろう。え、そこに寝ろってことじゃないよな?
待って、待って。こんな時、ヒーローだったらどう対応する? どんな神対応をする?
好意を快く受け入れ、なんの抵抗もなくそこに寝るんだろうか。なんとなくだが、あの布団にはダニやノミが潜んでいそうな気がする。いや、絶対に潜んでいる。それに埃もすごそうだ。
そんな布団で俺はこれから先、眠れると思うか? 気にせずに寝れると思うか?
ヒーローとして失格かもしれないが、たぶん生理的に無理だ、うん。本気で無理。
しかもよくよく見てみるとシーツの上や布団には砂利が乗っていて、やっぱり薄汚れていて汚い。気持ちよく寝れるどころか、じゃりじゃりとして気になって眠れないパターンだ、これ。
その布団、外に干したい……と俺は父さんの持つ布を凝視する。
お天道様の光を存分に浴びせれば、ダニやノミはすぐにそこから退散していくのではないだろうか。ついでに叩けば埃も払えそうだ。むしろそのまま使う方が衛生上かなり悪いと思う。
それに外に干したところで終わりではない。父さんや母さんのあの体臭というか、服のニオイっていうか、アレを考えれば恐らく相当布団も臭いはずだ。どうにかして洗って、綺麗にしてやりたい。あんな異臭に包まれて眠るだなんて、考えられない。
この家の中を見る限り、洗濯機も乾燥機も見当たらないことから服は常に手洗いをしていると思われる。
洗剤や、柔軟剤はあるのだろうか。洗濯用の香水ビーズなんて贅沢なことは言わないから、せめて石鹸ぐらいは欲しいところだ。
「父さん、いま何時?」
「そうだな……。太陽の角度からするに、まだ昼前だな」
「洗濯ってどうしてる? それとももう洗っちゃった?」
「洗濯ならクレアの仕事だからな……。今朝はお前のことで忙しかったし、もしかしたら今日の分は明日に回すかもしれない。母さんに聞いてみなさい」
わかった、と頷いて、まだ家の中に入ってこない母さんと姉さんのところに俺は向かってみる。
父さんはベッドを組み立てるらしく、また家の中でガタガタと音を鳴らし始めた。
あそこに寝るのは勘弁したいところなので、早急になんとかしなければならない。
というか、家の中が全体的に汚いよな……。汚い家の方が落ち着く人達なんだろうか。俺だったら即掃除してしまうレベルなんだが。むしろ綺麗にしなきゃ落ち着かないよ、こんな部屋。
この現実にどう立ち向かったらいいものか頭が混乱しそうになるが、ヒーローはどんな困難にも立ち向かわなければいけない宿命なので、俺は負けずになんとか解決策を見つけていこうと心に決める。
郷に入っては郷に従えという言葉もあるが、俺には精神的負担が大きすぎて無理だと判断した。
外に出れば母さんと姉さんが玄関先で口論していた。俺は瞬時に身構えた。
「絶対おかしいよ……! 天国に旅立った人がまたここに帰ってくるなんて話、聞いたことがないもん! お母さんだってそう思うでしょ!? ウェインが帰ってきたことが嬉しくて現実を受け入れようとしてないだけだよね? そうでしょ!?」
「落ち着いて、ジル。本来ならありえない話だとは思うけど、でも実際ウェインは帰ってきてくれたのよ。なにをそんなに怒っているの? 神経質になりすぎよ」
「ウェインは三日前に死んだんだよ! 動かなくなって、三日経っても息を吹き返さなかったから土に埋めようとしてたんだよ! それなのにいきなり生き返って、それもピンピンしてて、ありえないよ! おかしいよ!」
家の中にいた方が良かったかもしれない、と思った時にはすでに遅く。
母さんと姉さんは俺……というより、ウェインのことで言い争っていた。しかも耳を疑うような言葉も聞こえてきた。
実はウェインが三日前に死んでいて、埋葬しようとしたところで生き返ってきた、だと?
自分の事じゃないのに、まるで自分の事のように受け止めてしまった俺は、ぴしゃりとその場で固まってしまう。
え、ちょっと待て。これは本当に、俺はどう解釈したらいいんだ。
えーと、ウェインの中身は死んだけど、ウェインの体は比呂として蘇ったってことでいいんだろうか。ん、でもそうすると体はウェインのままで、意思は比呂になったってこと?
そうすると最終的に俺は比呂とウェイン、どっちになるんだろう。ウェインでもあるし、比呂でもあるということになる。
考えれば考える程わけがわからなくなるし、俺はどう立ち振る舞ったらいいのか混乱しそうになる。
あの人達を父さんや母さんと認識させたのは確実にウェインの意思で、だからそれに抗おうとした俺を彼は止めようとしたのだ。俺の中に少しばかり残っている、ウェインの意思がそうさせたのだと思う。
でもそうすると、ウェインは生きてるってことになるんじゃないのか? どういうことなんだろう。
とにかく一度、鏡で自分の姿を確認したいところだ。俺が一体今どんな姿をしていて、どんな恰好をしているのか。
玄関で呆然と立ち尽くし考えていると、俺の姿に気づいた母さんが声をかけた。