葬式と棺桶と、ここは一体どこ?
* * *
先程の苦しさから俺は反動で大きく息を吸い込み、噎せ返るようにして目を覚ました。
激しく咳き込みすぎて、腹や胸が痛い。呼吸を整えるのもやっとだ。体はなかなか上手く力が入らず、意識もまだぼうっとしている。
見覚えのない天井を見上げながら、ゆっくり息を吸い込んだ。肺が小さくなっているのかいつものように呼吸ができず、俺は戸惑ってしまう。川で溺れただけで肺が小さくなるって。そんなのまずない、ありえない。突発性の病気でもあるまいし、絶対に気のせいだ。顔を青くしている場合じゃない。
なんとか起き上がらなければと無理に体を起こし動かそうとするが、関節がバキバキに固まっているようで、あまりの激痛に呻いてしまう。なんだ、このしばらく動かずにいて全身がかちかちに固まってしまった感覚は。
悶絶していると、今度はふわりと甘くフローラルな香りが鼻いっぱいに広がった。
「……なんだ、このトイレの芳香剤みたいな匂い」
デリカシーのない表現だと言われそうだが、この匂いは確かによくトイレで嗅いだことのある香りだ。妙に甘ったるくて鼻につく馴染みのある匂いは、恐らくラベンダーの芳香剤で間違いないだろう。
家や学校のトイレもよくこんな匂いを漂わせていたことを思い出す。いや、桃の香りだったか? もしかすると石鹸の香りだったかもしれない。どっちにしろ甘い匂いに変わりはないが。
いやいやいや、その前にちょっと待てよ。芳香剤もそうだが、俺はなにか他にも気にすることがあるんじゃないだろうか。
例えばそう、それは自分の声だ。
いつもより若干キーの高い声に、思わず喉元に手を当て確認してしまう。
今の、俺の声? 俺ってこんなに幼い声だっけ? もっと、いや、かなり低かったよな? 声変わりの時期だって中学生の時にきちんと迎えましたよ?
幼い子供のような声に、溺れて声質が変わってしまったのかと錯覚してしまうぐらい、いつもの自分とは程遠い高音ボイス。
え、俺の喉は一体どんな異常をきたしているの、と上半身を起こしたまま唖然としていると、まわりで悲鳴に近い叫びが部屋中に響いた。耳をつんざくような女性の声に、思わずどきりと心臓が跳ね上がる。
なにか良からぬことでも起きたのかと思い、急いで周囲を見渡すと、見知らぬ人達が俺を囲むようにしてジャイアントの如く上から見下ろしていた。
「……え?」
視界に映り込んできたのは、悲しそうに涙を流す数人の大人達。その中には小さな子供の姿もあって、状況が掴めない俺はその場で見事に固まってしまう。
ハンカチに見えなくもない小さな布切れを目に押し当て涙を流しているところを見ると、恐らくなにか悲しい出来事があったに違いない。どうしたらいいかわからず様子を窺うようにして視線を送っていると、俺の姿を目にした人達が次々と驚きの声を上げていく。
一人の女性が悲鳴を上げたかと思えば、皆一斉に目を丸くして俺のことを見つめ、口を大きく開けて呆けている。
当の俺といえばやはり全く状況がわからず、ただ喉元に手を当て、不安を紛らわすようにして同じ箇所を何度も摩っていた。出来ることなら俺も皆さんと同じように、口を開けたままぼけーっと見つめ返してやりたいよ。そこまで取り乱してはいないので、さすがに真似するわけにいかないけど。
そこで今更になり、ようやく気づいたのだが。いつもはそこにある喉仏がどうにも見当たらず、俺は目が点になる。何度喉に触れてもそこにはいつもの凹凸がなく、平らでつるつるとしていて、まるで女の子のような喉元に変形していた。
明らかにおかしい。どうなった、俺の体。
そして皆、どうして俺をそんな化け物を見た時のような眼差しで、引いた様子で見つめているんだ。さっぱり意味がわからないぞ。誰か教えてくれ。
「えー、と……こんにちは……?」
どうにもその空気に耐えきれず、いつもように挨拶から始めてみるが、皆の俺を見る目が普通じゃない。驚きを隠せずにいる人もいれば、恐ろしくて震えている人、目を見開いて更に涙を零す人、中には手を叩いて喜んでいる人もいる。
よくよく自分が寝ていたところに目を向けてみればそこは小さな箱の中で、びっしりと頭から足元にまで花が敷き詰められ、全身を囲むようにして俺の体は横にされていた。
まるで棺桶のような作りになっていて、思わず頬が引き攣る。
まさか川で溺れて、一度死んでしまったのだろうか。
天に召される途中だったが、神様に「まだお前はここへ来るべきではない」とか何とか言われて、葬式の最中にころっと意識が落っこちてきてしまったのではないだろうかと、ぎくりとしてしまう。
「は、ははは……ここ、どこ? え、今なにをしてるところなの?」
思わず苦い笑いが込み上げてくるが、皆の俺を見る目は至って真剣そのもので。冗談を言ってるような空気ではないし、笑っていいような雰囲気でもない。となると、ここはやっぱり葬式会場で間違いはないのだろうか。
でもその集団の中にはどこを見ても俺の両親や友人の姿、親戚一同、見知った顔は見当たらない。ということは、ここは一体何をしているところなんだ? どういうことなんだろう。
「あの、すいません。そろそろ状況を教えてもらってもいいかな、なんて……。これって、なにかのドッキリ?」
近くにいたおじいさん……神父さんか牧師さんなのかな? に、とりあえず愛想笑いを浮かべながらしどろもどろに聞いてみる。
おじいさんは呆然と立ち尽くし、額に脂汗を滲ませてこちらを見下ろしていたが、息を呑むと何か一人納得したのか強く頷き、俺の手を取った。
かさかさと乾燥した手だな、と思いつつ、その掌の異様な熱さに俺は驚く。
なんでこんなに熱いんだ? まるで焼き石を触っているかのような熱さといったらいいのか。過剰な表現かもしれないが、冗談抜きでくそ熱い。
いや、おじいさんの手の温度は実は普通で、むしろ自分のこの手が異常なまでに冷たいのかもしれない。冷めきっているというか、なんというか。さっきまで川で溺れていたぐらいだし、それで体温が下がってしまったのだろうか。水もたくさん飲んだしな。
それに加え、おじいさんの掌がやけにでかく感じてしまう。俺の手をすっぽりと、いとも簡単に包んでしまえる程、妙にでかい。
……ん? むしろ俺の手が、小さい? 俺、こんなに小さかったっけ? なんか指もいつもより短いような気もするし…………えぇ?
しかも周りにいる人間も、どう見ても俺より大きい。まるで聳える壁の外から巨人が見下ろしているような視覚と圧力に、違和感しかない。
身長百七十二センチある俺がでかいと思ってしまうぐらいの大きさって、え、一体どういうことー!?
「なんで誰も答えてくれないんだ……? 俺、なにかおかしなことにでもなってる? ちょっと……」
助けを求めようにも、皆驚いた顔をするばかりで話を聞いてくれない。
だからなんなの、そのリアクション。なにか思うことがあるなら、はっきり言ってほしいんだけど。
「……天から帰ってくることのできた、特別な子だ」
ぽそりと、おじいさんが小さな声で呟いた。傍にいた俺にしか聞こえないような、微かな呟きだった。
特別な子、だって? え、俺が? いやいやいや、どこにでもいる普通の高校生ですよ、自分は! 特にこれといって取り柄もなく、ただ小さい頃からヒーローに憧れているってだけのね!
ていうか、天から帰ってくることのできた子ってなんだ! なんなんだ! なに、その詩的な表現! 詳しく聞かせてほしいんですけど!
だが対する俺の突っ込みは、おじいさんが手を叩き始めた音によってかき消されてしまった。周囲に拍手を促すような叩き方に、その場にいた他の人達もぱちぱちと弱々しくだが手を合わせ始める。
ぽかんとするのは俺の番だ。この拍手は一体なんのために送られていて、誰のために送られているのか、全く以てして意味がわからない。説明が足りない。誰か俺にわかるように話をしてくれ。
「牧師様、ウェインは……ウェインはもう一度この世に、生命の花を咲かせようとしてくれたのでしょうか……! この地を離れずに、私達の元へ帰ってきてくれたのでしょうか……!?」
近くにいた女の人が、おじいさんに向かい縋るようにして問いかけている。
その瞳からはぽたぽたと大粒の涙が溢れ、目尻が真っ赤に染まっていた。長い時間泣いていたのだろうか。片手で口元を押さえ、嗚咽を抑え込むようにして俺のことをじっと見つめている。
ずきりと、頭が痛む。
血管が詰まりそうな、圧迫するような痛みと共に、何かが俺の中に勝手に入り込んでくる。
「……なんだ、これ。なに……母さん……?」
目の前にいる女の人が、自分の母親なのだと脳が伝えている。
俺の、母さん? いや、違う。俺の母さんはれっきとした日本人で、この人のようなライトブラウンの色をした外人っぽい髪と瞳ではないし、こんな風に継ぎ接ぎだらけの服を着て恥ずかしげもなく人前に出るような太い神経はしていない。最近の現代人とは思えないような、貧乏らしい服装だ。
でも俺の脳が、それでもこの人が正真正銘自分の母親なのだと認識しようとしている。
なんでこの人が母さんだと思い込もうとしているんだ? 俺の母さんはこんな人じゃない。違う、これは別人なんだと思っても、俺の頭は言う事を聞いてくれない。どんだけ頑固な頭なんだ! もっと柔軟に!
抵抗すれば後頭部がずきずきと痛み出す。
あまりの激痛に耐えられず、手で頭を押さえ棺の中で蹲る。次々と何かが頭の中に侵入してくるようで、痛みの他に気分が悪くなり、どうにも前を向いていられない。上を向けない。
ラベンダーの香りも相まって、更に気持ちが悪くなりそうだ。
すると俺の異変に気づいたのか、母親だと思われる女の人が労るように背中を摩ってきた。この人を母親だと思いたくはない反面、すでにそう認識している自分もいて、とても複雑な思いになる。
一体なんだって言うんだ。どうしたんだ、俺の思考回路。
「ウェイン、大丈夫!?」
「ウェ、イン……? ウェインって、俺の名前? いや、俺はウェインじゃなくて、えぐちひ……」
自分の名前を口にしようとした途端、また酷い頭痛に襲われる。違う、今の俺はウェインという名前なんだと、誰かが頭の中でガンガンと殴りつけるようにして刷り込もうとしてくる。そう名乗らなければ許さないとばかりだ。
俺の頭に誰かが入り込んでいることに間違いない。不法侵入もいいところだ。勝手に入ってくるなよ、一体何が起こってるんだ。
「ウェイン!」
あぁ、もう……ウェイン、ウェインとやかましい。俺は江口比呂だっていうのに、それでもウェインなんだと思い込めってことか。嫌だと言えば実力行使とばかりに、中で好きに暴れやがる。
わかった、なら俺はこれからウェインと名乗ればいいんだろうが! それで満足するんだろ、俺の頭の中!
半ばやけくそ気味に母さんの言葉に頷いて、大丈夫だと手を前に出してアピールする。
すんなりと頭の主張を受け入れれば、すぐに痛みは引いていった。
「……大丈夫だよ、母さん。少し、頭が痛くなっただけだ」
この人を母親だと抵抗せず認識すれば、もう文句はないだろう。赤の他人を自分と血の繋がった母親なのだと納得するまでは長い時間がかかりそうだと、溜息を吐き出してしまう。だが表面上そうしなければ、またそいつは俺を苦しめることになるだろう。
母さんと思われる女の人は、俺の体を強く抱きしめた。カビ臭いような、中干し臭いような、そのきつい衣服の臭いに俺は一気に眉根を寄せる。
くっさ! 外で大量の汗を流した俺でさえも、ここまで鼻が曲がるような体臭を醸し出したことはない。失礼かもしれないけど、もう一回だけ言わせてくれ。……くっさ!
「よかった……本当に、よかった! 土に埋められる前に目を開けてくれて、本当に……っ」
土? 土に埋めるって言いましたか、今?
やはりここは式場だったのかと、苦い笑みを浮かべざるをえない。
だけど、土葬? 今の日本で土葬って、聞いたことがない。
あまりの臭さと衝撃の強さに、俺の目からはぽろりと涙が零れた。