比呂の日常
大きな欠伸をしながら、比呂は帰り道を歩く。
七月に入り、時折湿った生暖かい風が肌に吹きつける。まとわりつくような湿り気に、比呂は思わず顔を顰めた。
ただでさえ蒸し暑くて気が滅入っているのに、それに合わせてこの湿気を含んだ温い風だ。早く冷房の効いた部屋に入って、汗臭くなった制服など脱いで、布団の上に横になってしまいたい。
「あまり暑い日に、長く外にいるのは日射病の原因。今日は夕方になってから筋トレに励もう……」
空を見上げれば、未だお天道様がギンギラギンと輝いている。
夏の太陽は今日も絶好調に、地にあるものをその熱で刺すように照らしつけていた。
もう少しさりげなく主張できないもんかねぇ……と陽を見上げながら、うんざりしてしまう。うんざりしたところで太陽が顔を隠してくれるわけでもないのだが。
額に光る汗を手で拭い、比呂は家までの道を足早に駆けていく。
「しっかし暑いなぁ。夏は嫌いじゃないけど、もう少し温度を下げてくれてもいいんじゃないかなぁ、太陽さん。あんまり激しく輝いてると、そのうちホントに燃え尽きちゃうぜ……」
この燦々と耀く太陽の下で運動するのも気持ちがいいかもしれないが、さすがに日射病となっては堪らない。病院に運ばれ入院となれば、日課となっている筋トレが出来なくなる。それに困っている人を助ける事もできないなんて、比呂にとっては息が詰まるような日々でしかない。
ヒーローに憧れる比呂にとって、人助けはもはや義務であり、今の自分の生き甲斐でもあるのだ。なんのために小さな頃から鍛えてきていると思っているのだ。全てはそう、困っている人を助けるため、みんなの笑顔を守るためである。
「と言ってもまぁ、現実では俺に出来ることなんて限られてるんだけどな! もっとこう、今流行りの剣と魔法の世界か何処かに行って、人々を脅かす魔物相手に拳を振るってみたいもんだよな~」
通り道である河川敷を歩きながら、比呂は襲い来る魔物を想像し、ファイティングポーズをとりながらパンチとキックを繰り出していく。わざわざ剣と魔法の世界に行っておきながら拳で戦うのかというツッコミもさながら、傍から見たら、ただの危ない人である。
すれ違うおばさんが訝しむような目をして見つめているが、そんな視線もなんのその。比呂は大きな声で「こんにちは!今日もいい天気ですね!」と手を振って歩いていく。
「挨拶すると気持ちがいいよなー!」
そのたった一言が、互いの距離を近づけるきっかけになるという事も、比呂はとあるヒーロー系のアニメで学んだのである。例え不審者扱いされようと、そんな些細な問題はいちいち気にしていられない。挨拶の何が悪い、付き合ってと誘っているわけでもなかろうに。
鼻唄を歌いながら歩いていると、比呂は視界の片隅で気になるものを見つけた。
気のせいかとも思ったが、どうやらそれは慌ただしい様子で川沿いを走り、なにかを一生懸命追いかけているようである。
比呂の脳内にあるヒーローセンサーが反応している。恐らくあれは見た通り、緊急事態というやつだ。誰かが今すぐ助けを求めている。
視線の先では小さな子供が川を見つめながら、ぱたぱたと必死に手足を動かし走っていた。なにをそんなひたすらに追いかけているのだろう。その姿が気になった比呂が背中を追いかけると、子供は段々と川の方へと近づいていっているようだ。
この辺りの川は水が綺麗で底もくっきりと見えているため浅く思われがちだが、実際は意外と深く、流れも急なのである。知らない人はそこに足を突っ込み、よくバランスを崩し倒れることがあるのだ。大人だから倒れるだけで済んでいるのかもしれないが、それが小さな子供となれば話が別だ。
子供が川辺に近づき、なにかを掴もうと短い腕をいっぱいに伸ばしている。
そこに見えたのは、水際に生える草に引っかかるようにして止まっている、小さなピンクのハンカチだ。子供は必死にハンカチを取ろうとしているのだ。
このままでは川に落ちる。見兼ねた比呂はすぐに声をかけた。
「おーい、ここは兄ちゃんに任せな! ハンカチを落としちゃったんだろ? 君は向こうで待ってるんだ!」
そう言うと比呂は靴やズボンが濡れるのも構わずに、ざぶざぶと川の中へと入っていく。子供が不安げな瞳でこちらを見つめていたが、なんの心配もいらないと言うように、片手を上げてみせた。
特に何事もなくハンカチを手に取ると、比呂はそれをすぐに子供へと手渡す。すると子供の表情が、ぱあっと明るく花を咲かせた。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
その笑顔を満足げに見つめた比呂はにっこりと笑みを浮かべ、親指を立てる。そうだ、その笑顔が見たかったのだ。やっぱり人間、困った顔をしているよりも笑っていた方が断然にいい。良い仕事をしたと、軽く息を吐き出す。
だが、油断したのがいけなかった。
比呂の足が不意に水の勢いに取られ、思いきりバランスを崩し倒れる。それを見て呆気にとられる子供の顔と、次いで頭上に広がる青い空が、視界いっぱいに広がった。
次の瞬間には、比呂の体は水の底へと沈んでいった。