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グッバイ・パラレルワールド  作者: 厳島みやび
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第九話「セリヌンティウスの沈黙」

 一本木公園から自宅までの道程について篠崎はあまりよく憶えていない。誰かとすれ違ったような気もするし、誰とも会っていないような気もする。誰かに見られたような気もするし、誰にも見られていないような気もする。何かに躓いたような気もするが、起き上がった記憶はない。そんな具合に全ては曖昧模糊で断片的であり、さながら夢のようだった。無論、それは断じてファンタスティックなものではなく悪夢だった。


 眼球というファインダーに謙哉の血飛沫が付着してしまったかのように、世界の全ては――天空も、大地も、木々も、森林も、池も、公園も、学校も、家屋も、団地も、マクドナルドも、コンビニエンスストアも、あれもこれも、猫も杓子も――完膚なきまでに赤黒く染められ、輪郭すら残らなかった。とどのつまり、それらが全てそれらであるということを識別、認識するのは視覚的に不可能であり、言ってみれば目を瞑っている状態と類義であった。


 しかしながら篠崎はそれでも走り続けた。というのも足を止めると地面から誰かの両腕が生えてきて、彼の足首を掴み、地の底へ引きずり込もうとしてくるからだった。それは非常に弱々しい力なので簡単に振り払うことができたが、死体のように冷たい指先の感触というのは当然ながらあまり気分の良いものではなく、触れられるたびに彼は背筋が寒くなり、肝を冷やした。

 赤ずんだ暗闇に青白い腕。地獄絵図というほどグロテスクではないが、それでも充分印象的且つショッキングであり、時と場合によっては具象的な恐怖よりも、こういう抽象的なそれのほうがより恐ろしいことを痛感していた。

 とはいえ、私宅に辿り着いた時点で――視覚を奪われていたというのに、どうして帰宅できたのかは彼自身にも分からない――緊張の糸が緩んだのか、彼の罪悪感が具現化したような幻覚は消失し、心地良い日常風景へと回帰したのだった。その風景の中にプライムの姿がなかったからか篠崎は不意に世界を覆すような、とんでもないことを思いついてしまった。


 ――先刻の出来事は全て、否、僕がもう一人の篠崎慶一に出会い、この並行世界に迷い込んだと思しき時点以降の出来事は全て、単なる夢か幻覚だったのではないだろうか。パラレルワールド? ドッペルゲンガー? 死者蘇生? はん、よくよく冷静に考えてみれば現実世界にそんなものが介入、あるいは混入するわけがないじゃないか。


 篠崎は別に夢オチでも構わなかったし、むしろそれが順当であるような気がした。いや、それはいささか気取った言い方かもしれない。もう少し直截的に言ってしまえば彼は夢オチであることを切に願い、渇望していた。それほどまでに謙哉をこの手で殺害したという事実が彼に重くのし掛かり、押し潰されそうになっていたのだ。


 しかし、そんな御都合主義は外で鳴り響く救急車のサイレンの音によって掻き消されてしまった。無論、夢オチだとか幻覚だとかそんな仮説はあくまでも彼の淡い希望的観測に過ぎなかったし、感情に惑わされない脳髄の冷めた部位においては、それが付会であるということを重々自覚していた。なので別にショックを受けることはなく、いささか落胆しただけのことだった。

 何はともあれ、彼は迅速に現状(これが夢でも幻でもなく、現実であるということ)を把握し、謙哉の死を受容し、己の大罪から逃亡しなければならなかった。自首という手段もあるにはあるが、それではプライムに迷惑が掛かる。篠崎自身が逮捕された後、プライムの人生が窮屈なものになることは確実である。それに正直なところ、篠崎は少年刑務所になど送られたくなかった。


 ――罪から逃れ、罰を避ける。六法全書が憤怒しそうだが、僕が謙哉を殺したのは致し方ないことだったのだ。彼が僕に自慢しなければ、彼が僕を挑発しなければ、そもそも彼がのぞみと交際しなければ。いや、そんなものは聞き苦しく醜い自己正当化に過ぎないのかもしれない。客観的に考えれば僕のほうが全面的に悪いし、情状酌量の余地はないと言えるに違いない。


 ようよう心よりも頭脳のほうが活性化し、彼が論理的思考の勘を取り戻し始めた頃、外から猛獣のけたたましい叫び声が聞こえてきた。よく聞いてみるとそれは国家の犬の鳴き声で、一気に血の気が引き、代わりに冷や汗が噴出した。てっきり逮捕しに来たのかと思い、彼は慌てて返り血が付着した服を脱ぎ、ベッドの下に押し込んだものだが、改めて考えてみると警察がそんなに早く真相に辿り着けるわけがなく、おそらく救急車と同様に事件現場である一本木公園へと向かっているところなのだろう。

 その予想通り、犬の遠吠えはどんどん小さくなっていったので、彼は部屋着に着替えながらそっと安堵の胸を撫で下ろした。……というのも束の間、ふと犯行現場に致命的な遺留品を残してきてしまったことに思い至り、彼の胸はまたもや騒々しくなったのだった。気が動転していたからか、彼は事もあろうに自分自身の指紋がべったりと付着した凶器を置き忘れてきてしまったのだ。


 とにもかくにも気を落ち着かせなければと思い、彼は蹌踉たる足取りで冷蔵庫のほうへ飲料を取りに向かったが中途で膝が抜けてしまい、立つことすらままならなくなってしまった。

 死体のように床に平伏していると、何だか本当に死んでしまいたくなってきた。警察が謙哉のクラスメートの指紋を採取することは目に見えていたし――流石に全員ではないだろうけれど、少なくとも彼の唯一の友人である篠崎慶一のそれは採取されることだろう――そう考えると逮捕は時間の問題のわけで、それならばいっそ死んでしまったほうがいいような気がした。


 ――いや、僕が死んだところで、ただ単にこの世界の俺が罪を着ることになるだけの話だ。死ぬわけにはいかない。僕が「何か」をしなかった世界では、他の誰かが代わりにそれを行う。パラレルワールドの掟である。とはいえ、往々にして掟やら法律には抜け穴があるわけで、そこを上手く掻い潜ることができれば僕とプライムは二人とも逮捕を免れられるだろう。潜る方法は、ぱっと思い付いただけでも二つある。


 一つ目は、バイトをしていたという鉄壁の現場不在証明を利用して――これは別にアリバイトリックでも何でもない、プライムに犯行が不可能だったことは厳然たる事実なのだ――凶器の石に触ったのはあくまでも事件の数日前であり、断じて犯行時ではないと強硬に主張する方法である。無論、懐疑的な警察は間違いなく長期的且つ執拗にありとあらゆる手段を用いて様々なものを吐かせようとしてくるだろうけれども、この世界の篠崎プライムが口を割ることはまずないだろう。何しろ、彼は本当に無実なのだから。嘘発見器を使われようと、ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会に連行されようと、彼が犯人でないという事実は決して覆らないのである。


 二つ目は、方法というよりも単なる希望に近いが、もしこれが実際的なものだとしたら刑務所どころか留置場にさえ収容されることはないだろう。凶器に付着した指紋が逆に無実を証明してくれるのである。そう、つまり僕とプライムの指紋が同一でないという可能性だ。僕と彼は明らかに性格が違うし、そもそも本来は別世界の人間なのである。一卵性双生児だって指紋が異なるのだから決して有り得ない話ではないと思う。


 そのような血路を考えているうちに、篠崎はいつの間にか意識を失っていた。そう言うと何だか仰山に聞こえるかもしれないが「血路を見出し、少し安心したから眠りに落ちた」などという平穏な文でまとめるのは不適切だった。逮捕されるかもしれないという懸念と先刻の殺人の記憶が彼の血流を激湍のように早め、そのために心臓が破裂してしまったかのような、あるいは頭部を堅牢な石で殴られたかのような、そういう荒々しいものだったのだ。

 罪人に安眠は訪れない。


         ∮


 それから数千秒後、具体的にいうと午後十時十六分、何者かに体を揺すられ、篠崎は意識を取り戻した。心臓はきちきちと脈動していたし、頭部からどくどくと流血していなかったので彼は少し放神したが、リビングの床で横たわっていたからか身体の節々から悲鳴が――あるいは弱音と言ったほうが正鵠を射ているかもしれない――聞こえてきた。そんな篠崎を労わるように、『彼』は揺り動かす手を止めて優しい言葉を掛けたのだった。


「おい、大丈夫か? こんなところで倒れて……何かあったのか」

 愁眉を覗かせているプライムに対して、篠崎は小さく笑いながら首を横に振った。自分の顔を見て心底から安堵するというのは何とも気色悪い話だが、それほどまでに彼は精神的に追い込まれていた。プライムが白坂を奪ったことなど些事に過ぎないとさえ思い始めていた。

 どうにか身を起こし、プライムと共に数歩先の柔らかなソファーへと移動した後、篠崎は先刻の一本木公園での出来事について訥々と打ち明けた。プライムは基本的に寡黙な聞き役に徹していたが、謙哉とのぞみが交際していたという事実や、例の嘘をつくときの癖を謙哉が自覚していたという事実にはやはり驚きを隠せず、言葉と表情でそれを露にした。しかしプライムには騙されていたという被害意識はあまりないようで、最終的には「謙哉らしいな」と独りごち、寛容に受け止めたのだった。


「それで……その事実を知って、お前はどうしたんだ」

「君と違って寛容に受け止められなかった僕は、謙哉のことを素手で殴り飛ばした。てっきり殴り返してくるかと思ってたんだが謙哉は言葉すら返さず、ただ静かに笑っていただけだった」

 プライムは眉を顰めた。

「笑っていた? 何故?」

「さあね。殴った奴に、殴られた奴の気持ちなんて分からないさ。単に僕の神経を逆撫でしたかったんじゃないか」


 プライムから目を逸らしながら、篠崎は自己正当化をするようにそう言った。それに対してプライムは首を傾げていて、腑に落ちていないのは瞭然だった。しばしの沈思の後、プライムは自己批判でもするように異見を述べたのだった。


「もしかすると、謙哉はお前に殴られて嬉しかったのかもしれないな。変な意味ではなく純然たる意味で。まあ嬉しいかどうかはさておき、少なくともお前に殴られることを望んでいたのは確かだな」

「どういう意味だ」

「さっき、お前は謙哉から嫌味の数々を浴びせ掛けられたと言っていたけど彼のその行動には深意があったんじゃないか? つまり、お前のことをわざと挑発して殴り掛かってくるように仕向けた。――全ては自戒のために」

「そんな馬鹿な。平気で嘘をつくような奴に罪悪感なんてあるわけがない!」

 篠崎は自分自身に言い聞かせるように反論したが、プライムは無下に首を振ったのだった。

「お前の世界の謙哉がどんな奴なのかは知らないが、少なくともこの世界の彼は悪い奴じゃない。無意味に嫌味を言うような性悪ではないんだよ。嘘をつくことに関してはどうか分からないけれど、少なくとも嘘がばれてしまったことに関しては罪悪感を抱いたはずだ。何しろ、そのことによってお前を傷付けてしまったのだから。ああ見えて親友想いの良い奴なんだぜ、謙哉は。少なくとも俺はそう思う」


 少なくともという副詞を短時間中に三回も乱用してしまうというのは、明らかにプライムの語彙の貧しさを物語っていたが残念ながらそれによって大意が喪失することはなく、プライムの正論に対して篠崎は一言半句すら返せなかった。

 とどのつまり謙哉は罪の意識や自責の念、それどころか友愛の情さえもしっかりと抱いていたということになる。なのに、それなのに彼のことを。今更、悔やんでみたところで謙哉の生前にタイムスリップできるわけでもないのだろうけれども、それでも臍を噛まずにはいられなかった。


 ――それにしても、どうして彼はそんな遠回しな自戒をしたのだろうか。もっと直截的な方法を用いてくれていたら(〈走れメロス〉のように、殴ってくれとでも言ってくれれば)僕はセリヌンティウスのことを二度以上殴ることはなかったかもしれない。まあ、こんなのはいつもの言い訳に過ぎないのだろうし、よくよく考えてみると嘘好きの彼がそういった素直な態度を取らないというのは極めて自然であるように思えた。

 そう、あの婉曲な自戒は彼なりのアイロニーだったのだ。つまるところ彼はあくまでも偽悪者であり、本質的には何の罪もない人間だった。いや、ちょっと待てよ。本当にそうなのだろうか? 嘘や反語という漆黒のベールにばかり目を取られていて、今まですっかり失念していたが、「のぞみと交際していた」という真実は絶対的な悪に分類されるのではないだろうか。いくら世界が異なるとはいえ、彼は僕の恋人を横取りしたのだ。それを悪と呼ばずして、何と呼ぼう? そう、つまり僕は正義心でもって悪漢を裁いたに過ぎず、決して僕の殺人は間違っていなかったのだ。


 そんな篠崎の独善的な心中をまさか見透かしたわけではないのだろうが、プライムは事も無げに、あっさりと彼のその最後の言い訳を否定したのだった。


「ああ、それにしても謙哉が彼女と付き合っているというのはつくづく意外だな。まあ、お前にしてみれば不愉快極まりない話なんだろうけど……。でも、あまりあいつを責めないでやってほしい。というのも、お前だって時には謙哉に辛酸を舐めさせていたのだから」

「時には?」

「時と場合と世界によっては。そう言い換えたほうが分かりやすいかな。まあ、今から話すことはあくまでも俺の推論だが、この世界の謙哉が倉本に対して愛情を抱いていたということは、お前が元いた世界の謙哉も彼女に対して愛情を抱いていたということになるんじゃないか? だとすれば、お互い様ということに――」

「馬鹿なことを言うな! この世界と前の世界は全く以って違う。現に、僕と君の性格や嗜好は一致していないじゃないか!」

「おいおい、何もそこまで声を荒げることはないだろう。あくまでも推論だって」


 プライムはいささか呆れながら篠崎を宥めるようにそう言ったが、神経の高ぶりが静まることはなかった。というのも白々しく唇を否定的に開閉させてみたところで、篠崎は、心の中ではその推論を半ば肯定してしまっていたのだから。前述したように篠崎とプライムの性格や嗜好は、そもそも一人称からして相違しているわけだが、だからといってこの世界の謙哉と前の世界の彼もそうであるということにはならない。むしろ、彼らの性格と一人称は合致していたのだから嗜好も同一だったと考えるのが自然であり、論理的である。


 ――だとすると、前の世界の謙哉がのぞみを恋い慕っていたのだとすると、僕は彼に対して日々惨い仕打ちをしてきたことになる。教室内でのぞみと昼食を摂ったり、彼女と二人きりで観に行った映画の感想を謙哉に話したりしてしまった。彼はそれを自慢と受け取ったかもしれない。前の世界の彼は全く傷付いた素振りを見せていなかったが、おそらくは演技をしていたのだろう。そう、彼は自分自身の気持ちにさえ嘘をついていたのだ。


 ここまで嘘を徹底されてしまっては、もう笑うしかない。笑って笑って笑って、それこそ死んでしまいそうになるくらい笑いこけて……そして泣き喚きながらのたうち回るしかないのだろう。

 ふと気が付くと篠崎は無意識のうちに、まさしくその通りの行動を取っていた。狂ったように笑い、狂ったように泣いていた。笑いすぎて泣いたのか、泣きたかったから笑ったのか。そもそも何故笑っているのか、泣いているのか、彼には何も分からなかった。


 無論、謙哉の死という重い事実とそれに付き纏わる罪悪感を軸として思考を巡らせてみれば自ずと解答は見えてくるが、篠崎はそのとき、そこまで血の巡りが良くなかった。いずれにせよ、これが単なる哀楽ではなく躁鬱病の類であることは瞭然だった。そんな彼の哄笑と慟哭に対して当然ながらプライムはほとほと困惑していて、何一つワイズクラックを思い付けずにいるようだった。下手に慰めの言葉を掛けられるよりはよっぽどマシだと彼は思っていたので、それはそれで別に構わなかった。彼はプライムの存在など忘れて思う存分泣き、呻吟するように心情を吐き出した。


「ごめんな、謙哉。今度は必ず見破るから、また、いつもみたいに嘘ついてくれよ。死んだのは嘘だって……」


 しかしそんな篠崎の掠れた呻き声は、自分自身の精神が崩壊していく音によって無残にも掻き消されてしまったのだった。

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