第八話「真実」
「ごめんなさい」
罪悪感に耐え切れなくなったのか、のぞみは紅涙を絞りながら篠崎に謝り、どこかへ走り去っていってしまった。彼は一瞬、呼び止めようかどうか逡巡したが、泣いている彼女を責め詰るのは気が引けたので沈黙していた。謙哉にいたっては端から彼女を呼び止めるつもりも追い掛けるつもりもないようで、口を開こうともベンチから立ち上がろうともしなかった。むしろ、泣き虫がいないほうが話しやすくて好都合だと言わんばかりに口元を綻ばせていた。それが無性に篠崎の神経を逆撫でしたことは言を俟たない。
「何笑ってんだよ。お前は最低な嘘吐きだな」
「嘘吐きじゃない。嘘好きだ。まあ何はさておき、とりあえず座ってくれないか。物理的とはいえ、見下されるのはあまり好きじゃないんだ」
「生憎、僕はお前のことを物理的に見下していたい気分なんだ。どうしても嫌なら、お前自身が立てばいい」
篠崎の反駁に対して謙哉は「やれやれ」と呟きながら苦笑を浮かべたが、決して腰を上げようとはしなかった。謙哉が負けず嫌いであることを知っているとはいえ、やはりそのふてぶてしい鎮座を見ていると虫唾が走った。というよりも謙哉の一挙一動、一挙手一投足がいちいち癇と癪に触り、その五体と五臓六腑が至極憎らしく思えた。そんな激情を無理矢理に押し殺し、篠崎は平静を装った声で訊ねた。
「なんで、お前がのぞみと付き合っている? 北吹のことが好きだとか言ってたじゃないか」
「はは、これは傑作だな。あんなの嘘に決まってるじゃないか。平生から吹聴しているように僕は嘘好きなんだ。まあ、いつもの取るに足りない嘘ということで軽く受け流してくれ」
「ふざけたことを吐かすな。北吹が君のことを好きだという嘘を僕がついたとき、お前はあんなにも憤激していたじゃないか。それに……それに、お前はあのとき嘘をついている素振りなんてこれっぽっちも」
「素振り? ああ、もしかしてこれのこと?」
そう言うと謙哉は至極愉快そうに笑いながら、左手の中指で銀縁眼鏡のブリッジの部分を押し上げたのだった。
それを見た途端、篠崎は雷に打たれたような気分になり目が回った。そんな彼の反応に対して謙哉は満足そうに口角を更に上げ――それはエイフェックス・ツインの〈リチャード・D.ジェイムス・アルバム〉のジャケットを彷彿させた――哄笑したのだった。
「成田謙哉は嘘をつくと無意識にブリッジを触ってしまう。君は本気でそんな馬鹿げたことを信じていたのか? 〈嘘の天才〉と称されている僕がそんな頓馬のわけないだろう。あんなもの全て演技だよ。そもそも、視力だって悪くないしね」
謙哉は眼鏡を外しながら、さらりと言ってのけた。しかし幾何学模様の綺麗な布でレンズを拭くとすぐにまた掛けたので、真偽のほどは不明だった。
何はともあれ、確かに謙哉の言うとおりだと篠崎は思った。三文小説でもあるまい、嘘をつくと無意識にブリッジに触れてしまうような分かりやすい人間が存在するわけがない。ましてや、謙哉は主要五教科満点を取ったことがあるような紛うことなき天才なのである。天才は奇行が多いなんていうが、謙哉にとっては奇癖さえも方程式の変数に過ぎないのだ。
――それにしても、つくづく彼の勘定高さには舌を巻いた。一度そういう固定観念を植え付けられてしまうと、彼が〝本気で信じ込ませたい〟と思った嘘を看破することは事実上不可能となってしまうのである。嘘をついているのにブリッジを触らない、あるいは真実を語っているのにわざとブリッジに触れる。そんな小手先の技術を駆使されただけで、全く以ってお手上げとなってしまうのだ。
何が嘘で何が真実なのか分からなくなり、篠崎の脳裏で嘘と真実がくるくるぐるぐると回りだした。それはどことなく遊園地のコーヒーカップの回転に似ていて、またしても激しい嘔気が襲ってきた。
「そんな顔しないでくれよ。僕の小賢しい嘘はともかく、せめてのぞみがついた嘘は許してやってくれないか? 何せ、彼女のそれは僕と君のことを思い遣った優しい嘘なのだからね。つまり、彼女が『司くんと付き合っている』なんて言ったのは僕と君の友情が崩れることを懸念したからに他ならないんだよ。事実を知ったら、君は間違いなく僕のことを忌み嫌っただろうからね。ちょうど今のように」
そんなことはない。あの時点でのぞみが正直に言ってくれていたら、僕は素直に君たちを祝福していた――そんな風に駁論しかけたが、それが空々しい綺麗事であることを自覚していたので篠崎は黙って瞳を伏せることしかできなかった。
「論を俟たないことかもしれないが、森繁司の名前を使ったのは彼が転校した生徒だったからだそうだ。近くにいる人間より比較的コンタクトが取りづらいからね、そういう人種は。それから、彼が転校した時期と僕がのぞみに告白した時期が符合していたことも何か関係があるのかもしれないね。のぞみにとって、僕に告白された昨年の七月は特別な意味を持つだろうから」
「気に障るから余計なことを言うな。というか、お前ら去年の七月から付き合ってたのかよ。どうして僕に教えてくれなかった? 僕がのぞみに告白する前なら、気兼ねなく言えただろう。隠す必要性なんてなかったはずだ」
「逆に言えば、教える必要性もなかったわけだよ。なんて言うのかな。恋人ができたとかそういう自慢みたいなことって、どうも苦手なんだよね」
謙哉のあまりにあっけらかんとした物言いに、篠崎は怒りを通り越して彼とは別の意味であっけらかんとしてしまった。会話の端々に自慢を挟んでいるくせに、よくそんな白々しいことを言えたものだと篠崎は思った。
結局、彼らが交際の事実を秘し隠していた理由は今一つ分からなかったが、逆に考えれば然したる理由など元より存在しなかったということだろう。おそらく、謙哉はただ純粋に「交際していない」という無意味な嘘をついてみたかっただけに違いない。そういう小さな嘘の山積が世界の均衡を不安定にさせ、混乱や混沌を招き、一歩間違えれば崩壊すら起こしてしまうというのに。
嘘の持つ危険性について順序立てて説明してやろうかとも思ったが、この嘘好きが尤もらしい顔つきで頷きながら聞き流すことは目に見えていたので篠崎は黙って謙哉を睨めた。
「それにしてものぞみは昔より嘘が巧みになったような気がするよ。はは、やっぱり僕の真紅色が彼女の全てを染めてしまったからかな。朱に交われば何とやら。いや、変な意味じゃなくてね」
「嘘吐きって時点で分かってたことだけど、やっぱりお前って本当に性格悪いよな。人格が破綻してる」
「それなら、嘘を吐くのをやめようか? のぞみは僕のことを愛していて、君や森繁のことはこれっぽっちも愛していない。それが真実だ」
眼前の赤鬼は冷ややかな笑みを浮かべながら篠崎にとどめを刺した。度重なる謙哉の口撃に彼はもう我慢の限界だった。彼はベンチに鎮座している謙哉に近付き、胸倉を掴んで無理矢理に腰を上げさせた。身長は大方同じくらいだったが、謙哉の体つきは篠崎よりも遥かに華奢であり、腕力に関しては彼のほうが勝っていた。聡明な謙哉はそのことを理解しているのか特に無駄な抵抗はせず、侮蔑の眼差しを彼に向けながら悠然と言葉を紡ぐだけだった。
「やれやれ、君も結局は他の下等で低劣な連中のように暴力に訴えるわけだね。別に幻滅はしないけれど、いささか残念ではあるよ」
「黙れ」
「断乎として拒絶する。言論の自由があるからね――」
その言葉を遮断するように、篠崎は謙哉の左頬を思いっきり拳で殴り飛ばした。決して喧嘩慣れしているというわけではないので、映画か何かのように派手に宙を吹っ飛んでいくというようなことはなかったがそれでも最低限の力学は働いていたようで、謙哉はベンチに足を引っ掛けてその長椅子もろとも仰のけに転倒した。
左頬の痣と眼鏡の喪失は――先刻の一連の動作の最中に銀縁眼鏡は外れ、公園の闇に吸い込まれていったようだった――成田謙哉の敗北を象徴していたが、それを見ても篠崎は勝利を実感できなかったし、謙哉自身は開豁な夜空を流離う燦然たる星々に向かって快活な笑みを投げ掛けているだけだった。それは決して負け惜しみでも何でもなく、殴られて清々したかのような、青春を謳歌しているかのようなそういう類のものであり、今の篠崎には到底浮かべられない笑顔だった。その瞬間、篠崎は何とも言い様のない虚無感に襲われ、実質的な意味で謙哉に勝利するのは一生掛かっても不可能なのだと悟ってしまった。
気が付くと篠崎は大地と一体化している謙哉の腹に乗り掛かり、手近いところに落ちていた石を拾い上げ――まるでこうなることを予期していたかのように、それはそこに存在した――狂ったように謙哉の頭部を執拗に殴り続けた。
石で殴られる直前も謙哉は笑っていて、まるで抵抗しようとはしなかった。裸眼ということで篠崎の猟奇的行動が見えていなかったのか、あるいは見えていたけれど諦観したのか、はたまた本気でこんな結末を望んでいたのか。愚かな篠崎に天才の心理や脳裏など分かるわけもなかったが、いずれにせよ謙哉は微笑みながら意識を失くしたのだった。
そのシュールで安らかな顔面は、見る見るうちに現実的で生々しい血潮によって赤く染められていった。
――謙哉が死んだ。否、僕が殺したのだ。
脈拍や瞳孔を調べたわけではないが、その夥しい血の量を見れば謙哉の死亡は瞭然たる事実だった。正気を取り戻し、そのことをようよう悟った篠崎は何かから逃れるように無我夢中で闇から闇へと駆け出した。