第七話「紅」
翌朝、篠崎はいつもの習慣で七時四十分に目を覚ました。勤労担当なのだから早起きは不要なわけだが無理して二度寝することもないと思い、彼は寝台から起き上がった。
枕元に置いておいた真紅色の仕事用携帯電話の電源を入れると、プライムから――学校用携帯電話から一通のメールが送られてきていた。本文には『了解』の二文字しか書かれていなかった。篠崎が昨夜寝る前に送ったメールへの返信だった。
『君に言い忘れていたことが三つあった。
一、白坂との関係は今のところ北吹しか知らない。彼女は秘密交際を望んでいる。
一、麻耶を泣かせたらただじゃ済まさない、と北吹が言っていた。
一、謙哉とは喧嘩中。
んじゃ、学校のほうよろしく。それから明日のバイトも君が行け。今日サボった分の埋め合わせとして』というメールを篠崎はプライムに送っていたのである。
学校だけでなくバイトにも行かなくて済むようになった篠崎は、のんびりとトイレで小用を足し、リビングでニュース番組を見ながら朝食を摂った。メニューは、サトウのごはんと納豆。白坂の手作りカレーがまだ残っていたが、彼はそんなものを食べたくなかった。白坂がプライムのために作った料理など酸味しかしないに決まっているのだから。
ニュース番組の占いコーナーが終わった後――珍しく双子座が一位だった――すなわち午前八時、プライムの寝間から目覚まし時計のベルの音が聞こえてきた。それはすぐさま鳴り止んだが、十分経ってもプライムは自室から出てこなかった。どうやら、再び眠りの世界へ吸い込まれていってしまったらしい。質素な朝食を摂取した篠崎はテレビの電源を消し、静々と自分自身の閨へ戻り、読書の秋を満喫した。プライムを起こす気など毛頭ない。プライムが遅刻しようと無断欠席しようと、もうどうでもよかった。ここは彼自身の世界なのだから彼の好きにすればいいさ。冷めた頭で、篠崎はそんなことを考えていた。
それから一時間ほどしてようよう覚醒したのか、プライムの寝間からどたどたと物音が聞こえてきた。その数分後には、玄関の扉が軋る音。学校嫌いのプライムにしては妙に素早い行動だった。自分だったら遅刻が確定した時点で動作は緩慢になり、朝食をゆるゆると摂ってから登校するだろうな、と篠崎は思った。あるいは、プライムは学校という場所を好きになり掛けているのかもしれない。白坂のお陰だろうか。プライムがそこまで純情だとは思えないが、絶対に違うとも言い切れなかった。正直、篠崎はプライムのことがよく分からなくなっていた。アイドルオタクなのかプレイボーイなのか、偽悪者なのか悪者なのか、いまいちはっきりしない。
切りがよくなったところで篠崎は一旦本を閉じ、テレビゲームやインターネットなど他の心地良い世界へ転移した。そういう世界の時の流れが異様に早いことはわざわざ言うまでもなく、気が付くといつの間にか午後三時半を回っていた。早ければ、そろそろプライムが帰ってくるかもしれない。何となくプライムと顔を合わせたくなかった篠崎は急いでPCをシャットダウンし、財布だけ持って家を飛び出した。
――プライムと同じ空間にいたくないというこの気持ちは、やがてプライムと同じ世界にいたくないという気持ちに発展してしまうのだろうか。もし、そうなったら僕はどうすればいいのだろう。この世界から元の世界へ戻ったらのぞみがいなくなってしまうし、そもそも夕霧ヶ池のSF的事象がいまだ続いているかどうかも定かでない。そうだ、久し振りに夕霧ヶ池に行ってみようか。
一瞬そう思ったものの、そこはプライムの通学路付近だったので断念した。プライムと手を繋いでいるであろう白坂に、もう一人の篠崎の姿を見られるのはまずい。篠崎は夕霧ヶ池とは真逆の方向に歩き出し、プライムと白坂が立ち寄らなさそうな場所、市立図書館に入った。
図書館の出入り口が見える位置の椅子に座り、篠崎は閉館の午後五時半まで、手塚治虫の〈SF傑作集〉や〈猫傑作集〉、藤子不二雄Ⓐのブラック商会変奇郎シリーズを読んで過ごした。途中、東川瀬高校の制服を着た生徒が何人か入館してきたが、いずれも見知った顔ではなかった。プライムと白坂が来館しなくて良かったものの、のぞみに会えなかったのは――前の世界で、彼女はよくここを利用していたのだ――残念だった。篠崎は大きく息を吐き、図書館を後にした。
外には暮色蒼然たる世界が広がっており、冷たい秋風が篠崎の肌と心を突き刺した。何だかひどく寂しい。無性にのぞみの顔が見たくなってきた。彼の足は、無意識のうちにのぞみの家のほうへ向かっていた。彼女の家は一本木公園の近くにあるので、下手をするとプライムと白坂に遭遇してしまう可能性があったが、篠崎の脳髄は両足を止める命令を下さなかった。
――いくら何でもプライムはもう帰宅しただろう。早く彼女に会いたい。
甘い思い出と苦い思い出が錯雑する一本木公園の前を通り過ぎ、数分歩いたところで閑静な住宅街が見えてきた。その広大な住宅地には個性を殺された幾つもの家屋が画一的に並べられており、それはそのまま中流社会を象徴しているように思われた。つまりはどの家屋も似たような平服を着ていて、なおかつ辺りは薄暗かったわけだけれどのぞみの家には何度か訪れたことがあったので特に造作なく、〈倉本〉と記された立派な表札を見つけることができた。前の世界ののぞみの住所とこの世界の彼女の住所が同一で安心したが、篠崎の目的はあくまでも彼女と会うことである。会ってどうするのかという疑問が彼の頭を駆け巡ったが、とにかくここまで来たからには彼女の顔くらい見ておきたい。彼は、さして何も考えずに彼女の家のインターフォンを押した。
その瞬間、インターフォンに触れた右手の人差し指に電流が走り、理性的な篠崎慶一が彼の心中で目を覚ました。
――来意について何と説明すればいいのだろうか? それから僕がどうして彼女の住所を知っていたのか、その説明も必要だろう。下手をすると彼女は僕のことをストーカー扱いし、ますます気まずい関係になってしまう可能性もある。
気が付くと、篠崎は一本木公園の方向へ駆け出していた。これではピンポンダッシュではないか。良心が咎めたが、今更その行いを中断することはできなかった。あるいは、彼の足は身体の部位の中で一番我が儘気儘な性質を有しているのかもしれなかった。
のぞみの家が見えなくなったところで彼は一旦立ち止まり、両手を膝に付けて肩で息をした。苦しい。のぞみと気軽に会ったり話したりすることができないなんて苦しかった。心にぽっかり穴が開いたという表現はいささか大仰かもしれないが、日常生活に味気ない空白部分が生じてしまったことは間違いなかった。それを埋めようとするように――正直、空腹でもあった――彼は目についたマクドナルドに入り、チーズバーガー二つとバニラ味のマックシェイクを購めた。カップルだらけの店内で食す気にはなれなかったので持ち帰り用にした。それを携えて、彼は一本木公園へ向かった。
公園内は相変わらず静謐だったが、意外なことに人影があった。その人物は四十代くらいの男で、スーツにネクタイという出立ちから会社員のように見えた。しかしそれはあくまでも短絡的思考に基づく見解であり、その背広の皺や世間に絶望しているかのような表情を考慮に入れると全く違うもののように思えた。彼は入口付近の錆びていないほうのベンチに腰掛けていたので、消去法的に篠崎は公園の奥にある錆付いたほうのそれに腰を降ろすこととなった。公園の入口からそのベンチに移動する際、一瞬だけ彼らの視線が交差したが双方ともすぐに目を逸らした。
おいおい彼に興味を抱き始めた篠崎は、座りながら彼のほうに目を向けてみたが無念ながら一本の大木によって視界は遮られてしまった。無論、たとえそれがなかったとしても、この暗闇が代替品になるだけのことだろう。眼球が頼りにならないことを悟った篠崎は、脳髄を使用して彼の暗愁を覗くことにした。心眼と呼べるほど確然たるものではなく、あくまでも推量に過ぎないが、おそらく彼はこの曠古の不景気の煽りを受けて馘首されたのだろう。しかしながらそのことを家族になかなか打ち明けられず、当座凌ぎに出社している振りをして、こういう公園で時間を潰しているに違いない。つい過日まであれほど待ち遠しかった給料日も今の彼にとっては真逆の意味合いでしかなく、世界というのはつくづく気分屋で裏切り者だった。
――そう考えてみると、この世界に真実なんてものはないのかもしれない。無論、「真実らしきもの」は幾らでも存在するが、それらは全て時間と状況によって消失したり変容したりしてしまうのだ。天動説なんて最たる例である。遠い未来の世界では太陽が爆発してしまうかもしれないわけで、そうなると地動説さえも「真実らしきもの」に分類せざるを得なかった。
チーズバーガーを食べながらそんな懐疑的な思考を巡らせていると、その匂いに釣られた一匹の猫が大木の陰から篠崎の足下に近付いてきて、食物をねだるように、あるいは反駁するように愛らしい鳴き声を上げたのだった。
猫は可愛いものである。個人的な真実を一つ見つけて、少しだけ頬が緩んだ篠崎はハンバーグの部分を幾らか猫に分け与えた。黙々と、そしてもぐもぐとそれを食している猫を見ていたら何故だか白坂とのぞみの顔が頭に浮かんだ。前者の顔はどことなくぼやけていて、あたかも海馬が思い出すのを拒絶しているかのようだったが後者の顔は、否、のぞみの顔ははっきりとしていた。
――結局のところ、僕は誰よりも何よりものぞみを愛していたのかもしれない。一時、白坂と昼食を摂ったり典型的で健全なデートをしたりもしたが、そんな乳臭い遣り取りで揺らめぐようなものではなかった。何しろ僕は前の世界からのぞみのことを想っていたわけで、言わばこれはもう何もかもを超越した愛なのだ。のぞみへの愛情と白坂への愛情は最早、別次元のものだった。過言かもしれないが、これこそが真実の愛なのかもしれない。
最終的にはそんな青臭い結論に達してしまった篠崎だったが、意外とこういう自分は嫌いではなかった。心なしかマックシェイクの味がいつもより甘く感じられ、彼はますます陶酔境に引き込まれていった。
食事を終え、マクドナルドの塵芥を公園のゴミ箱に捨てた後もその状態は継続していて、篠崎は軽い腰を上げて私宅へ帰ることにした。足取りもやけに軽く、何だかふわふわと空中を歩いているような気分だった。幻覚かもしれないが、瞳に映る全ての事象が幸福のオーラを放っていて、それに触れるたびに彼のそのオーラも郭大していった。そんな目映い光によって掻き消されてしまったのか、あの会社員風の男の姿はなくなっていて、代わりに一組のカップルがその錆びれていないほうのベンチを占領していた。話し声も聞こえてこなかったし顔もよく見えなかったが、彼らのそのアダルトなシルエットから考えて、抱き合いながらフレンチキスをしていることは明々白々だった。接吻の時間と比例してカップルの幸福のオーラは膨大していき、やがてそれは一本木公園全体を包み込んだ。どこまで膨張していくのか気になったが、流石にそれは悪趣味のように思えたので、彼は静かにカップルの横を通り過ぎて公園を出て行こうとした。
しかし何心なく近くでそのカップルの顔を見た瞬間、篠崎の足は地に着き、全ての幸福のオーラは無惨にも爆裂したのだった。
精神的なショックよりもまず先に、大量のインタロゲーションマークが篠崎を襲撃し、彼は極めて酷い混乱状態に陥った。
なんで? どうして?
あのとき、君はあの人と付き合っていると言っていたじゃないか?
それなのに、何故?
どうして、お前らが付き合っている?
瞠若たる眼差しをこちらに向けている倉本のぞみと成田謙哉を睨みつけながら、篠崎は世界に裏切られたことを痛感していた。
虚言、偽言、食言、空言、妄言、譫言、囈言、作り言、拵え言、譫語、囈語、出鱈目、出放題、無根、欺瞞、虚偽、虚語、虚構、虚妄、妄語、妄舌、妄説、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
彼は、目の前が真っ赤になった。