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グッバイ・パラレルワールド  作者: 厳島みやび
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第六話「そして彼は途方に暮れる」

 麻耶との時間は思いのほか幸福で、あっという間に三週間が経過した。

 彼女の手作り弁当に舌鼓を打ち、放課後は手を繋いで帰り、夜中は長電話をし――麻耶との交際をもう一人の自分に悟られないように外で通話した――、休日は映画館や水族館や遊園地へ行った。当然ながら篠崎は麻耶のことをどうしようもないくらい好きになっていった。彼女の小さな唇や豊かな胸に何度目を奪われたことか。けれども、彼は決して彼女にキスやセックスを求めはしなかった。まだ、前の世界ののぞみに対する愛情のほうが勝っていたからだ。とはいえ、それも時間の問題なのかもしれなかった。


 その日も篠崎は麻耶と一緒に下校した。途中、カラオケボックスに寄り、自宅に着いたのは午後五時頃だった。玄関の扉を開けた瞬間、彼はふと違和感を抱いた。普段はテレビの音やらCDラジカセの音やら、とにかく何かしら物音が出迎えてくれるのに今日は不気味なほど寂然としていたのだ。外出しているのかとも思ったが、プライムの靴は厳として存在していた。篠崎は「ただいま!」と怒鳴るように言って、こころもち急いでプライムの寝間へ向かった。


 その部屋のドアを開けると、ベッドに横たわっているプライムの姿が視界に映った。プライムの額には何やら濡れたタオルが載っていて、そのせいか顔色がいつもより悪く感じられた。篠崎の気配を察したのか、プライムはおもむろに瞼を開いた。


「よう、帰ってたのか僕ちゃん。おかえり」

「大丈夫か? 熱でもあるのか」

「朝、測ったら三十八度八分だった。今は少し下がっただろうけど。ま、単なる風邪だろ。心配は無用だぜ」

 そう言って、プライムは健常者のような快活な笑みを浮かべたが篠崎の目には無理をしているようにしか見えなかった。篠崎は厳格な医師のように、

「何にせよ、安静にしてたほうがいい。バイトは僕が代わりに行くよ」

「いや、お前にばかり負担を掛けさせられない。俺が行く」

「いいから君はじっとしていろ。今、無理して頑張ったところで病気の回復が遅れてしまっては元も子もないだろう」

 しばらく沈思黙考した後、プライムは申し訳なさそうに口を開いた。

「……じゃあ、今日は頼む。この借りは必ず返す。そうだ、今度お前が病に倒れたら俺が代わりに学校行ってやるよ」

「え、ああうん。ありがとう」

 篠崎は曖昧に頷き、平日は絶対に病褥に伏すわけにはいかないなと胸裏で呟いた。


 プライムから真紅色の『仕事用』携帯電話を受け取った直後、篠崎は台所へ移動し、タイのイエローカレーを作った。とはいっても、もちろん本格的なものではなくレトルトである。カレーの袋(レトルトパウチ)を熱湯に数分間入れ、サトウのごはんを電子レンジで二分間温めれば完成する。炊飯器くらい活用すべきなのかもしれないが、篠崎はどうも――おそらくプライムもそうだろう――手で米を研ぐという作業が面倒に感じられて仕方なかった。無数に存在するパラレルワールドの中で、篠崎慶一が料理人になっている世界だけは全く想像がつかなかった。


 居間のソファーに座り、テレビでニュースを見ながら黄色くて少々甘いスープカレーを食しているとプライムの携帯電話から水無月水織の歌声が聞こえてきた。携帯を開くと一通の新着メールが届いていた。差出人はバイト仲間の山岡さんだった。山岡さんは篠崎より二つ年上の大学生なのだが、趣味が合うので比較的心安い間柄だった。否、この世界においては現在進行形を用いるべきである。山岡さんからの下らない内容のメールに返信を送った後、真紅色の携帯電話の過去の受信メールに目を通すと、そこには他のバイト仲間や姉、そして中学の頃の友人の名前があり、篠崎は思わず懐旧の情を抱いた。


 中学は部活動の参加が義務付けられていて大変だったけど、今となっては良い思い出だな。僕は野球部、麻耶は確か陸上部で――。


 連想が次々と沸き起こってきたが、残念ながら記憶の整理ばかりしてもいられなかった。過去よりも現在の相手を優先しなければならない。篠崎はライスカレーの残りを掻き込み、バイトの準備をして五時四十一分に家を出た。

 バイト先であるドラッグストアは全国展開している大規模な店で、当然ながら店員や客も多い。見知らぬアルバイターが一人増えていてほんの少し緊張したが、その人と会話せざるを得ない状況になることは特になかった。レジ、品出し(商品の陳列)、商品の期限チェック等――数週間振りの勤労はなかなか新鮮で、時は意想外に早く流れた。


 午後十時、篠崎は他の高校生アルバイターたちと共に仕事をあがり――山岡さんなど十八歳以上の人は閉店の十二時まで――今度は、「客」として店内を歩き回った。トイレットペーパーを切らしていたし、プライムのために何か薬剤でも買っていってあげようと思ったのだ。落とし紙を買い物かごに入れ、薬品コーナーへ向かっているとジーンズの左ポケットの中で群青色の『学校用』携帯電話が震え始めた。麻耶からの電子メールかと思い、彼は少しわくわくしながら携帯を開いたが、出会い系サイトからの迷惑メールだった。

 薬品コーナーの前で、篠崎はどれを購入しようか迷っていた。ただの発熱なら解熱剤で十分だが、プライムは風邪っぽいとも言っていたし総合風邪薬のほうが良いかもしれない。まあ、効能が最も良いのは内科で処方された薬剤なのだけれど――ドラッグストアの店員らしからぬ思考である。それにしても、プライムはどうして病院へ行かなかったのだろう。起き上がれないほど疲弊していたのだろうか。


 その瞬間、篠崎の脳裏に数時間前のプライムの表情が蘇った。プライムに対して、「大丈夫か?」と尋ねたとき、彼は健常者のような快活な笑みを浮かべていた。〈健常者のような〉。あるいは、それは比喩でも何でもなかったのかもしれない。とどのつまり、仮病だったのではないだろうか。


 ――バイトをサボるための嘘にしては、少々手が込みすぎている。


 胸騒ぎを覚えた篠崎は、買い物もせずに慌てて薬屋を飛び出した。

 私宅の玄関の扉を開けると、テレビの音とカレーの匂いが篠崎を襲ってきた。断じて出迎えてきたのではない。襲ってきたのである。カレーの匂いといっても篠崎が夕刻に食したものではなく、もっと何か家庭的なものだった。テレビの音がする居間のほうへ彼は恐る恐る近付いていった。


「ぷははははっ! 下らねえ」

 居間のソファーに腰掛け、酒を片手にバラエティー番組を見ながらプライムは至極愉快そうに笑っていた。数時間前、濡れタオルを額に載せていたプライムと同一人物であるとはとても思えなかった。

「やけに元気そうだな」

「ああ、おかえり。バイトお疲れちゃん」

 テレビに顔を向けたままのプライムに対して篠崎はいささかムッとしたが、カレーの匂いが気になって上手く罵ることができなかった。臭覚を頼りに匂いの元を辿っていくと、キッチンに着いた。ガスコンロの上の圧力鍋の中には野菜たっぷりの和風カレーが数食分入っており、炊飯器にはふっくらとした白米がこびりついていた。


「おい、あのカレーお前が作ったのか」

 篠崎の言葉など聞こえなかったかのように、プライムは相も変わらずテレビを見ながら酒をちびりちびりと飲んでいた。いい加減堪忍できなくなってきた篠崎はテレビの電源を消し、プライムを詰問した。

「質問に答えろ。お前が作ったのか? それとも、姉さんが帰ってきたのか」

「どちらでもないと言ったら?」プライムは薄く笑った。「つまり、白坂が作ったと言ったらお前はどう思うんだ?」


 その名前を聞いた途端、篠崎は頭の中が真っ白になった。白坂、しらさか、シラサカ――色々と変換してみたところで、最終的に思い浮かぶのはやはり麻耶の顔だった。プライムの向かいのソファーに篠崎はへなへなと座り込んだ。

「どうして、麻耶が……白坂が、お前なんかに料理を作るんだよ」

「白坂麻耶が、恋人である篠崎慶一に夕食を振る舞う。おかしなところは何一つないと思うけどな」

「ふざけるな! 麻耶は、僕の……僕の彼女だ」

 篠崎は彼らの間を隔てているテーブルを強く右拳で叩き、切歯扼腕しながら項垂れた。

「いつから気付いていたんだ」

「もう、ずっと前からさ。お前らの交際が始まった日には既に」心なしかプライムの口調は誇らしげだった。

「何故分かった」

「なあに、簡単な話。お前が風呂に入っているときや寝ているときに、こっそり携帯を見たのさ」

「馬鹿な。ロックが掛かっていたはずだ」

「ロック? ああ、四桁の暗証番号のことか。あんなもの、屁でもない。俺を誰だと思っている? 篠崎慶一だぜ。俺自身が考えそうなパスワードを打ち込んでいったら、四回目であっさり解除できたよ」

 得意満面なプライムを見て篠崎はますます歯軋りし、暗証番号を無秩序なものにしなかった過去の自分自身を呪った。


「他人の携帯を見るなんて下衆だな。まあ、お前は他人じゃないとかほざくのかもしれないが。というか、なんで見たんだよ」

「大した理由なんてない。謙哉とか高校の連中からどんなメールが来ているか、それが少し気になっただけだ。俺にもまだ愛校心が残っていたってことかもしれんな、多分。それはともかく、よく考えてみると俺よりお前のほうが下衆なんじゃないか? 倉本が振り向いてくれないと分かるや否や白坂に鞍替えし、そればかりか俺にそのことを黙っていた。この世界の主ともいえる俺様に対して。

 いいか、はっきり言うぞ。この世界の白坂が告白した相手は、別世界から来た部外者のお前なんかではなく、この世界の俺だ。本質的な意味合いにおいては、な。そうだろ?」

 プライムの正論に対して篠崎は黙り込む他なかった。プライムは畳み掛けるように、

「つまるところ、白坂は俺の女ってわけだ。それを黙って横取りするとは、どういう了見だ? この無口野郎。正直に言ってくれれば、共有も考えてやったのに」

 共有という単語に篠崎はひどく吐き気を覚えた。それはあたかも、麻耶が単なる『モノ』であるかのような言い方だった。批判する権利などないのかもしれないが、プライムの心には何か大切なものが欠落しているような気がした。

 饒舌な彼は、にやにや笑いながら再び口を開いた。


「俺が何故、お前らの交際を今日まで黙認していたか分かるか?」

「分かりたくもないね」

「それはな、お前らの関係が熟すまで待ってやろうと思ったからだ。つまり、長電話とか遊園地デートとかそういう七面倒くせえことはお前に任せておいて、お前らが日常的にエッチとかするようになったら――遅くとも三週間以内に、そういう関係になると俺は踏んでいた――俺も何回かヤらせてもらおうと目論んでいたわけさ。

 そんで、それを今日実行した。病人の振りをし、お前がバイトに行くよう仕向け、その後、家の固定電話から白坂の携帯に掛けて彼女を家に呼んだんだ。その際、群青色の『学校用』携帯電話が故障したと嘘をついておいた。言うまでもなく白坂がお前にメールを送らないようにするためだ。

 ああ、それにしてもあいつは良い女だな。料理も上手いし巨乳だし、それに加えて処女だとは。……ったく、お前も一回くらい抱いておけばよかったのに。馬鹿だなあ」

 プライムの顔に張りついた卑しい笑みを殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、結局のところ実行はしなかった。こいつには殴る価値もない。そう判断した篠崎はジーンズの左ポケットから群青色の学校用携帯電話を取り出し、それをテーブルの上に放った。明日からはお前が学校に行け、と吐き捨てるように言った後、篠崎は自身の閨へ移動した。プライムは特に承諾も拒絶もせず、ただ黙って酒を飲んでいた。


 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めながら篠崎は麻耶との思い出を振り返っていた。それらはどれもこれも爽やかな青色で満ち満ちていたけれど、途中からだんだん白濁し始め、最終的には正視に耐えないものになってしまった。思わず強く目を瞑ると、何か液体のようなものが彼の頬を伝った。その液体の冷たさは、前の世界ののぞみが亡くなったときに流した涙の冷たさとほんの少しだけ似ていた。


 エンドルフィンが分泌され、気分が落ち着いてきたところで篠崎は努めて客観的に現状を見てみようと思った。『プライムに麻耶を寝取られたものの、彼女にとっては単なる男女交際の発展でしかない』――そう考えてみると、あながち悪い展開ではないような気もした。プライムが言っていたように白坂はあくまでもこの世界の篠崎慶一を、一人称が「俺」のワイルドな篠崎慶一を愛していたのだ。優遊不断な「僕」なんかではない。とどのつまり、僕は彼らの交遊に関与すべきではないのだ。彼らが将来結婚しようと破局しようと、僕の知ったことではない。本音を言えば、白坂には篠崎慶一以外の男と幸せになってもらいたいけれど。……


 その後、篠崎は東川瀬高校の制服や教科書類など学校関連のものを全て、自分自身の閨からプライムの寝間へ移動させた。まだリビングで酒を飲んでいるのかプライムの寝室に彼の姿はなかった。

 その作業を終え、少々広くなった自分自身の閨へ戻った途端、解放感に似た喪失感(あるいは喪失感に似た解放感)が篠崎の胸中を支配した。これからはもう白坂のことで思い煩わなくて済むし、顔を合わせる機会もなくなる。のぞみと会えなくなるのは寂しいが、彼女とはいまだ気まずい関係のままだし、今更どうしようもない。


 これから、この世界でどう生きていくべきなのか。

 カーテンを開け、窓の外の黒陶々たる夜を見つめながら篠崎は途方に暮れた。

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