第五話「眼鏡を捨てた彼女の瞳に映るもの」
名もなき小さな公園で白坂と別れ、帰宅するともう一人の篠崎プライムは自分自身の寝室でだらだらパソコンを弄り、〈ドッペルゲンガー〉というハンドルネームで某巨大掲示板に書き込みをしていた。篠崎は苦笑を浮かべながらプライムの寝間を出て、篠崎自身の閨へ向かい、高校の制服から私服に着替えた。
篠崎自身の閨というのは、篠崎凛子の部屋のことである。姉が同棲を始めてから空室になっていたので、篠崎が勝手に使っている。このことから分かるとおり、家賃の安い東川瀬団地には寝室が二つしか付いていない。姉が帰宅したら篠崎はおそらく、リビングかプライムの部屋に布団を敷いて寝ることになる。
何だかまるで図々しい居候のようだな、と篠崎は思ったが苦笑いを浮かべることはできなかった。彼にとって、この世界の篠崎慶一宅はあくまでも他人の家なのだ――そのことを悟った瞬間、ふと前の世界の現在の様子が気になった。
前の世界の人々は篠崎慶一が失踪したことに気が付いているのだろうか。東京にいる姉はおそらく、まだ気付いていない。夕霧ヶ池で自殺未遂をする前にバイトを辞めていたので、薬屋の人たちも同じ。残るは高校関係者だが、今のところ「不登校」としか思われていないのではないだろうか。一人暮らしの人間が失跡してもなかなか気付かれないのは当然のことなのかもしれないが、それでもやはり彼はいささか侘しい気持ちになった。
プライムがバイト先に出掛けた後、篠崎はプライムの部屋に入り、勉強机の上に置かれていた黒色のノートパソコンを起動させた。プライムがいない間、篠崎は彼の部屋を自由に利用していいことになっている。篠崎は『久保』というユーザーアカウントでログインし――ちなみにプライムのアカウント名は『狼』で、姉のアカウント名は『リンリン』だった――ネットサーフィンを始めた。
動画サイトで音楽ゲーム〈pop’n music〉関連の動画を眺めていると突然、篠崎の携帯電話からいやに軽々しいクラシック音楽が聞こえてきた。携帯電話を開くと、白坂から一通の電子メールが届いていた。文中には無数のカラフルな絵文字が乱舞していて、漆黒の文字の部分も謳歌しているかのようであり、全体的に明るく華やかなメールだった。絵文字をほとんど使わないのぞみの質素なメールとは対照的で、正直、彼はこういう装飾過多なメールが苦手だった。絵文字が多用されていると嘘臭い文章に見えた。怒りマークやら泣きマークやらが文末についていると、本当に怒ったり泣いたりしているのかなと彼は訝しく思ってしまうのである。
肝心のメールの内容についてだが、要約すると次のようになる。
「あなたと付き合えて、とっても嬉しい。これからよろしくね。大好き(ハートマーク)。ねえ、今何してる?」
白坂は、やはり篠崎のことを「恋人」として認識しているようだった。そんな彼女に対して、自分は「友達」が書きそうな他愛もないメールを送らなければならない――なんて冷酷な作業なのだろうと彼は痛切に思った。激しい自己嫌悪に陥り、現実逃避したくなった彼は携帯電話の電源を切り、インターネットの世界に没入した。『この世界の篠崎慶一は現在バイト中なのだから、彼女への返信は後でいい。午後十時以降でいいんだ』と何度も自分に言い聞かせながら。
八時五十八分にパソコンをシャットダウンし、九時から〈偲びの空〉という連続ドラマを見た後、篠崎は風呂に入った。身体と毛髪を洗い、狭い浴槽に浸かりながら彼は今日の出来事を反芻していた。いや、反省といったほうが正鵠を射ている。彼女の告白を受け入れたりしないで、「気持ちは嬉しいけど白坂とは友達のままでいたい」ときっぱり言うべきであった。そしたら間違いなく気詰まりな関係になってしまっていただろうけれど、現状のような『見せ掛けだけの両思い』よりは誠実であるように感じられた。
――まあ、今更うだうだ言ってもしょうがない。それより白坂への返信メールの内容を考えなければ。
「返事遅れてごめん。さっきまでバイトだった(落胆を意味する絵文字を挿入)。こちらこそ、よろしくね」
少し素っ気ない気もするが、特に不自然ではないだろう。浴室を出てバスタオルで全身を拭き、下着を履いた後、篠崎は着替えと共に置いておいた携帯電話を手に取り、早速白坂にEメールを送った。
寝巻を着てリビングへ向かうと、いつの間に帰ってきたのかプライムの姿があった。プライムはソファーにだらりと腰掛け、缶ビールを呷っていた。法律を順守している篠崎は冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、ちびちび飲んだ。
「よう、僕ちゃん! ただいま、俺だよ俺。今日は学校どうだったんだ?」
もう酔っ払っているのか、プライムは普段以上に明るい口調で篠崎に話し掛けた。酔漢の相手などしたくなかったし、何となく本日の出来事をプライムに話したくなかったので――白坂と交際を始めたと言ったら、プライムが「軽い男だな」と詰ってくるような気がしたのだ――篠崎は適当に答えた。
「別に。何の変哲もない一日だったよ。パラレルワールドに入り込んだことで、一生分の刺激を味わってしまったのではないかと心配になるくらい退屈な日常だった」
「なんか嘘臭えなあ。本当は、何か良いことでもあったんじゃないのか?」
隠しても無駄だぞとでも言うように、プライムはにやにやと薄笑いを浮かべた。まさか、プライムは篠崎慶一が白坂に告白されたことを知っているのだろうか。もしや、あの名もなき小さな公園に二人きりでいるところを目撃され――いや、もしそうだとしたらプライムは夕方の段階でその話題を振ってきたはずである。でも、そのときプライムは黙々とパソコンのキーボードを叩いていたし、そもそもプライムが夕暮れ時に通学路付近をうろちょろ歩くとは思えなかった(二人の篠崎慶一が外で鉢合わせしたらまずいということくらいプライムは理解しているだろう)。
――にやにや笑っているのは、ほろ酔い機嫌のせいか。
そう結論付けた篠崎は、良いことなんて何もないよと言い捨ててプライムから逃げるようにリビングルームを後にした。つれない奴だなあというプライムの非難を尻目に自分自身の閨に入ると、今度は携帯電話が囂しく鳴り始めた。白坂から「お疲れ様! どこでバイトしてるの?」というような内容のメールが届いたのだ。それに対して彼は「企業秘密(笑)」と真顔で一行メールを送り返し、彼女は「ええ、なんでよー」と不満を漏らした。
そのような下らないメールの遣り取りを何度かした後、篠崎は大して眠くもないのに「おやすみ」メールを送信した。夜中にあまり長くメールを往復させていると、文面がどんどん甘ったるいものになっていくのではないかと懸念したのだ。往々にして、就寝前というのは人を淫靡にさせるものである。もしかしたらのぞみだって今頃、森繁とメールやら電話で愛を囁き合っているかもしれない。前の世界の彼女が篠崎に対して、「けいくん大好き」と言っていたように。
「司くん」と甘えた声を漏らしているのぞみの姿を想像して無性に切なくなった篠崎はふと、酒は憂いの玉箒という言葉を思い出したが、実際に飲酒するような真似はしなかった。法を犯す勇気など彼にはない。そんな肝っ玉の小さい彼のことを嘲笑うかのように居間のほうから泥酔したプライムの下手糞な歌声が聞こえてきた。曲は何故か、〈川の流れのように〉だった。彼は思わず微苦笑し、プライムが将来どんな人物になるのか少しだけ楽しみになった。
近所迷惑だからあまり大声で歌うなと注意しようかとも思ったが実行はせず、彼は静かにプライムの歌う名曲に耳を傾けた。
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あくる日の朝、白坂より先に登校するとショートカットの似合う高身長の美女、北吹佳奈が篠崎の席に近付いてきた。人間不信なのか何なのか知らないが、北吹の目付きはいつも鋭く、白坂など極一部の限られた人の前でしか目元を緩めない。北吹と一度も話したことのない僕がその極一部に含まれていないのは言うまでもないが、もしかしたら「白坂麻耶の彼氏」ということで物腰を改めてくれるかもしれない――そんな篠崎の安易な予想を射殺すかのように北吹は彼を睨め付けた。
「あんたに一つ忠告があるんだけど」
北吹のその口調があまりにも冷厳だったものだから篠崎は一瞬、忠告ではなく〝警告〟と言われたのではないかと本気で自分の耳を疑った。
忠告とは何なのか、彼が畏縮しながら尋ねると彼女は篠崎の痛いところをぐさりと突いてきたのだった。
「まさかとは思うけど、麻耶と軽い気持ちで付き合ったわけじゃないでしょうね。友達感覚とか、さ。……もし麻耶のこと泣かせたりなんかしたら、ただじゃおかないから」
篠崎が何も言い返せずにいると北吹は「話はそれだけ」と呟いて、正しい姿勢のまま悠然と自席のほうへ戻っていった。その後ろ姿を見て、彼は改めて彼女が義を重んずる剣道部員であることを思い出した。竹刀(あるいは木刀)を持った彼女にしばかれる場面を想像して、マゾヒスティックでない彼は思わず身震いした。
登校してきた白坂と視線が合った瞬間、篠崎は我が目を疑い、それと同時に彼女がこの恋に対してあくまでも本気なのだということを思い知った。メガネっ子を卒業した彼女が浮かべた笑みはどことなく妖艶で、それを向けられた彼はひどくどぎまぎとしてしまった。
「おはよう、慶一くん。えへへ、眼鏡やめてコンタクトにしちゃった。どう、似合ってる?」
「コンタクトレンズに似合うも何もないだろう」
「あたしが聞きたいのはそういうことじゃないの! 感想が知りたいな」
「悪くないと思うよ」
「何それ、特段良くもないってこと?」
篠崎の婉曲な褒め言葉が気に食わなかったのか、白坂は頬を膨らませた。彼は慌てて別の言葉を探した。
「いやいや、そういう意味じゃないよ。前より今のほうが愛らしいと思う」
すると白坂は途端に頬を緩め、コンタクトにして良かったと呟くように言った。そんな素直な性格の彼女を見て、彼はますます自分の性格が嫌いになった。
白坂が親友の北吹のもとへ向かった後、のぞみの席のほうに目を遣ると彼女はいつもどおり静かに読書に没入していた。白坂が眼鏡を外したり篠崎と付き合ったりしたことなどどうでもいいとばかりに。
――いや、待てよ。そういえば、僕と白坂が交際したという事実は教室内のどこまで広まっているのだろうか。白坂が北吹に話したことは間違いないが、北吹がそれを他者に漏らしたかどうかは定かでない。もし漏らしていたら、その情報は凄まじい速度で教室の隅々まで伝播されたことだろうけれど、何となく北吹は口堅い性質であるような気がした。
いずれにせよ、のぞみの耳にその情報が入るのは時間の問題である。
篠崎が白坂と付き合っていると知ったとき、のぞみがどんな感懐を抱くのか、それを想像しただけで彼は鬱々とした。未来ののぞみが未来の篠崎に軽蔑の眼差しを向けている。現在の彼は思わず現在の彼女から目を逸らした。
午前の授業の合間の休み時間中、白坂は篠崎と付き合う以前と同じようにずっと北吹と歓談していた。どうやら白坂は異性の恋人より同性の親友を大切にするタイプのようだった。白坂と「友達」として交際している篠崎は別に何とも思わなかったが、彼女は彼が何かしら負の感情を抱いていると思ったのか、昼休みに「屋上で一緒にご飯食べようよ」と誘ったのだった。個食が嫌だった篠崎は――普段は謙哉と共に昼食を摂っているのだが、先述したように彼とは現在冷戦中である――白坂のその提案を快く受け入れた。
紅葉の季節ということもあり、屋上から見える風光は明媚だったが肌寒い秋風のせいか人はあまりおらず、篠崎と白坂を除くと六名の生徒(二組のカップルと女生徒二人組)だけだった。その中に見知った顔はなく、篠崎と白坂は彼らから離れた場所に座り、視覚と嗅覚と触覚で秋を満喫しながら食料で味覚を刺激した。ちなみに白坂のメニューは如何にも栄養バランスが整っていそうな小ぢんまりとした手作り弁当、篠崎は菓子パン三個だった。そんな軽食を見て、彼女は眉を顰めながら彼の聴覚を刺激した。
「慶一くんって、いつもそういう昼食だよね。夜はどういうものを食べてるの?」
「スパゲティーとかラーメンとか」
「まさか、コンビニの?」
「うん。いや、でも特に問題はないと思う。君は栄養価が良くないとか言いたいのかもしれないけれど、僕は至って健康体だし身長だってそこそこ」
「今は平気かもしれないけど、将来どうなるか分からないじゃない。それに、食生活が偏っていると鬱病になりやすいらしいよ。慶一くんは少しネガティブ過ぎる嫌いがあるから、あたし心配だな」
君のほうがネガティブなんじゃないかと言い返したくなったが、前の世界で首吊り自殺を図ろうとした人間の台詞ではないような気がしたのでやめておいた。
「慶一くんのお姉さんは料理とか……ああ、今は一人暮らしなんだっけ。自炊してないの?」
「料理は得手じゃないし、面倒だからしてない」
「ふうん。それなら、あたしが夕食作ってあげようか?」
ペットボトルの緑茶を飲みながら話を聞いていた彼は思わず噎せ返り、白坂から顔を背けて何度も咳をした。
「夕食って……君は、通い妻か」
「な、何言ってんの!?」白坂の顔が見る見るうちに赤らんでいった。「あたしはただ、あなたの食生活を心配しただけで」
「分かってるよ。気遣ってくれてありがとう。でも、君に夕食を作ってもらうわけにはいかないよ。というのも、僕は午後六時から十時までバイトしているから夕食は大抵五時くらいに済ませてしまうんだ。その時刻、君は部活中だろう? だから別にいいよ」
無論、アルバイトをしているのはプライムのわけで、やろうと思えば篠崎は白坂が作ってくれた夕食を御馳走になることができるわけだが、それは何だかあまりにも熱愛しすぎているような気がして嫌だった。
「部活のことなんだけどね」と彼女はいささか暗い表情を浮かべながら言った。「実は、そろそろ退部しようかと思ってるの。だから時間なら空いてるよ」
「部活で何かあったのか?」
「うん、まあ色々ね。三年生が引退してから部室内の人間関係が少しぎすぎすしているの。詳しいことはあまり言いたくないのだけれど……」
「別に無理して言わなくてもいいよ。何となく、想像はつくから」
これは短絡的思考なのかもしれないが、もしかしたら白坂は吹奏楽部の同輩から何かいじめのようなものを受けているのかもしれない、と彼は思った。性格の良い彼女がいじめられる原因など皆目見当が付かなかったが、性格の悪い加害者側の人間からしてみれば、それ相応の(あるいは不相応の)理由があったのだろう。
――いずれにせよ、いじめというのは厄介な問題だ。解決法なんて基本的に「反抗」しかない。いじめっ子に悪口を言われたら毅然たる態度で即座に言い返し、暴力を振るわれたら瞬時にやり返す。そういう抵抗を地道に続けていれば数日でいじめの標的は自分以外の他者に移り変わるはずだ。とはいえ、白坂のように温厚で非攻撃的な人間の場合、「反抗」ではなく「逃避」を選択してしまう。サボタージュ、退部、登校拒否、自殺。個人的には前者の二つに関しては何ら悪いことではないと思う。この高校の帰宅部員の数は決して少なくないし、そもそも高校生の本業は部活動でも恋愛でもなく勉学なのだから。
前の世界のように恋愛に溺れてしまわないよう気を付けながら、彼は慎重に言葉を紡いだ。
「退部か。そういえば僕も一年ほど前パソコン部を辞めたけど、噬臍の悔いなんて微塵もなかったな。むしろ、清々したというか何というか。いやいや部活を続けていてもストレスが蓄積されるだけだし、退部あるいは転部するのがベターなんじゃないかな」
「転部したら変な目で見られそうな気がするけど……まあ、色々と考えてみる。とりあえず今日は部活サボるつもりだから夕食作ってあげるね」
「いや、そういうわけにはいかないよ」彼は少しく狼狽えながら答えた。「家の中散らかっているし、それに君とは」
「ねえ、さっきから気になってたんだけど、君っていう呼び方やめてくれない? その代名詞、苦手なの」
「ごめん。白坂さんとは」
「麻耶って呼んで」
「……麻耶とはまだ付き合って間もないし、夕飯を御馳走になるのは気が引けるよ」
「じゃあ、お昼御飯作るのは? それもダメ?」
ダメだ、と言い掛けて彼は慌てて口を噤んだ。これ以上、白坂の好意を踏み躙るのが躊躇われるほどに彼女の表情はうら寂しげだったのだ。北吹の〝警告〟が頭を過ぎり、彼は溜め息を漏らした。
「ダメじゃないけど、弁当作るの手間暇掛からない?」
「ううん、全然。一人前のお弁当を二人前に増やすくらい朝飯前だよ!」
「ということは、しら……麻耶はいつも自分で弁当作ってるんだ。料理上手そうだな」
「えへへ、そんなことないよ。ああ、どんなメニューにしようかな」
屈託のない笑みを浮かべる白坂を見て、彼は安堵すると共に胸がずきりと痛んだ。それはあながち前の世界ののぞみに対する罪悪感のせいではなく、白坂のその表情に初恋の人の面影を見出してしまったせいかもしれない。
まさか、僕は彼女のことを異性として好きになりつつあるのだろうか。
頭を振って懸命に否定してみるものの、根底から覆すことは難しかった。篠崎は再び自己嫌悪に陥った。自身を憎むたびに白坂を愛おしく思ってしまうという悪循環に全く気付かぬまま。
「慶一くんは、屋上と教室、どっちで食事するのが好き?」
篠崎より数分遅れて完食した後、白坂は遠い目をしながらそんな質問を口にした。彼女の視線の先にある色鮮やかな木々たちはどことなく誇らしげで、あたかも彼の回答を既に知っているかのようだった。
「それはもちろん屋上だよ。見晴らしが良いし、人が少なくて落ち着くし。寒いのが玉に瑕だけど」
「やっぱり、そうだよね。あたしも同意見。というより、教室で食べたくないだけなのかも。この学校ってカップルが少ないから絶対あたしたちのこと冷やかしてくるでしょ、あの人たち。それに」
「それに?」
「人前でイチャイチャするの、あたし好きじゃないんだ。もしもクラスメートの中に慶一くんのこと好きな子がいたら、その子を傷付けることになる。そうでしょう?」
前の世界において、のぞみと教室で和気藹々と昼食を摂っていた彼は何も答えられなかった。
「だから、教室ではあまり彼女っぽく振る舞えないかもしれない。それでもいい?」
「別に構わないよ。秘密主義も悪くない。ただ、もし知り合いが昼休みに屋上に来たらあっという間にばれると思うよ」
「それはそうだけど……でも、他に良い場所ないから」
どうやら、彼女の中に「昼食を共にしない」という選択肢はないらしい。そこまでして隠し通したいというわけでもないのだろう。この世界ののぞみに嫌われたくない彼としては正直、白坂との関係はひた隠しにしておきたかった。嫌な言い方をすれば、彼は二匹の白猫を追い掛けていたかったのだ。二股を掛けるという直接的行為とはまた別の意味合いで。
優柔不断ほど、残酷な優しさはない。
そんな風に思いながら、彼は天を仰いだ。秋の空には、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。