表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グッバイ・パラレルワールド  作者: 厳島みやび
3/14

第三話「愛すとアイス」

 ――僕がのぞみに告白して失敗したことが教室中で面白おかしく話されてたら嫌だな。


 あくる日の朝、篠崎は『学校用』の携帯電話を制服のズボンの左ポケットに突っ込み、憂鬱な思いを右ポケットに仕舞って、遅々とした歩みで東川瀬高校へ向かった。

 朝のSHRの本鈴が鳴る直前に二年二組の教室に入ると、既に他のクラスメート三十九名は登校していて思い思いのことをしていたが幸い篠崎の噂をしている生徒は皆無だった。謙哉も白坂も彼に対して普段通りに接してきたし、彼に不躾な視線を向けながらひそひそと話す輩もいなかった。のぞみが口軽い性格ではないのか、はたまた昨日のことを吹聴する友達がいないのか――おそらく両方だろう――とにもかくにも彼は堵に安んじた。


 SHRの間、篠崎は担任の間宮先生の話を聞き流しながらのぞみのことを眺めていた。彼女はシャープペンシルを指先で器用に回しながらぼんやりと虚空を見つめていて、何か物思いに耽っているようだった。彼女が大好きな三角柱形のチョコレート、〈トブラローネ〉のことを考えているのかもしれないし、あるいは森繁司のことでも考えているのかもしれない。篠崎は読心術を習得しているわけではないので確証は持てなかったが、少なくとも彼のことは考えていないような気がした。


 のぞみの掌の中の回転木馬に見入っているうちに、篠崎はふと前の世界ののぞみと二人きりで遊園地へ行ったときのことや彼の部屋で一緒にテスト勉強をしたときのことを思い出した。この世界ののぞみと違って、彼女はいつも幸せそうに微笑んでいた。加速度的に過去と現在が転回していき、メリーゴーランドはいつしか彼の大嫌いなコーヒーカップへと豹変した。神経系と三半規管が癲狂てんきょうの沼に沈んでいく中で、彼はただただ迫りくる嘔気と戦っていた。


「今日の間宮先生は、やけに綺麗な気がしないか?」

 朝のHRが終わった直後、謙哉が篠崎の席に近付いてきた。

「いきなり何なんだよ。また、いつもの冗談か?」

 それにしては例の癖をしておらず、どうやら本音のようだった。

「馬鹿な、僕は至って本気だよ。求婚したいくらいさ」

「はいはい、流石にそれはジョークだろう。というか、ずっと前に北吹さんのことが好きだとか言ってなかったっけ?」


 よくよく考えてみると、それは前の世界の謙哉が言っていたことだったが特に問題はあるまい、と篠崎は思った。おそらく前の世界の謙哉と、この世界の謙哉は同一の嗜好を持っているのだろうから。


「そんなこと言ったかな? まあ、いつもの空言だよ。僕は北吹佳奈なんか好きじゃない」

 謙哉は勘違いされて心外だとでも言いたげな表情を浮かべていたが、それと同時に眼鏡のブリッジの部分を指で押し上げる動作もしていた。つくづく彼の感情表現は素直じゃない。

 その瞬間、何故だかハンムラビ法典の一節が篠崎の脳裏を過ぎった。無論、「目には目を、歯には歯を」というのは復讐を推奨する意味合いではなく罪刑法定主義が趣旨なのだがここでは敢えて誤用する。とどのつまり何が言いたいのかというと、篠崎は謙哉に対して嘘をつき返したくなったのだった。


「そうなのか、それは残念だ。北吹さんは君のことが好きだというのに」

「ええ、マジで!?」

 謙哉のその砕けた言い方が何だかやけに可笑しかったものだから、篠崎は思わず吹き出してしまいそうになった。それをどうにかこうにか我慢しながら、彼は重々しい口調で嘘を続けた。

「ああ。でも、彼女の片想いで終わりそうだな」

「いやいや、勝手に終わらせるなよ。今度、告白でもしてみようかな」

「好きでもないのに?」

「……実は、好きじゃなくもない」

 謙哉にしては珍しく、本気で照れ臭そうにしていた。もちろん例の癖はしていない。

「最初から素直にそう言えばいいのに」

「うるさいな。はあ、やっぱり嘘はつき通さなければ意味がないね。またしても、醜い真実が顔を出してしまったよ」

「別に北吹さんを好きなことは、そこまで恥ずべきことじゃないと思うけど。なかなか美人だし」

「そういう意味じゃない。嘘をつき通さないという行為自体が、僕にとって醜行なんだよ。僕は嘘好き失格だな」


 謙哉が何を言っているのか凡人の篠崎にはよく分からなかったが、とりあえず謙哉が嘘に対して相当な信念を持っているということと自己嫌悪に陥っているということは分かった。

「まあ、これからは精進して嘘をついていくことにするよ」

「行いを慎んで身を清めるという意味合いで精進しろよ。それにしても、なんでそんなに嘘が好きなんだよ」

 一年前にも似たような質問をしたことがあったがそのときは適当にはぐらかされてしまい、具体的な回答は得られなかった。

 この世界の謙哉は、遠い目をしながら語り始めたのだった。


「まだ、僕が良くも悪くも純粋だった子供の頃――当然ながら無意味に嘘なんてついていなかった。それどころか食言を忌み嫌い、真実や核心にしか触れようとしない、ある意味残酷な児童だった……というのは誇張で、実際は単なる童蒙どうもうだったわけだけどね。ああ、そんな風に眉を顰めないでもらいたい。良い話というのは、六十パーセントの事実と二十パーセントの誇張と十パーセントのユーモアと五パーセントの……そんなことより、さっさと本題に入れって? はいはい。

 まあ、それらの要素を網羅した完璧な話であったとしても冗長だったら全てが台無しだからね。とにかく、僕は一般的な少年だった。八年前の夏、胃癌で入院した祖母を見舞いに行ったあの日まではね。


 僕はいわゆる、おばあちゃん子だった。共働きだったから祖母が僕を育ててくれたようなものだ。祖母は基本的に優しくていい人だったけれど、些細な嘘をよくついた。『ケン坊の大切にしてた玩具壊しちゃった』とか『実はおばあちゃんね、ケン坊の本当のおばあちゃんじゃないのよ』とか……つまるところ、祖母は人を驚かすのが好きだったのだろう。そんな嘘吐きの祖母に育てられたから僕も嘘好きになったのだ、と君は思うかもしれないがそれは浅慮というものだ。僕の性格が一変したのはあくまでも見舞いに行った日から……それまでは正直、祖母の空言に辟易していたし、嘘なんて無意味なものだとさえ思っていた。


 茹だるような暑い日、僕は両親に連れられて祖母の入院先を訪れた。ベッドの上の祖母の身体はいつもより小さく見えた。二親は『胃潰瘍なんてすぐ治る』などと言って祖母を元気付けていたけど――医師に『胃癌だということを悟られないように気を付けてください』と言われたそうだ――僕はただ黙っていることしかできなかった。あの頃の僕は嘘をつくのが下手だったものでね。だから祖母が突然、『ケン坊と二人きりにしてくれないかね』と言い出したときは肝を冷やした。おそらくは両親も。祖母の意思を尊重し、親が病室を出て行った後、祖母は弱々しい笑みを浮かべながらこう言葉を紡いだんだ。


『医者の先生も洋子(僕の母のことだ)も嘘が下手だねえ。本当は胃癌なんだろう? ケン坊。ああ、何も答えなくていいからね。ただ静かに話を聞いていなさい。ケン坊や、世の中にはね、真実よりも嘘のほうが遥かに多く存在している。どうしてだか分かるかい? それはね、真実があまりにも醜く残酷なものだからだよ。それを隠したくて皆、綺麗な嘘をつく。でもね、それはあながち悪いことじゃない。化粧を否定するなんてとんでもないこと。ただし中途半端な嘘は、途中で看破されてしまうような嘘は駄目ね。下手糞な化粧を施すくらいなら、すっぴんのほうがマシ。おばあちゃんはね、ケン坊がいつか天才的な嘘吐きになってくれることを願ってる。綺麗な嘘をつき通せば、それはやがて綺麗な真実に昇華する――この言葉を胸に刻んでおきなさい』


 それを聞いた当時小学生の僕は、何故か泣き出してしまった。あるいは祖母がどこか遠くへ行ってしまうのではないかと直感したのかもしれないな。そんな僕のことを宥めながら祖母は語を継いだんだ。

『ケン坊や、おばあちゃんはいなくなったりしないよ。まだまだ長生きする。病気なんてクソ喰らえじゃ』

 嘘吐きな祖母は、その日から一週間もしないうちに亡くなってしまった。それからかな、僕が嘘を好むようになったのは」


「……そんなことがあったのか。話してくれてありがとう。謙哉のことが少し分かったような気がするよ」

「それならよかった。こんな嘘八百でよければ、いつでも話すよ」

「え?」篠崎は自分の耳を疑った。「今の話、全て嘘だったのか?」

「うん。祖母はまだ生きているし、僕は別におばあちゃん子というわけではない」

「君のことがますます分からなくなってきたよ」

 しれっとした顔で言いのける彼に対して、篠崎は項垂れるしかなかった。


「ああ、ところで謙哉に一つ謝らなきゃならないことがあるんだが」

「何だろうか」

「嘘が好きなら怒らないでくれよ。さっき、北吹さんが君のことを好きだと話したけど、あれ実は真っ赤な嘘なんだ」

「……」

 謙哉は沈黙したまま、篠崎を睨め付けた。その瞬間、前者が爬虫類になり後者が両生類になったことは論を俟たない。ゲロゲロと鳴く余裕もなく、篠崎はただただ萎縮していた。

 すると突然、謙哉が満面の笑みを浮かべた。それはすなわち、彼が哺乳類に戻ったことを意味するわけだが残念ながら恐怖心はなくならなかった。彼の瞳の奥には、まだ残忍な蛇の姿があった。


「はは、そう恐がらないでくれよ。何せ、僕は全く憤激していないのだからね。むしろ、君が嘘吐きの仲間入りを果たしたことに感激さえしている。嘘というのはつくのもいいけど、つかれるというのも最高に清々しいものなのだね。いやあ、初めて知ったよ。これからもたくさん嘘をついてもらいたい。もしも君がまた嘘をついたら僕は君を好きになって、君がして欲しいことを何でもしてしまうかもしれないな。ふふ、まあ」

 ふっと、謙哉の表情から笑みが消えた。

「嘘だけどね」


 その後、篠崎と謙哉はかつてのソビエト連邦とアメリカ合衆国のように冷戦状態となってしまった。具体的には、篠崎のついた些細な嘘に憤慨した謙哉が彼のことを黙殺するようになったのだ。当然ながら彼は何度も謝罪したが、謙哉は全く許そうとしなかった。そんな謙哉の頑なな態度にだんだん腹が立ってきて、最終的には彼も謙哉のことを無視するようになったのだった。


 ――何が嘘好きだよ。単に、真実から目を背けているだけの腑抜け野郎じゃないか。


 篠崎はこの日、そんなような悪態を幾度となく心中で呟いた。確かに嘘をついたのは僕が悪かったが何もあそこまで怒ることはないだろ、と彼は思った。まさか、謙哉は北吹にぞっこん惚れ込んでいるのだろうか。だとすれば、なんて『恋愛』というものは恐ろしいのだろう。天才を凡才に、凡才を馬鹿に、馬鹿を天才に変えてしまう『恋愛』は、控え目に言えばトランプゲームの大富豪における革命くらいの恐怖であり、大仰に言えば天変地異ほどの恐怖であった。


 とまれかくまれ、篠崎はこの日ずっとむかむかしながら授業を受け、全ての課業終了後ただちに教室を退室した。初恋の人と気まずい関係になり、数少ない悪友と冷戦状態となった今、彼はあまり長く学校に居たくなかった。彼が思うに――あるいは一般論かもしれないが――勉強ばかりのしかつめらしい学校生活を面白おかしくするためには『友情』『恋愛』『部活』という三つの要素のうち、どれか一つ以上充実している必要があるような気がした。

 前の二つを失った彼に残っているのは『部活』だけだったが、帰宅部に充実も何もないだろう。高校一年のとき、謙哉に誘われてパソコン部に入部したこともあったが活動内容があまりにも高レベルだったので――HTML言語もろくに理解していない初心者の篠崎にとって、ゲーム作成やアプリケーション作成は難行苦行でしかなかった――数ヶ月で退部してしまった。

 ちなみに謙哉はというと、現在パソコン部部長として更に高度な作業を進めている。天才と凡才の差を改めて思い知った彼は小さく舌打ちをし、昇降口の自分の下駄箱を乱暴に開けた。


「ねえ、今日はどうしてそんなに不機嫌そうなの?」

 背後から突然声を掛けられ、篠崎はいささか驚いた。振り向くとそこにはスクールバッグを肩に掛けた白坂の姿があった。彼女の親友で、剣道部員の北吹の姿はない。

「別に。機嫌悪くなんかないよ」下駄箱から取り出した靴を履きながら、篠崎はぞんざいな口調で答えた。「そんなことより白坂、部活出ないのか? 吹奏楽部だっただろう」

「今日はちょっと、サボタージュ。あ、そうだ。たまには一緒に帰ろうよ」

「せっかくだけど、今日は一人で帰りたい気分なんだ。だから」

「ねえ、倉本さんと何かあったの?」


 マイペースな性格の白坂は篠崎の言葉など無視し、黒革の靴を履きながら疑問を口にしたのだった。できれば篠崎も彼女のことを黙殺したかったが、その質問はどうしても聞き捨てならぬものだった。

「何故、ここで倉本さんの名前が出てくる? もしかして、何か噂にでもなってるのか」

「詳しいことは帰り道で教えてあげる」

 そう言って、白坂は篠崎より先に昇降口の外へ出た。どうやら彼女は孤独主義者を気取る彼のことが気に食わないようだった。


 昇降口を抜けて篠崎は早速、白坂にのぞみのことを尋ねてみたが、彼女は「もう少し落ち着いた場所で話す」と言ったきり黙り込んでしまった。彼の右隣りを歩く彼女の表情は固く、何だか思い詰めているようにも見えた。

 そんな白坂の表情が少しずつ和らぎ始めたのは、東川瀬高校から徒歩一分ほどの所にあるコンビニエンスストアに立ち寄ってからだった。倹約家(ケチともいう)の篠崎は特に何も購入しなかったが、白坂はアイス〈雪見だいふく〉を買っていた。ちなみに、果実いちご味である。バニラ味しか食べないと決めている彼にとって、それはいささか邪道であるように思えたが断じて不味そうには見えなかった。

 CVSから外に出るや否や白坂はそのアイスの袋を開け、中に入っていたプラスチックの楊枝をほんのり赤みがかった餅の一つに突き刺した。どうやら彼女は餅が柔らかくなるのを待たずに食べるタイプのようであった。


「なあ、少し時間を置いたほうが良いんじゃないか? 雪見だいふくは、溶けかけが一番美味しいよ」

 そう指摘してみたが白坂は聞く耳を持たず、「待ってなんていられないもん!」と力強く言い放ったのだった。


 ――そういえば、のぞみも雪見だいふく好きだったな。


 篠崎はふと、前の世界ののぞみのことを思い出した。彼女の食べ方は白坂と真逆だった。餅が柔らかくなるまで待ち、それを伸ばして食べていたのだ。彼女はそのとき必ず目を瞑って、心底幸せそうな表情を浮かべていた。その表情は、雪見だいふくのコマーシャルに出演しているタレントのそれよりも遥かに愛らしく、彼の目の保養になった。考えてみると、恋愛というものはアイスに似ているような気がする。やがては溶けてなくなってしまう、甘美なアイスに。

 過去の氷菓の残骸が篠崎の心に冷水として滴り落ちてきた。彼はそれを拭うように、現在生きている人物に話し掛けた。「寒いね」だったか、「店内に飲食スペースを設ければ良いのにね」だったか、詳しいことは何も覚えていないが、とにかくそんなようなどうでもいいことを彼は明るい口調で言ったのだった。


 篠崎が本当は落ち込んでいることに気付いたのか、白坂は雪見だいふくの一つを楊枝で刺し、それを彼に手渡した。

「あたし、ダイエット中だから!」

 白坂がくれた、果実いちご味の雪見だいふくを篠崎は今まで一度も食べたことがなかったはずなのに、何故だかそれはとても懐かしい味がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ