第二話「本と嘘」
不意に誰かに肩を叩かれ、篠崎が振り向くと、そこには銀縁の眼鏡を掛けたインテリ然とした男が立っていた。篠崎の数少ない友人の一人、成田謙哉だった。
「今日はやけに早いね。いつもは本鈴ぎりぎりなのに。どういう風の吹き回し?」
「僕だって、たまには早起きくらいするさ」
「僕? 一人称を変えたのか?」
「ああ、うん」
「ふうん? 何だか、いつもの君らしくないな」
心なしか、謙哉の眼鏡の奥の眼光が鋭くなったような気がした。どうやら、彼の直感と洞察力はこの世界においても鋭敏なようだった。篠崎は精一杯動揺を押し殺しながら、そんなことないよと短く否定した。
「いや、どことなくおかしい。ははん、さては今朝のニュースを見て落ち込んでるんだろう」
「今朝の?」
「水無月水織が作家の神木源次郎と婚姻したってニュースだよ」左手の中指で眼鏡のブリッジの部分を押し上げながら、謙哉はそう言った。
「え、ああそうなんだ」
「何だ、反応薄いなあ。みおりんのファンだろ?」
「いや結構驚いているし、ショックだよ」
後半部分は嘘だが、驚いたというのは本当だった。あんな偏屈な年寄り作家がよくアイドルと結婚できたものだ――そんな風にしみじみ考えているうちにふと、友人の〝悪癖〟を思い出し、篠崎は冷ややかな口調で言った。
「何だ、いつもの嘘か。相変わらず君は嘘吐きだな」
「嘘吐きじゃない。嘘好きだ」
悪びれもせずにそう嘯く謙哉は学年一の嘘吐きであり、〈嘘の天才〉という異名を持っているほどである。ただし、天才的に嘘が上手いという意味ではない。彼は本当に天才なのだ。県内一の進学校として有名な東川瀬高校にトップの成績で入学し、高校最初の中間考査で主要五教科満点という快挙を成し遂げ、それからの定期考査でも首席の座を守り続けている。そんな彼のことを単なる秀才だという人も中にはいるが、篠崎を含む大多数の生徒は彼を天才として捉え、一目置いていた。
――とはいえ、謙哉の嘘に関しては簡単に見破ることができる。というのも、彼は嘘をつくと必ず眼鏡のブリッジの部分を指で押し上げるからだ。一説によると人間は嘘をつくとき、無意識に唇を強く結んだり、自身の顔のパーツや髪の毛を触ったり目を逸らしたりするそうだ。あるいは彼のその癖もそれらと何か関係があるのかもしれない。
謙哉は肩を落としながら、やれやれと呟いた。
「今回の嘘は、少々分かりやすかったかな。何しろ彼女はまだ結婚適齢期ではないからね」
「というか、みおりんがあんな捻くれた作家と付き合うわけないだろ」
「それは御尤も」
彼らは、大いに笑った。
謙哉が自席に戻っていった数分後、篠崎の右斜め前の席の女生徒、白坂麻耶が登校してきた。彼女は席に着くと、手に携えていた黒革のスクールバッグを机上に置き、その中から一枚のCD――Sweet Vacationの〈Cover the Vacation!!〉というアルバムを取り出した。
「貸してくれてありがとう。八曲目のリミックス凄いね」
白坂はそんな感想を述べながら、篠崎にそのCDを渡してきた。どうやら、この世界の篠崎プライムが彼女にそれを貸していたようだ。篠崎と彼女は同じ中学出身で、趣味もそこそこ合うので比較的心安い間柄であった。こんな風にCDを貸借することもあれば、互いに相談役になったりすることもある。
昨年の四月、すなわち東川瀬高校入学早々、篠崎がクラスメートののぞみに一目惚れしたときも白坂は親身に彼の相談に乗り、そればかりか会話する機会を何度か設けてあげたりもしていた。白坂は地味な眼鏡を掛けていて、正直なところ容姿はあまりぱっとしないのだが性格はすこぶる良かった。
「ねえ、あたしが貸したCDはどうだった?」
「CD?」篠崎はいささか狼狽しつつ、白坂に聞き返した。
「Aira Mitsukiのファーストアルバム。まだ聞いてないの?」
そのアルバムなら篠崎は数ヶ月前、以前いた世界の白坂から借りたことがあった。
「いや、それならちゃんと聞いたよ。正直、最初はボーカルの声に対して違和感を覚えたけど何回か聞いているうちに慣れてきたな。個人的には〈チャイナ・ディスコティカ〉とか〈イエロー・スーパーカー〉とかが好きかな。ああ、あと曲名は忘れたけど四曲目と十曲目も」
「〈Darling Wondering Staring〉と〈Beep Count Fantastic〉ね」英語が得意な彼女はやけに綺麗な発音で言った。「後者はちょっと変わった曲だよね。どことなくノイズミュージックっぽいし、ひどく暗鬱な部分もあるし。あたしはあんまり好きじゃないな」
「ノイズというのは大仰な気もするけど、まあ好みは分かれそうだね。それはそうとSweet Vacationのアルバムは――」
篠崎と白坂のテクノ談義は、その後SHRの予鈴が鳴るまで続けられた。いや、より正確に言うなれば「予鈴が鳴り、北吹佳奈という女生徒が登校してくるまで」だった。
北吹が教室に姿を現すと白坂は彼との会話を切り上げ、彼女のほうに笑みを向けた。白坂と北吹は親友同士である。彼女たちは白坂の席付近で歓談を始めたが、篠崎は口を挟めなかった。彼と北吹は、さして親しくない。
彼はふと、廊下側の後ろから二番目の席に視線を向けた。のぞみはその席に着き、何故だか彼のほうをじっと見つめていたが目が合うとすぐに視線を逸らし、机の中から何やら書物を取り出した。彼女が読書に没頭してしまう前に先刻の自身の本能的な行動について謝ろうと思い立ち、彼は慌てて彼女の席へ向かった。
「あの、のぞ……倉本さん。さっきはごめん。その、いきなり、あんなことして」
「……」
のぞみは篠崎を無視したまま、石川達三の小説を読み進めていた。こういうときの彼女は、怒っているか拗ねているかのどちらかである。彼女のか細い指先が書籍のページを捲るたびに彼は居た堪れない気持ちになり、その文学的な挙措によって生じた音が如何に『個人的』なものであるのかということを強く再認識した。
「えっと、その、倉本さん」
「話し掛けないでください。読書の邪魔です」
のぞみは相当怒っているようで、取り付く島もなかった。がっくりと肩を落とし、篠崎がすごすご去ろうとすると彼女は何を思ったのか、待って、と声を掛けてきた。
「放課後、一本木公園に来てください。そ、その……訊きたいことがあるので」
のぞみがそう言い終えた瞬間、朝のHRの本鈴が校内に鳴り響き、担任の間宮先生が教室に入ってきた。篠崎はのぞみに対して小さく頷き、自席へと戻った。そのとき、すごすごという副詞が消滅していたことは言を俟たない。
――それにしても話し合いの場に一本木公園が選ばれるとは、何て奇妙な巡り合わせだろうか。何しろ、そこは僕が前の世界ののぞみに告白をした記念すべき場所なのだから。
授業中も休み時間中も、ずっとのぞみのことや放課後のことを考えていたものだから教師や嘘好きや、眼鏡が全く似合っていないメガネっ子の話など全く以って耳に入ってこなかった。そんな、ぼんやりとした時間の流れはやけにゆっくりとしていて、篠崎は一刻千秋の思いで放課後を待ち続けた。校内で手っ取り早くのぞみと話を済ませてしまうという手もなくはなかったが、それは何だか浪漫に欠けるような気がしたのでやめておいた。
その日の課業が全て終わった後、帰宅部の篠崎はまっすぐ一本木公園へと向かった。一本木公園とは夕霧ヶ池の近傍にある公園のことで、その名のとおり中央に一本の太い木が聳り立っている。ちなみに一本木公園というのはあくまでも俗称で、正式名称は仙野公園というのだが後者で呼ぶ者はほとんどいない。
人っ子一人いない寂れた一本木公園に足を踏み入れた篠崎は、入口付近にある錆びれていないベンチに腰掛けて(この公園の奥にもう一つだけベンチが設置されているのだがそちらは錆びれている)、思惟に耽った。
――のぞみが何を訊ねてくるのか、そんなことは既に分かっている。何故、図書室であんな非常識な行動を取ったのか? 問題は、それに対して何と答えるべきなのかということだった。適当にはぐらかすべきなのか、正直に答えるべきなのか。無論、倫理的に良いのは後者である。しかしながらそれはリスクを有するものであり、下手をすると僕は多大な精神的打撃を受けることになるかもしれない。かといって前者は前者で、これまた難しい方法であるし。
二十分経っても、その堂々巡りは終わらなかった。それに加えてのぞみも現れないものだから、篠崎はいささか不安になってきた。彼女に約束をすっぽかされたのではないかという意味ではなく、彼女の身に何かあったのではないかという懸念である。この世界ののぞみが前の世界の彼女のようにはならない、という保証はどこにもなかった。
結局のところ、それは彼の杞憂に終わった。のぞみを探しに行こうかどうか考えているうちに、ひょっこりと彼女が公園に姿を現したのだ。彼女は苦しそうに肩で息をしていて、どうやらここまで走ってきたようだった。
「遅くなって、ごめんなさい。その、掃除当番で……」
あまりにも弱々しいのぞみの声を聞いて、篠崎はまたもや彼女のことを抱き締めたい衝動に駆られたが、胸中の理性的な自分がそれを制した。
「ううん、別にいいよ。倉本さんが掃除当番だってことは知ってたし、僕もついさっき来たばかりだから。それより座って息整えなよ」
篠崎は咄嗟に嘘をついた。のぞみは小さく首肯し、彼の左隣りへ腰掛けた。そのとき、ふと黒田三郎の詩『そこにひとつの席が』を思い出し、彼はいささか複雑な気持ちになった。
数回深呼吸をした後、彼女はまだ少し火照った顔を彼のほうに向けた。
「こんなところに呼び出したりしてごめんなさい。学校だと少し話しづらいような気がしたから……」
「何も謝ることじゃないよ。むしろ、こういう機会をもらえて僕はとても嬉しいし。ありがとう、僕なんかと話す気になってくれて。それはそうと、今朝は本当にごめん。あのときはどうかしていた――なんて言うと語弊が生じるかもしれないけど、とにかく少し気分が高揚していて、その、なんて言えばいいのかな。僕の世界観が間違えていたというか、その」
「もういいです。大体、分かってますから」篠崎のしどろもどろな弁解を彼女は極めて冷たい語調で遮ったのだった。「要するに、私のことを他の誰かと間違えて抱きついたってことでしょう?」
「それは違う! 全く以って違うよ。僕は別に近眼じゃないし、そもそも間違える相手なんていないし」
「じゃあ、どうしてああいうことしたんですか?」
自分を見つめる彼女の眼差しがやけに真剣だったものだから、篠崎はどうしようもなく緊張してしまった。けれども彼は彼女から目を逸らしはしなかった。彼女から視線を外したら何もかもが消極的なベクトルに向いてしまい、彼女のその質問に対して嘘の答えを述べてしまうような気がしたのだった。
はぐらかしたくない。まして、自分の気持ちに嘘なんてつきたくない。
先程、数十分も堂々巡りをしていたのが嘘のように彼はそう強く思っていた。意を決して、彼女に真実の言葉を伝えた。
「好きだから、倉本さんのことが好きだからだよ。もちろん、だからといって抱きついたりしていいというわけではないのだけれど、どうにも自制することができなかったんだ。第三者から見れば、僕は色々と駄目な人間なのかもしれない。でも、そのくらい僕は君のことを真剣に想ってるんだ」
それを聞いたのぞみは途端に目を丸くさせ、顔を伏せた。彼女のその反応には見覚えがあった。篠崎が一年前の七月に前の世界で告白したとき、彼女はそれと似たような反応を示していたのだ。
――もしかすると、歴史は繰り返すということなのだろうか? だとすれば、僕はのぞみとまた交際することが。
しかしそんな彼の淡い期待は、のぞみの弱々しい一言によってあっさりと打ち砕かれてしまったのだった。
「ごめんなさい」
力なく項垂れた彼を見て、のぞみは慌てて語を継いだ。
「あ、でもね。別に篠崎くんのこと嫌いってわけじゃないから。ただ、既に付き合ってる人がいるんです」
「……誰?」
連撃を食らった篠崎は、自分でも分かるくらい沈んだ声で尋ねた。そんな彼の意気阻喪した様子に驚いたのか、彼女はおずおずと答えた。
「一年前、神奈川に転校していった司くんのことを憶えてますか? 実は、転校する前に彼から告白されたんです」
「司って、森繁司のこと? 確か、夏休み前に転校していった」
「はい」
その瞬間、篠崎はある重大な符号に気が付いた。先述したように、彼が前の世界でのぞみに告白をしたのは去年の七月である。そして、森繁がこの世界でのぞみに告白をしたのも去年の夏季休暇の直前――すなわち七月なのだ。これはつまり、この世界の篠崎プライムがのぞみに告白をしなかったために、森繁が代わりに告白をしてしまったということなのではないだろうか。
篠崎慶一が「何か」をしなかった世界では、他の誰かが代わりにそれを行う。もしかしたらそれがパラレルワールドの掟なのかもしれない、と彼は思った。あるいは、誰ものぞみに告白をしない世界というのも何処かに存在するのかもしれないが。
――それにしても、森繁司か。クラスメートではあったものの、さして話したことがないのでどうにも印象が薄い。とはいえ、悪い奴ではなかったような気がする。無論、だからといって森繁とのぞみの遠距離恋愛を応援する気になどなれるわけもないし、むしろ彼のことが憎々しくさえ思えるが今更どうすることもできなかった。彼らはおそらく、かつての僕とのぞみのように真剣な交際をしているのだろうし、そうだとすれば異世界の僕がそこに入り込む余地など一ヨクトメートルだってないのだろう。
そう、僕は異世界の存在なのだから、この世界ののぞみに積極的に干渉すべきではないのだ。彼女を陰から見守り、彼女の幸せを願うことこそが最善の行動に違いない。彼女が生きているということだけで奇跡なのだから、それ以上を望むのは貪欲というものなのではないだろうか。とどのつまり、僕は彼女に振られて良かったのだ。
精神の深海に沈んでいた篠崎は、その水圧に押し潰されないためにも必死に自己正当化をしたのだった。
のぞみと一本木公園で別れ、蹌々踉々たる足取りで帰宅した後、篠崎は本日の出来事をプライムに掻い摘んで話して聞かせた。それはすなわち彼とのぞみの間に起きた事柄を赤裸々に語ったということになるわけだが、話し相手が自分自身だからなのかそれほど羞恥心を抱きはしなかった。最初、プライムは居間のソファーに座って携帯型ゲーム機を操作しながら適当に話を聞いていたが、途中から指の動きが鈍くなり、最終的には完全に静止した。
「おいおい、俺と倉本さんはろくに話したこともないんだぞ。そんな女にいきなり抱きつくとか、普通だったら大問題に発展してるところだぜ? 倉本が事を荒立てなかったから良かったものの。いやはや、しかし本当にお前は彼女のことが好きなんだな。俺は、お前みたいな純愛は経験したことがないから少し羨ましいよ。まあ、自殺を思い立ってしまうというのは極端な気もするが。もしかして彼女に振られたから自殺しようとか考えてるんじゃないだろうな」
「流石にそんなことで死のうとは思わないよ。振られたのは確かにショックだったけれど、彼女が幸せならそれで充分だ」
「ならいいんだけどな。何があっても、もう自殺とか考えるなよ? 例えば、この世界の彼女が亡くなって――」
「縁起でもないことを言うな!」
篠崎が声を荒げるとプライムは慌てて携帯ゲーム機の電源を切り、すまん、と小声で言った。その後、プライムは黒いショルダーバッグを持って、室内に流れた気まずい空気から逃れるように外出したのだった。
現時刻は午後五時三十九分、おそらく彼はバイトに出掛けたのだろう、と篠崎は考えた。プライムは某ドラッグストアで週五日、午後六時から四時間働いている。一人きりになったところで篠崎は大きく溜め息をつき、プライムとあまり性格が合っていないことに改めて不安を覚えた。
数十分後、篠崎はプライムのバイト先から離れた場所にある家電量販店を訪れ、携帯電話を新たに一つ契約した。これで、篠崎慶一名義の携帯電話が二つになったということになる。水無月水織が待ち受け画面になっている真紅色の携帯がプライムのもので、本日購入した群青色の携帯が篠崎のものだ。前者を『仕事用』、後者を『学校用』と言い換えてもいい。
今夜プライムが帰宅したら、前者の携帯から後者のそれに電話帳のデータを送ってもらい、『学校用』の携帯からメールアドレス変更のお知らせを東川瀬高校の知人に一斉送信するつもりだった。そうすれば高校関係者からのメールは『学校用』で、バイト関係の人や別の高校に通う中学の頃の友人、実姉からのメールは『仕事用』で受信することができる。篠崎とプライムの二人で一つの携帯電話を共用するという案もなくはなかったが、それはプライムによって却下されてしまった。彼曰く、「アイデンティティーを確立したい」とのこと。
ちなみに、前の世界で篠崎が使用していた真紅色の携帯電話は――夕霧ヶ池で首を吊ろうとした日、篠崎はそれを自室の机の上に置いたのだが――この世界に転移しなかったようで、家の中を隈なく探しても見つからなかった。その携帯電話にはのぞみの写真や彼女からの愛情溢るる電子メールが保存してあったので当然ながら篠崎は落胆し、心の一部分を削り取られたような気分になった。
いつか、のぞみとの2ショット写真を待ち受け画面にすることができる日は訪れるのだろうか――初期設定のままの群青色の携帯電話の味気ない待ち受け画面を見ながら、篠崎はよそよそしく敬語を使う彼女のことをただただ考えていた。