第十話「一人で向き合わなければならない問題」
涙が枯れた後も篠崎は糸の切れた傀儡のように、ぐったりと床に横臥していた。プライムはというと、テレビの電源をつけてひたすらチャンネルを回し続けていた。篠崎が本当に謙哉を殺めたのかどうか、ニュース番組を見て確認したかったのである。その作業中、プライムは時折思い出したようにぽつりぽつりと篠崎に対して慰めの言葉を掛けてきた。
「お前が『殺した』と思い込んでいるだけで、もしかすると謙哉は一命を取り留めたかもしれない」
「そうでなかったとしても、あまり自分を責めるなよ」
「過ちは誰にだってあるものだ」
「くれぐれも自殺だけは考えるなよ。これ以上、命を粗末にしてはいけない」
「何があろうと、少なくとも俺はお前の絶対的な味方だからな」
篠崎の言い訳をことごとく論破し、精神的に追い詰めてしまったことに対して少なからず罪悪感を抱いているのか、プライムの言葉にはいつにもまして熱が籠もっていた。そのせいか、篠崎の体内のどこかの腺の氷塊がまたも溶融しそうになり、精神を蝕む細菌がパスチャライゼーションされそうになったものだが、そんなことはおくびにも出さず彼はただただ沈黙を保っていた。そんな彼とプライムの中間温度を算出したかのように、テレビ画面の中のアナウンサーが淡々たる態度で〈次のニュース〉を読み上げた。
「午後七時過ぎ、S県東川瀬市内の公園で通行人から『男性が倒れている』と119番通報がありました。救急隊が駆けつけたところ、近所の高校に通う成田謙哉さん(17)が頭部から血を流してぐったりしているのが見つかり、直ちに病院に搬送されましたが間もなく死亡が確認されました。財布などの金品は盗られておらず、頭部を複数ヶ所殴られていたことから怨恨による殺人である可能性が高いとして、警察は被害者の交友関係を調べるなど容疑者の割り出しを進めています。尚、凶器はいまだ見つかっていないということです」
「謙哉は生き返らず、か」
プライムは溜め息をつきながらテレビの電源を消した。篠崎もプライムと似たような心境だったが、それよりも先刻のニュースの中で一つだけ気になることがあった。言うまでもなく『凶器はいまだ見つかっていない』という点である。前述したように、篠崎は凶器を犯行現場に置き忘れてきてしまったわけで――まして血痕を拭き取るような小細工すらしていないのだから、どう考えても警察がその決定的証拠を見落とすとは思えなかった。
そのことについて篠崎はプライムに意見を求めてみたものの、「現場から逃走する際、無意識のうちに証拠を隠滅していたんじゃないか」などという御都合主義的な答えが返ってくるばかりで、あまり参考にはならなかった。無論、その仮説を否定する根拠などどこにもなかったが、だからといって積極的に肯定したいとも思えなかった。
プライムの性格が起因しているのか、いささか楽観的過ぎる嫌いがある。そんな感懐を抱きつつ、篠崎は全く違う仮説を立てていた。本当は凶器が見つかっているのに、わざとその情報を伏せているのではないか。すなわち警察が情報操作をしているという説である。何のためにそんなことをしているのかというと、犯人を犯行現場に誘き寄せるためだ。犯人は凶器を隠滅しに来るに違いない……そのようなことを警察は考えているに違いない。
何だかこうしていると一瞬だけ自分と警察が知能戦を繰り広げているような気分になったが、それほど爽快なものでも痛快なものでもなかった。己の人生を賭けた孤軍の戦いなのだからそれも当然と言えば当然であり、篠崎は今更ながら漫画と現実の違い、あるいは傍観者と当事者の違いを痛感していた。
情報操作説を話すと、プライムはつまらなそうに感想を述べた。いささか悲観的過ぎる嫌いがある、と。
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後日、成田謙哉の葬礼が執り行われたが篠崎は参列しなかった。謙哉の遺族やのぞみに合わせる顔がなかったし、そもそも自宅から外へ出るという行為自体が篠崎にとって絶大な恐怖だった。外界へ一歩足を踏み出そうとすると、あの赤ずんだ暗闇と青白い腕のショッキングな映像がフラッシュバックしてしまい、どうしても立ちすくんでしまうのである。それほどまでにあの夜の幻覚は彼の精神に外傷を与えていたわけだが、よしんばそれを克服できたところで、今度は別の種類の恐怖が彼の前に立ちはだかるだけのことなのかもしれない。
町中の人々が石を投げつけてくるのではないか、警官が拳銃で射殺しようとしてくるのではないか、天が崩れ落ちてくるのではないか――自他共に許す悲観論者である篠崎の想像力を駆使すれば、恐怖の種類など枚挙に遑がなかった。無論、第三者からしてみればそんなものは犯罪者の杞憂に過ぎないと一笑に付する程度のことなのだろうけれど、「罪を犯したら罰を受けなければならない」という意識を完全に払拭することができずにいる当事者の篠崎にとっては、非常に真実性のある憂慮だった。
そういうわけで、代わりにプライムが謙哉の葬式に参列した――というと、何だか消去法的に『彼が不承不承そうした』というような印象を与えてしまうかもしれないが、言うまでもなくそれは誤解である。仮に謙哉の死因が不慮の事故によるもので、篠崎とプライムの両方にその権利があったとしても、やはりプライムのほうが参列していたことだろう。それほどまでにプライムの親友を追悼したいという想いは強固なものだった。
「それで、葬儀のほうはどうだった? クラスメートたちの様子とか……」
プライムの帰宅直後、篠崎は恐る恐る訊ねた。それは己の罪の重さを再確認し、自分の首を真綿で絞めるような行為だったが、それでも訊かずにはいられなかった。プライムは学校規定のネクタイを左手で乱暴に緩め、これまた学校規定の制服を荒々しく脱ぎ捨てていて明らかに気がくさくさしているようだった。私服に着替え終えると、ぶっきらぼうな語調で話し始めた。
「別に。そんなこと訊かなくたって大体分かるだろう? 神妙な表情と泣き顔ばかりだ。まあ、喪主と思しき女性の方は――おそらく謙哉の母親だろう――弱々しい笑みを浮かべて気丈に振舞っていたけど、目は赤く染まっていたよ」
プライムの刺々しい言葉を聞いて、篠崎はひどく耳が痛くなった。三半規管に穴が開けられ、中のリンパ液が漏れてしまったかのように頭と足元がぐらぐらし、激しい嘔気に襲われた。
「ああ、そうそう、そういえば……」
不意に何かを思い出したようにプライムは先程、粗略に脱ぎ捨てた制服の上着を今度は丁重に拾い上げた。それの内ポケットから一通の封筒を取り出すと、プライムは何の逡巡もなく篠崎に渡してよこした。
「葬儀が終わった後、倉本にそれを渡されたんだ。恨み言がつらつら綴られていたりしてな」
口調は多少冗談めかしていたものの、プライムの面持ちは全くの無表情で、それを見た瞬間篠崎の鼓動は自然と早まり、封筒を持つ手は震え、蒼白な顔面は引き攣っていた。謙哉の葬礼の日に手紙を渡してきたということは、多かれ少なかれのぞみは事件の真相に気付いているということなのではないだろうか、と彼は不安に思った。少なくとも、これが甘い恋文でないことは確かである。その封筒は、まるで彼女の性格をそのまま反映しているかのようにひどく地味な白い状袋で、何故だか封はまだ切られていなかった。
「……これは君に渡された手紙だろう? 君が先に読むべきなんじゃないか」
「馬鹿なことを言うな。確かに渡されたのは俺だが、どう考えたってそれはお前に宛てられた手紙だろう。だから、どちらが先に読むとかそんなことは関係ない。その手紙を読んでいい篠崎慶一は、お前だけなんだよ。俺にその資格はない」
どことなく乱暴な言い方ではあったが、プライムが篠崎のプライバシーやアイデンティティーを尊重してくれているのは明らかだった。
――そう、彼の言うとおり、これは僕に宛てられた手紙なのだ。敢えて露骨に言い換えれば、被害者の恋人から加害者に宛てられた手紙のわけで、僕自身が一人で向き合わなければならない問題なのだった。
生唾を飲み込み、ようやく腹を括った篠崎は慎重に状袋の封を切った。中には便箋が数枚入っており、それらはのぞみの端正な文字によって埋め尽くされていた。まるで彼女の文字に恋をしてしまったかのように、彼は夢中でその筆跡を追い掛けた。