第一話「握手と悪手」
恋愛というものは、借金に似ている。恋愛における幸福な思い出が〈元金〉、写真やペアリングなど思い出を具象化させたものが〈利子〉、そして別れのときが〈返済日〉。当然ながら思い出が多くなれば多くなるほど返済は苦しくなり、死別だったら尚更厳しくなる。何しろ、亡くなった恋人の分の借金まで背負わなくてはならないのだから。
――その精神的な負債があまりにも膨大してしまったら、もう首をくくるしかないのだろうな。
倉本のぞみの葬儀が執り行われた日の秋の深夜、左手に縄を携えて夕霧ヶ池に向かいながら篠崎はそんなことを考えていた。
篠崎の自宅近くにある夕霧ヶ池は自殺の名所として有名な場所であり、そして倉本のぞみが刺し殺された場所でもあった。彼女の遺体には数十ヶ所もの刺し傷があり、そのことをニュースや新聞で知った世間の人々のほとんどは、被害者に対して強い怨恨を抱いていた者か、頭のおかしい通り魔の犯行だろうと朝食ないし夕食を口に頬張りながら推測し、そして自分たちの過ごしている平穏な日常生活に大なり小なり満足するのだった。
事件の目撃者は一人もおらず、いまだ犯人は捕まっていなかった。その犯人を殺害するまで生きるべきなのだろうかと篠崎は一瞬考えたが、もはや彼に生きる気力など残っていなかった。彼は一刻も早く自死して、この借金地獄から逃れたいと願っていた。
池の周りには松の木が数多く植えられており、これらのうち数本は人間の死体の重みを知っていた。池への入水自殺を試みた人は、一人もいない。飛び込むのが躊躇われるほどに池の水は汚濁していた。
篠崎は松の木を一本、適当に選び――できれば、まだ一度も人間を殺めたことのないものがいいと彼は思ったが、それを識別するのは女性が本気でついた嘘を看破することよりも遥かに難しい行為だった――その太い枝に縄を巻きつけ、踏み台になりそうな大きな石を探した。その石の上に乗り、枝から垂れている縄で「死の円環」を形成し、ゆっくりと首をその中に入れていく。
あとは、この踏継ぎから足を離せばいいだけ。さりながら、彼はなかなかその最期の一歩を踏み出せずにいた。彼の右足は死に恐怖し、左足は生に執着していた。
暫時そのまま立ち尽くしていると、彼の中でだんだん焦りが生じてきた。早く首を吊らないと、何か厄介な事態に発展するような気がしたのである。
彼はふと、今から十五分後に誰かがこの池に散歩しにくるという未来を想像してみた。今すぐ首を吊った場合は何の問題もないが、グズグズしていて十四分後くらいに踏み台から足を離した場合、その散歩中の人物に助けられ、一命を取り留めてしまうかもしれない。首括りが未遂に終わると下手したら脳に障害が残り、自害はおろか思考すらできない状態になってしまうことだろう――。
〈自己破産〉だけは絶対に御免だ、そう強く思った彼は石の上から死の世界へと飛び立とうとした。けれども、それが完了形になることはなかった。飛び立つ直前、彼はとんでもないことに気付いてしまったのである。
――よくよく考えてみると、この池に人が来るのは何も十五分後であるとは限らない。ひょっとしたら、今から数秒後かもしれないじゃないか。
囚人のジレンマならぬ自殺志願者のジレンマといったところだろうか。
相も変わらず立ち尽くしている自分自身を客観的に観察してみると、「何か」を待ち続けている人のようにも見える、と彼は思った。その「何か」が具体的に何なのかは、彼には分からない。それは自殺をやめさせようと必死に説得してくれる熱血漢かもしれないし、あるいは何も言わずに背中を押してくれる冷血漢かもしれないし、はたまた人間ではないかもしれない。
いずれにせよ、彼はその「何か」と邂逅すべきではないような気がしていた。かといって、倉本のぞみが待っている霊界へと飛び立つタイミングも全く掴めずにいた。生きたいのか死にたいのか、彼はそれすらも分からなくなってきていて、あたかも自分自身の脳髄や精神のプログラムにウイルスが侵入してしまったかのようだった。
そんな風に混乱していると突然、彼の背後から男の低い声が聞こえてきた。
「何してんだ?」
それを耳にした瞬間、篠崎は何だかむず痒い気分になった。いつか何処かで聞いたことのある声だったが誰のものなのかは全く思い出せず、彼はその記憶の断片を取り戻そうとするように後ろを振り返った。
そこには、篠崎と瓜二つの男が立っていた。
篠崎の脳髄や精神内のウイルスは凄まじい速度で増殖していき、やがて〈瓜二つの男〉や〈世界〉に感染していった。世界にバグが生じていることを悟り、突如として激しい頭痛や嘔気が彼を襲ったが、それは決して死にたくなるほどの苦痛というわけではなかった。
心地良い興奮に包まれながら彼は踏み台の石から静かに降り、自分と瓜二つの男に近付いていった。
希望と、そして更なる絶望が待ち受けていることに全く気付かぬまま。
∮
夕霧ヶ池で首吊り自殺を図ろうとしていた篠崎の前に突如として現れた、彼そっくりの男に関する個人情報をまとめると次のようになる。
その男の名は篠崎慶一といい、6月10日生まれの17歳、県立東川瀬高校の二年生で、現在の家族構成は篠崎凛子という24歳の姉のみ。両親の篠崎孝太郎と篠崎法子(旧姓深沢)は2年前の8月に不慮の事故で亡くなった。好きな食物は馬刺しで、嫌いな食物はマシュマロ。パソコンを初めて親に買ってもらったのは4年前のことで、そのときのログインパスワードは〈cyberjunkie〉。
それは、首吊り自殺を図ろうとしていた篠崎の個人情報と寸分違わぬものであった。
SF小説を愛読している彼ら(篠崎慶一たち)はすぐに、この世界がパラレルワールドだということに気が付いた。パラレルワールドとは、ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の世界のことである。
「つまり、僕らはどこかの人生の分岐点で違う選択を行ったということになる。その分岐点というのは一体、何だろう」
夕霧ヶ池の水面に浮かんでいる魚の死骸を眺めながら、篠崎Aは篠崎Bにそう尋ねた。篠崎Aとは首を吊ろうとしていた篠崎慶一のことであり、篠崎Bとは後に現れたほうの篠崎慶一である。
篠崎Bではなく、篠崎A´と呼んだほうがより正確である。Aを省き、篠崎´でもいい。
「分岐点の話をする前に」と篠崎A´は言った。「お前は今後、俺のことをなんて呼ぶつもりなんだ? まさか、篠崎とか慶一とかそんな風に呼ぶつもりなのか」
「いや、それは何だか変な感じがするから君とかお前とか二人称を使うよ」
「そんなのつまんねえじゃん。なあ、一つ提案があるんだが、俺のことは『ダッシュ』って呼んでくれないか?」
篠崎A´は何やら得意げな笑みを浮かべながらそう言い放った。それを見た篠崎Aは、ひょっとしたら性格に関してはあまり一致しないのかもしれないと思い、一抹の不安を抱いた。
「ダッシュって、数学の記号の?」
「それそれ」
「正確には、ダッシュじゃなくてプライムだよ」
「そうだっけ? エーダッシュって読むじゃん」
「でも、本当はプライムが正しくて……。いや、何でもない。そっちも間違いではないから」
途中で反論するのが面倒になり、篠崎は口を閉ざした。他人の意見を尊重するところが彼の長所であり、そして自己主張が弱いところが彼の短所であった。
もう一人の僕は自己主張が強そうだからダッシュと呼び続けるだろうと篠崎は考えたが、その予想に反して、「プライムか。ダッシュより響きがいいな。よし、プライムにしよう!」と篠崎A´は決意したのだった。
「俺のことは今後、プライムって呼んでくれ」
「プライム」
スライムのようだ、と篠崎は思ったが口には出さなかった。
「それで、何の話をしてたんだっけ」
「僕らの人生の分岐点についてだよ、プライム」
「おお、そうだったな。俺とお前の違いを掘り下げていけば、何かが見えてくるかもしれんな。例えば、俺たちは一人称が違うよな? どうして、お前は〈僕〉なんていう坊ちゃんみたいな一人称なんだ」
「特に理由なんてない。僕は、昔から僕だよ」
「一人称を〈俺〉に変えたくなったことはないのか?」
「そんなこと一度も……いや、一度だけ父さんと母さんが亡くなった直後、何故だか猛烈に俺に変えたくなったことがあったよ。結局、そうしなかったけど。多分、僕は僕と訣別したくなかったんだと思う」
観念的すぎていささか分かりづらかったかもしれないと篠崎は懸念したが、プライムは「なるほどな」と呟きながら深く頷いていた。
「俺も昔は〈僕〉だったんだが、親父とお袋の死を境にその一人称は捨てた。なんて言うのかな。新しい自分自身に生まれ変わることで、悲しさとか虚しさとかそういったものを全て掻き消したかったんだ。あるいは、俺たちの分岐点はそこだったのかもしれないな」
プライムの話もまた観念的であったが、篠崎はすぐに理解し、「なるほどね」と呟きながら深く頷いた。
このとき、彼らは全く同じタイミングで、なんて話しやすい相手なんだろうと密かに心の中で思っていた。
「ところで、お前はなんで自殺なんてしようとしてたんだ? 何かあったのかよ」
「逆に聞かせてくれ。最近、何か自殺したくなるほど悲しい出来事はなかったか」
「んー、特にないな」
プライムはよく考えずに即答した。それは、比較的幸福な人間だけが許される答え方だった。急速に胸が高鳴り始めた篠崎は勢い込んで質問を口にした。
「なあもしかして、のぞみは、この世界ではまだ生きてるのか?」
「のぞみ? ああ、倉本さんか。普通に生きてるけど」
それを聞いた瞬間、篠崎の脳裏で〈パラレルワールド〉という八文字が虹色に輝き出し――虹が七色であるとは限らない――彼は世界中に蔓延しているウイルスを愛しく思った。このときの彼の目には、ぼけっと立っているプライムの顔が格好良く映っていたし、それどころか水上の魚の遺骸さえもロザリア・ロンバルドのミイラのように美しく映っていたのである。
「のぞみに会いにいってくる!」
そう高らかに宣言し、倉本のぞみの家の方向へ駆け出そうとした篠崎のことをプライムは慌てて制止した。そのときのプライムの顔はひどく醜悪なものに見え、篠崎は睨みつけながら、何だよと唸るように言った。
「今、何時だと思ってんだ。多分、もう寝てるよ。明日、学校で会えばいいだろう」
「のぞみがこんな早く寝るわけないだろ。そうだ、電話しよう。スマホ貸して」
プライムはブラックジーンズの左ポケットから真紅色のスマートフォンを取り出すと、怪訝な顔をしながら篠崎に手渡した。
プライムの待ち受け画面を目にした瞬間、篠崎まで怪訝な表情となった。篠崎のスマートフォンの待ち受け画面は倉本のぞみとの2ショット写真なのだが、プライムの待ち受け画面は水無月水織というアイドルが左手でピースサインを作っている写真だった。そのことについて篠崎は突っ込みを入れようかとも思ったが、それよりも優先すべき事項があったのでやめた。
篠崎は慣れた手つきで11桁の番号を入力し――倉本のぞみに関することなら、彼は全て正確無比に記憶していた――いささか緊張しながら通話ボタンを押した。
数秒後、彼が耳にしたのは『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』という無機的な音声だった。
番号を押し間違えたのかと思い、篠崎はもう一度電話を掛け直してみたが結果は同じだった。あるいは、この世界の倉本のぞみの携帯番号と前の世界の彼女の携帯番号は違っているのかもしれないと考えた彼は電話帳を開き、ナ行の欄を見た。
しかしそこにのぞみの名はなく、彼は遅まきながらプライムがのぞみのことを「倉本さん」とよそよそしく呼んでいることに気が付いた。彼は溜め息をつき、プライムにスマートフォンを返した。
「なあ、のぞみとはどういう関係なんだ? 付き合ってないのか」
「付き合うも何も俺は一度も倉本さんと話したことがないし、そもそも彼女のことは大して好きじゃない。俺はみおりん一筋だからな。みおりんは可愛いし、性格も頭も良いし、ピアノは上手いし、本当に完璧で」
偶像崇拝をしているプライムの話を聞き流しながら、篠崎は松の木の枝に巻きつけた縄を片付け、自殺しようとしていた過去の自分自身に別れを告げた。
この世界において篠崎慶一と倉本のぞみは単なるクラスメートという関係でしかないのだと知り、篠崎はほんの少し寂しさを覚えたが、しかしそれ以上に彼女と再び会うことができるのだという喜びがあった。のぞみの存在は、彼にとってまさしく生きる希望であった。
彼の倉本のぞみに対する思いは純粋であり、そして狂気を孕んでいる。
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「それにしても、どうして僕は君の世界に入り込むことができたんだろう」
夕霧ヶ池を後にし、自宅に向かいながら篠崎は自分自身に問い掛けるように独りごちた。すると彼の右隣りを歩いていたプライムが何だか投げ遣りに、「恋人の後を追って自殺しようとしていたお前に対して神様か何かが同情してくれたんだろ、きっと」と言った。
「神様か。僕はそんなもの存在しないと思うけど。仮にいたとしても、ただただ袖手傍観しているだけじゃないかな。たった一人の人間に対して積極的に情けをかけたり天罰を与えたりなんかしないよ。おそらくだけど、夕霧ヶ池が自殺の名所だったからこういう現象が起きたんじゃないか」
「数多くの自殺者の霊魂が空間を歪ませた、ってことか?」
「うん。自殺スポットで有名な青木ヶ原樹海で行方不明者が多いのもひょっとしたらそのせいかもしれない」
「それは方位磁針が狂って、迷うからじゃないのか」
「いや、それは俗説だよ。土の中に磁鉄鉱を多く含んでいるから多少の狂いは生じるけど、方位が分からなくなるほどではないらしい。実際に行ったことはないから断言はできないけど」
この事実を知ったとき、篠崎はなかなか興味深い話だと思ったものだがプライムはさして関心を払わず、ふうんとつまらなそうに相槌を打っただけだった。
彼らの自宅である東川瀬団地は五階建ての公営団地で、東川瀬高校の目と鼻の先にある。去年の三月末、すなわち篠崎慶一がその進学校に入学したとき、彼は姉と二人でその団地へ越してきた。
早起きが極端に苦手な彼のことを心配してくれたのか、はたまた転居することで気分を一新させたかったのか――引っ越しを決断した姉の真意を彼はいまいち掴みきれずにいたが、何にせよ通学時間が飛躍的に短くなったので彼は姉に大変感謝していた。
現在、篠崎慶一は1-3号棟の104号室に独りで住んでおり、姉は数ヶ月前から都内で恋人と同棲生活を送っている。彼女は時々弟に対してメールや電話をして近況を確認しているが、弟の顔を見るためにわざわざ家に帰るということはほとんどない。二ヶ月前、彼氏との喧嘩を理由に帰宅したことがあったが、彼女は五十時間もしないうちに東京へと戻っていった。
姉弟の仲は悪くない。慶一の学費、生活費等は姉が支払っており、彼にとって姉は親のような存在であり、彼は心の底から姉のことを尊敬していた。
104号室の扉の錠をプライムが開け、篠崎慶一たちは真っ暗闇の部屋の中へ入っていった。先に入室した篠崎が明かりを点けた瞬間、彼らは絶句した。というのも、部屋中のありとあらゆる物体が何者かによって破壊されていたからだ。その「何者か」の正体に気付いた瞬間、篠崎は訳の分からぬ叫び声を上げていた。
――部屋のものを壊したのは、のぞみが亡くなって自暴自棄になっていた過去の僕自身だ。
とどのつまりここはプライムの世界ではなく、篠崎自身の世界だった。自殺を考えていた篠崎がプライムの世界に入り込んだのではなく、プライムが、自殺を考えていた篠崎の世界に迷い込んできたのだ。
篠崎はふと、先刻の無機的な音声を思い出した。
『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』
死者に繋がる電話などありはしない。篠崎はまた一歩現実主義者に近付き、希望が絶望によって虐殺される場面を目撃した。
ついさっきまで篠崎の右隣りにいたはずのプライムの姿はもう、どこにもない。
(了)
というような事態になることを篠崎は恐れていたが、実際には何の家具も壊されていなかった。ここは僕自身の世界ではないと篠崎は確信し、そっと安堵の胸を撫で下ろしたのだった。
帰宅後、篠崎慶一たちはリビングのソファーに腰掛けて対話をし、二つの事項を取り決めた。
第一に、高校へは篠崎が行き、アルバイトはプライムがするということ。これは学校嫌いのプライムが提案してきたもので、のぞみに会えればそれで良い篠崎はもちろん快諾した。
第二に、もう一人の自分の存在を絶対に口外しないということ。これは篠崎が提案したものだったが、前者と違って快諾はされなかった。プライムは不思議そうに目を瞬いた。
「なんで? 生き別れの双子とか何とか適当に言っておけば、特に問題はないんじゃないか」
「クラスメートに対してはそんな説明でも良いかもしれないけど、そこから話が広まって親戚の耳に入ったら厄介なことになるだろう」
「教室から田舎に話が届くとは到底思えんが」
「情報化社会を侮っちゃいけないよ」
「まあ、分かったよ。秘密にしておいたほうが面白そうだ。ただ、姉貴に気付かれないようにするのは結構難しいな。同棲相手と別れたら、家に帰ってくるだろ」
「確かにそうだね。仕方ない、姉さんにはいつか折りを見てパラレルワールドについて説明しよう」
「リアリストの姉貴がどんな顔をするか楽しみだ」
そう言うと、プライムは笑いながら大きな欠伸をした。篠崎もつられて欠伸をしそうになったが、何となく彼にそれを見られるのが嫌だったので無理矢理に噛み殺した。
「そろそろ寝ようか」壁の掛け時計を一瞥し、篠崎は静かに呟いた。
「そうだな。と、その前に」
プライムは照れ臭そうに、篠崎に右手を差し出した。それは如何にもプライムらしい行動だと篠崎は思いつつ、彼自身も右手を差し出した。
その晩、篠崎慶一たちは全く同じ夢を見た。篠崎が崖から足を踏み外し、落ちそうになったところでプライムが素早く右手を差し出し、篠崎の右手を掴む。その瞬間、崖や空や海、世界の至るところにひびが割れ、彼らはいつまでも、どこまでも落下し続ける――そんな内容の夢だった。
彼らがその夢について語り合うことはなかった。篠崎は何か深い意味があるような気がしたが、プライムに話したところで単にその場の雰囲気が暗くなるだけだと考え、黙っていた。プライムに至っては、起床して数秒後には夢の大半を忘れており、ただ「怖い夢だったなあ」と寝ぼけた頭で思いながら小便をしていた。顔を洗い終えたときにはその夢に対する興味を完全になくしており、プライムがそれを思い出すことはもう二度となかった。
その夢を見た日の朝、篠崎は目覚まし時計が鳴る前に起床した。姉の部屋のベットで寝るという違和感、あるいは異世界で寝るという違和感が睡眠を浅くしたのかもしれないと彼は思った。
現時刻は七時五十七分で、朝のHRまで優に四十分以上あり、まだ慌てるような時間ではなかったが、彼はすぐに身支度を始めた。急いでいる理由は、ただ単純に一刻も早く倉本のぞみに会いたかったからであり、彼はろくに食事も摂らずに東川瀬高校へ向かった。
篠崎の世界の倉本のぞみはいつも早めに登校し、HRの予鈴が鳴るまで図書室で静かに読書をしているような生徒だった。無論、この世界の彼女がその習慣を身につけているという確証はどこにもなかったが、それでも家でじっとしているよりは断然有意義であるように彼には思えた。
東川瀬高校は篠崎慶一の家から徒歩十分ほどの所にあり、校舎は昇降口から見るとアルファベットのUの字の形をしている。昇降口は南に位置しており、Uの字の縦線は西棟と東棟である。西棟は職員室や美術室、音楽室などの特別教室が主で、生徒の教室は東棟に密集している。篠崎慶一のクラスである二年二組の教室は東棟三階にある。
昇降口を抜けた篠崎は、西棟四階の図書室を目指して一気に階段を駆け上った。図書室の扉の前で彼は一旦深呼吸をしてみたものの、心臓拍動はノルアドレナリンによって促進させられるばかりだった。アセチルコリンの行方は、彼にも誰にも分からなかった。
長い逡巡の末、篠崎がゆっくりその扉を開くとそこには一人の女生徒がいた。百五十センチメートル前後の背丈、二つ結びにしているサラサラの黒髪、黒目勝ちな瞳に細雪のような白い肌、それらの要素は間違いなく彼の最愛の人のものだった。彼女は書架を熱心に見つめ、何やら書籍を探しているようだったが、扉の開閉音に気付くと彼のほうを振り向いた。
「のぞみ!」
篠崎はほとんど無意識のうちに倉本のぞみに駆け寄り、彼女のその華奢な身体を強く抱き締めていた。その瞬間、懐かしい温もりと仄かに漂う甘い香りに包み込まれ、彼は心地良さとともに何とも言えない背徳感を覚えた。
至福の時間は、そう長くは続かなかった。彼女は激しく抵抗し、篠崎の腕の中から無理矢理に逃れようとした。篠崎は彼女よりも体格や腕力が勝っているので、やろうと思えば彼女を強引に大人しくさせることもできたが、これ以上彼女の怯えた表情を目の当たりにするのは精神的に辛かった。篠崎が腕の力を緩めると、彼女は何も言わずに図書室から走り去っていってしまった。
この世界において篠崎慶一と倉本のぞみは単なるクラスメートという関係でしかない、という切れ味の鋭いナイフのような事実が彼の胸に深々と突き刺さった。
――のぞみと再び会うことができたとはいえ、昔の世界の彼女との思い出までもが蘇るというわけでは断じてないのだ。無論、再会できたというだけでも満足すべきなのは重々分かっている。分かってはいるのだけれど。
図書室を出た篠崎は、蹌踉たる足取りで二年二組の教室へと向かった。朝のSHRまでまだまだ時間があるからか、教室内には数名の生徒しかいなかった。その中に倉本のぞみの姿はない。僕と顔を合わせたくなくて何処か別の場所で時間を潰しているのかもしれない、と彼は考えた。
窓際の一番後ろの席に座り――席の場所や授業の時間割など学校に関する情報について篠崎は昨晩プライムから聞き出していた――窓のほうを見遣った。その窓から見えるのは古びた西校舎くらいで、何の趣きもない景色であったが、彼はいつまでも飽きずに眺めていた。あたかも倉本のぞみが生きているこのパラレルワールドに殺風景など存在しないと本気で思っているかのような眼差しで、彼は楽しげに世界を観察していたのである。