さようなら
7月の暮れ。俺はナワカミさんを1人で除霊することに決めた。
方法は簡単。部屋を燃やすのだ。
部屋に取り憑いているなら部屋ごと燃やせば恐らくいなくなるはずだ。
俺のアパートは築20年は経っているだろう木造のアパートだ。他の部屋も燃えるだろうがそんなこと関係ない。俺は牢屋に入る覚悟はあった。
車の後部座席に3つのポリタンク。中身はガソリン。
懐にはライター。駐車スペースに車を停め、後部座席からポリタンクを自室へ運んでいく。
部屋に入るとナワカミさんが動揺しているのがわかった。
だけど俺はこれだけはやり遂げる覚悟をしてきた。
今ナワカミさんに何をされようと俺は怯まない。
どかっとポリタンクを床に置く。そのうちの一つの蓋を開け、中身を部屋中に撒き散らした。玄関、廊下、リビング、トイレ、風呂。一つ目のポリタンクが空になり、2つ目をばら撒く。
もうこの頃になると、自分が何をしているか半分わからなくなっていた。
2つのポリタンクで部屋中に鼻を突くほどのガソリンの臭いが充満したが、ガソリンを満遍なくばら撒くため、3つ目に手を伸ばす。
だがそのポリタンクは部屋ではなく、樋口の左半身にかかっていた。
ナワカミさんの仕業だ。
「くそ‼︎」
ガソリンを拭うが、完全に拭い去ることはできなかった。樋口は左半身にガソリンを浴びたまま玄関のドアまで走り、懐ろからライターを取り出そうとした。
だが何かに引っ張られ、リビングまで引きずり戻された。
「邪魔をするな!お前が!お前さえいなければ‼︎俺の周りはこんなおかしくはならなかったんだ‼︎
いつまでもつきまといやがって…」
息を切らしながら、天井を見回す。今まで視界の隅にぼんやりとしか姿を確認したことはないが、いるとすれば恐らく天井のあたりだろうと思っていた。
今は歯ぎしりも虫が飛ぶような音も聞こえない。
しばらく天井を見回した後、懐からライターを取り出そうとしたが、見当たらない。リビングに引きずられた際に落としたようだ。
「くそ、ライターさえあれば…!」
這いつくばりながらライターまで手を伸ばす。だが樋口がライターに手を伸ばす前に、玄関のドアが勢いよく開いた。そこには口にタバコを咥えた大家が立っていた。
「樋口さんあんた何やってるの⁉︎」
ドアを開けて大家は部屋中にガソリンが撒かれているのを瞬時に理解した。理解したが、思わず驚き口からタバコを落としてしまった。
「ひっ、ガソリン⁉︎」
今までテレビでしか見たことのない光景が目の前に、いや自分の体に直に広がる。
タバコはガソリンに引火すると瞬く間に部屋中に広がり、一瞬で部屋は火の海になった。
炎の勢いは増していくばかりだ。玄関も窓も炎で塞がれ逃げ道は完全になくなってしまった。灼熱の炎が樋口の体を燃やしていく。ガソリンの付いた左半身は特に勢いよく燃え上がっている。
「ぎゃあああああああああああああああああ!があああああああああああ‼︎」
のたうち回っても火は消えることなく、轟々と燃え盛っていた。部屋は炎と煙で包まれ、空気も熱い。
最早左半身は消し炭になりつつあった。のたうち回っていた樋口はやがて動かなくなり、目を見開き、天井を見上げた。
燃え盛る炎は泣いているようだった。家具も天井も音を立てて崩れていく。
最早呼吸もままならず、全身も燃えて苦痛だけが樋口を支配している。
リビングのほぼ中央で意識が消える直前、樋口はナワカミさんが自分に好意を抱いていたのだろうと思った。
この3年間、過激ではあったが常にナワカミさんが自分を見守ってくれていた。仕事での失敗、恋愛での失敗。虫も部屋に入れず、住環境も整えてくれていた。
ナワカミさんとは音でしかコミュニケーションが取れなかったが、走馬灯のように樋口の頭にこの3年間が蘇る。それは目の前の炎よりも鮮やかで忘れることはないだろう。炎が完全に建物ごと焼き払い、天井が轟音を立てて落下した。
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とある病院の集中治療室に樋口はいた。
全身の大部分に大火傷を負い、生きているだけでも奇跡に等しかった。
だが彼に意識はない。包帯でぐるぐる巻きにされた樋口の目からは涙が零れていた。
樋口は意識を失ってなおある音だけが聞こえていた。それは聞き覚えのあるとても親しみのある音。
その音が聞こえているだけで樋口は充分だった。
樋口の耳にずっと聞こえているその音はー
完