おかえり
終電ギリギリで帰宅し、くたくたのまま部屋へと戻る。玄関に靴を適当に放り、疲れ切った自分同様に疲れ切ったスーツとネクタイを乱雑にベッドへと投げる。
ローテーブルにコンビニで買ったサラダとパスタを置き、一旦洗面所へ行き顔を洗う。このまま夕食を済ませ、シャワーを浴び、もう6時間後には起床しなければならない。
サラリーマン生活4年目。若手と呼ぶには年を取り過ぎ、かといって中堅と呼ぶには若過ぎる微妙な年代。
樋口は洗顔後鏡を見て、最近やつれたなと思った。
剃り残しが残る下顎を手でさすっていると、ふと視界の隅にそれが姿を現した。
「ただいま、ナワカミさん。」
視界の隅に映るそれを“ナワカミさん”と樋口は呼んでいる。本当の名前は知らないし、聞いても多分教えてはくれないだろう。
ナワカミさんは歯ぎしりのような何かが擦れる音を出して視界から消えた。
はっと気がついて、リビングへ戻りローテーブルを見ると、買ったはずのサラダが綺麗に半分だけ食べられていた。店員が付けた割り箸も綺麗に左半分だけ残っている。
だがパスタには手をつけていないようだ。
「ナワカミさん、ベジタリアンだな。肉とか炭水化物は摂らないの?」
聞いても答えは返ってこない。ただ天井の隅から何かを引っ掻くような音だけが聞こえる。
「ははは、そっか。」
キッチンへ行き、自分の箸を持ってきて半分残ったサラダとパスタを食べた。食事中何か耳元で虫が飛ぶような音が聞こえて、樋口は少し面倒くさくなった。
この音を出しているということは、ナワカミさんは少し不機嫌なのだ。
「あれ、やっぱりパスタも食べたかった?もう俺手つけてるけど良ければどうぞ。」
突然テレビが点いた。点いたが音量は50にも設定されており、ニュースキャスターの声が大音量で室内に響き渡る。
「すいません冗談ですってば!明日あれば同じもの買ってくるから。」
ブツンとテレビが消えた。どうやら納得してくれたようだ。これで明日パスタを忘れようものならしばらく寝ることはできないだろう。
「じゃあ俺シャワー浴びてもう寝るから。何かあったら起こして。あ、念のため6時15分になっても俺が起きなかったらその時も起こして。」
それだけ言うと樋口はそそくさと浴室へと向かった。
後ろからぺたぺたと足音がする。
わかったという合図だ。
最初にこの“ナワカミさん”なるモノと出会ったのはかれこれ3年ほど前になる。社会人になると同時に一人暮らしを始め、樋口は仕事も家事もただ目の前のことをがむしゃらにこなすだけで精一杯だった。
今の仕事は給料も高いが、それなりに激務でもあり、早くて夜の10時過ぎ、遅ければ終電に間に合わずタクシーで帰ることもザラだった。
樋口のアパートは1階の角部屋なのだが、ある日彼はあまりに疲れて、窓の鍵を掛け忘れて寝てしまった。
アパートの1階で鍵が掛けられていなければ、空き巣が入ってくるのはそれほど珍しいことではない。
空き巣は樋口の部屋に侵入し、中身がたんまり入ったポールスミスの財布を盗んでいったのだ。
翌朝異変に気が付き、彼は午前中だけ休みを貰い、交番へと被害を届け出た。交番の警官はやや高圧的で、慰めるというよりかは、盗まれた彼の落ち度をねちねちと責め立てるだけで最後にこんなことを言い放った。
「ほぼほぼ戻ってくることはないだろうけど、何かあったらご連絡します。」
午後から職場へ復帰すれば、上司からも説教三昧で気が滅入りそうになったのは言うまでもない。
途方に暮れて家へ帰ると、異変に気がついた。
リビングで彼は思わず情けない声をあげた。
リビングのテーブルには見たことのない中年の男の死体が横たわっていたからだ。
しかもその死体はかなり猟奇的なもので、思い出すだけでもトラウマものだった。
目はくり抜かれ、そこにぎゅうぎゅうに丸めた血塗れの札束が詰め込まれていた。下唇から喉は刃物で掻き切られ、大量の血で汚れた硬貨が口や切られた喉から溢れるほど入っていた。
更に腹部もぱっくりと切り開かれ、クーポン券やカード類が飛び出していた。
彼は恐怖とショックのあまり、絶叫したあと気を失ってしまった。意識を取り戻すと彼は病院のベッドの上で、彼を心配そうに覗き込む両親の顔を今でも覚えている。
思えばその時樋口は初めて見たのかもしれない。心配する両親の顔の横、視界の隅にいたナワカミさんを。