‐4‐ キミの熱に浮かされて…
不意に意識が浮上して。
ぼんやりと室内を何処を見るでもなく眺めていると、思わぬ所から声が掛かった。
「…夏樹?目が覚めたのか…?」
「え…?まさ…や…?」
そこには雅耶がいて、心配げにこちらを覗き込んでいた。
(――どうして雅耶がここに…?いつの間に来たんだろう?)
自然と浮かんだそれらの疑問は、だが夏樹の口から出てくることはなかった。
(…まぁいいか…。雅耶今日来るって言ってたし…。寝てる間に来たってことだよね…)
深く考える事さえも億劫で、ただぼんやりと雅耶の顔を眺めていた。
すると、雅耶が心配げに眉を下げて見つめてくる。
「…大丈夫か?調子はどうだ?」
「ん…。大丈夫…。ねぇ、今って…何時?」
そう言って起き上がろうとするが、雅耶にやんわりと制止される。
「無理しないで寝ておけって。今は午後三時を過ぎたとこだよ」
「もう…そんな時間なんだ…」
結構な時間、眠ってしまっていたようだ。
ぼんやりと窓際を眺めている夏樹の額の上に乗せたタオルを雅耶はそっと取り上げると、今度は優しく自らの掌をゆっくりと当ててくる。
(雅耶の手…冷たくて気持ちいい…)
僅かに目を細めて大人しくしている夏樹を見下ろして、雅耶が口を開いた。
「まだ、高そうだな…。とりあえず熱計ってみないか?冬樹に言われて体温計持ってきたんだ」
その言葉に。夏樹は、やっと今の状況を思い出して雅耶に視線を合わせた。
「そうだ、ふゆちゃんは…」
「冬樹なら…昼過ぎに帰ったよ」
こちらを気遣うような優しい目で雅耶が言った。
「…そっか…。もしかして、雅耶…ふゆちゃんと会ったの?」
「ああ。俺は、冬樹が出て行く時に入れ替わりで来たんだ。学校帰りにお前に電話したら冬樹が出てさ。お前が熱出してるって聞いて…。具合の悪いお前を一人置いて出るのは気が引けるから、俺が来るのを待ってるってアイツが言ってさ…」
「…そう、だったんだ…」
(折角顔出してくれたのに、余計な気を…使わせちゃったかな…)
優しい兄の心遣いに温かい気持ちになりながらも、別れの挨拶も出来なかった自分自身に不甲斐なさを感じた。
とりあえず、体温計を受け取って素直に熱を計っていると、雅耶がこちらを伺うように覗き込んでくる。
「そう言えば…ごめんな?寝てる間に勝手に上がらせて貰って。冬樹に頼まれたっていうのもあるけど、その…嫌じゃ、無かったか?」
妙に気を使っている感じの雅耶に、夏樹は首を傾げた。
「どうして…?逆に呑気に寝てたのは私の方なのに…。おまけに看病させちゃったみたいだし…謝るのはこっちだよ」
再び額に乗せられた濡れタオルは、雅耶が水ですすいできてくれたので冷たい。
きっと、自分が寝ている間にも同じように何度か雅耶が冷やしてくれていたんだろう。
「そんなのはむしろ良いんだ。ただ、お前が嫌だなって思わなかったのなら、それでいい」
「……ん…」
雅耶のこと、嫌だなんて思う訳ないのに。
寝顔をずっと見られていたと思うと、ちょっと恥ずかしいが…。
だが、それも何だか今更な気がした。
(既に冬樹の時に、雅耶の前で散々寝ちゃってるしな…)
夏樹は心の中で苦笑した。
「――でも…」
不意に真面目な顔をした雅耶が再び口を開いた。
(…でも?)
「他の男に同じように無防備でいたら駄目だよ。家に上げるのは俺だけにしといて…」
そう言って、そっと頬に手を伸ばしてきた。
その真っ直ぐな、どこか熱い眼差しに。
昨日の学園祭での出来事を急に思い出してしまい、夏樹は途端にカーッとなって頬を染め上げた。
「う…うん…。わかった…」
かろうじてそう返すと、雅耶が嬉しそうに笑みを返して来る。
(うぅ…何か、余計に熱が上がる気がする…)
横になっていてもクラクラくる眩暈に夏樹が思わず目を閉じると、それと同時にピピピ…という体温計の検温終了を知らせるアラームが鳴り響いた。
「38度2分、か。結構あるな…。こういう場合、病院行った方がいいのかな?」
計り終わった体温計を眺めながら、雅耶は難しい顔をして言った。
「でも、今日は日曜だし…大抵のとこはやってないよな…」等、ブツブツ独り言のように呟く。
そんな雅耶を見上げながら、夏樹は笑った。
「平気だよ、これ位。寝てれば治るって。大概、雅耶もふゆちゃんも心配性だよ」
その言葉に思わず大きなため息が出る。
「普通はね、心配するものなのっ。当然だろう?こんなに熱いのに…」
雅耶は、見るからに怠そうなのに笑顔を浮かべている夏樹の首元をそっと手で触れた。やはり、かなりの熱さだ。
手が冷たかったのか一瞬ビクリ…と首をすくめた夏樹だったが、今は気持ちが良いのか大人しくされるがままにしている。
「今までは『病院へ行く』っていう選択肢そのものがなかったからさ…。今はもう普通に行けるって分かってるけど…でも、ちょっと苦手意識がある、かな…」
「そうか…」
確かに、正体を隠して『冬樹』でいる以上は医者に掛かることなど出来る筈がなかっただろう。
「そういう色んな苦労がきっと、お前にはまだまだ一杯あったんだろうな」
夏樹は何も言わず、静かにこちらを見上げてくる。
「今までにも、こんな風に高熱が出たりしたこともあったのか?」
「ん…。どうだったかな…?もう忘れたよ。体温なんてわざわざ計る訳でもないし…」
夏樹は何でもないことのように言った。
だが、それを聞いていた雅耶は居た堪れない気持ちになる。
何と言ったらいいか分からず黙っていると、夏樹が「でも…」と付け足してきた。
「でも、具合悪い時に誰かが傍に居てくれるのって、こんなに落ち着くものなんだね。知らなかったよ…っていうか、思い出した」
夏樹は穏やかな笑みを浮かべると、首元に添えていた雅耶の手に自分の熱い手をそっと重ねてくる。
「傍に、ずっと…ついててくれてありがと。雅耶…」
「……っ…。夏樹…」
自分の手に重ねられた、夏樹のその手の熱さに。
まるで、その掌から伝わる全ての熱を吸い上げるかのように、カーッと頬へと熱が集中していくのが自分でも分かった。
微笑んで見上げている夏樹の、その潤んだ瞳に釘付けになる。
まぁ、これは熱のせいなのだが。
「そんな可愛い顔して、そんな可愛いこと言われたら止められなくなるだろ?」
「――え…っ?」
雅耶は堪らなくなって、ベッドに横になっている夏樹に覆いかぶさるように手を付いた。
「まさ…や?」
「本当は…。今日は具合悪いし何もしないって決めてたんだけど…。夏樹があまりにも可愛いから決意が揺らいじゃうよ」
そう言って、どこか大人びた瞳で夏樹を見下ろした。
驚いたように瞳を大きくして固まっている夏樹に、ゆっくりと顔を寄せて行く。
「ちょっ…待って!」
流石に『キスされる』と理解した夏樹が、目を瞑るも慌てて止めに入った。
「どうして?」
「だ、だって…っ。これが風邪とかだったとして、雅耶にうつったりしたら大変だろっ…」
先程よりも、もっと顔を真っ赤にしてわたわた焦っている夏樹に。
病人に悪さしている自覚と多少の罪悪感はあるものの、その想いは簡単には止められなくて。
「いいよ。俺にうつして夏樹が早く元気になればいい」
真面目な顔をしてそんなことを言った。
「それで俺が今度熱を出したら、夏樹が看病に来てよ」
「そんなの…無茶苦茶だよ…」
夏樹は困ったような表情を浮かべている。
それにつられる様に雅耶も困ったように微笑むと。
「…ごめん。でも…。好きで好きで…堪らないんだ。こんな風に夏樹とずっと二人で一緒にいられるなら…。俺は病気になる位全然構わない」
「雅耶…」
迷うように瞳を揺らしている夏樹に、再びゆっくりと顔を近付けて真っ直ぐに視線を合わせると。
夏樹は諦めたのか、恥ずかしそうにぎゅっ…と瞳を閉じた。
その後、雅耶は夏樹の傍でかいがいしく世話を焼いていた。
「食欲はあるか?」と聞くと、実は朝から何も食べていないという、ある意味予測通りの答えが返って来て雅耶は苦笑を浮かべたが、熱があることを予め電話で冬樹から聞いていた為、食欲がなくても食べられそうなフルーツやゼリー等を幾つか仕入れて来ていたので、それを出して食べさせたりした。
そして暫くは眠れそうもないという夏樹を、とりあえず横にならせながら、雅耶はその傍について様々な話をしながら一緒に過ごしていた。
そうして過ぎゆく時間はあっという間で――…。
既に日も暮れて来た頃、雅耶は帰る支度を始めつつも何処か思い切れずにいた。
未だ熱の高い夏樹を一人置いて行くのは心苦しく、何より心配で堪らないのだ。
玄関まで見送ると言って起き出した夏樹を前に、雅耶は眉を下げた。
「本当に一人で大丈夫か?もしも夜になって熱が上がったら…」
「もう、平気だってば…」
夏樹は、その雅耶のあまりの心配仕様に吹き出して笑った。
「もし辛くてどうしようもなかったら雅耶に連絡入れるよ。それで良いでしょう?」
無邪気に笑顔を見せる夏樹に、雅耶はつられるように微笑んで頷くと、ずっと気になっていた言葉を口にした。
「なぁ…夏樹は、野崎の家に戻るつもりはないのか?」
あの家なら隣なので、異変にもすぐ気付けるし、何かあれば即駆けつけることが出来るのに。
そう言外に語る雅耶の瞳を見つめながら、夏樹は穏やかに口を開いた。
「実は、それ…今日ふゆちゃんにも聞かれたんだ」
「え…?冬樹が…?」
意外な事実に雅耶は目を丸くした。
何より今日話した感じでは、冬樹自身があの家に既にこだわりなどないように見えたからだ。
「うん。本当はね…前は、自分が独りなのを思い知らされてしまいそうで、あの家に帰るのが怖かったんだ…。でも今は、そういう気持ちもなくなったし、戻った方が良いのかもって思ってるよ。何より経済的にも、さ…」
「そう、か…」
夏樹は小さく頷いた。
「前の私は…ふゆちゃんへの罪悪感と、自己嫌悪で一杯だったから…。ふゆちゃんが生きていてくれたことで何より気持ちが楽になったかも。お父さん達は、もう戻っては来ないけど…。でも、それに…。今は何より――…」
夏樹は一呼吸置くと、雅耶を見上げて言った。
「…雅耶が傍にいてくれるから。もう、寂しくないよ」
その言葉と、夏樹のその潤んだ大きな瞳に…。
堪らなくなって、雅耶はその熱い身体を引き寄せると、思いきり抱きしめた。




