‐4‐ キミというキセキ
夏樹の口から発せられた、その言葉に。
雅耶は驚きの余り大きく目を見開いたまま、泣き濡れている夏樹の瞳を見つめていた。
『冬樹でいたかった』
『ずっと、成蘭にいたかった』
(そんなことを夏樹が思っていただなんて、知らなかった…)
『冬樹』でいた頃は、半ば諦めたような瞳をしていたから…。
実際に冬樹が生きていて、無事夏樹に戻れたことは本当に予想外ではあったかも知れないが、心から喜んでいるのだと思っていた。
もう、装う必要がないのだ。
もう秘密を抱え込む必要がなくなったのだから、その分気持ちも軽くなったのだろうと勝手に解釈していた。
だが…冬樹でいたかったという、夏樹。
その理由が…。
『ずっと雅耶の隣にいたかった』
『ずっと一緒に、笑っていたかった』
…というのは――…。
(ヤバイ…。すげー嬉しいんだけど…)
そんな雅耶の気持ちなど知る由もない夏樹は、泣きながら言葉を続けた。
「ふゆちゃんは…前を向いて、ちゃんと頑張ってるのに…っ…。…オレ、…っ…」
(そこでまた、罪悪感を感じてる訳か…)
雅耶は、そっと右手を夏樹の頬へと伸ばすと、ぼろぼろと零れてくる涙を親指で優しく拭った。
「なぁ…夏樹?そんなに自分ばっかりを責めるなよ。それにさ、別に『冬樹』じゃなくたっていいんじゃないか?今の…夏樹のままでずっと隣にいて、一緒に笑っていればいいじゃないか」
そんな、過去形なんかにして欲しくない。
今も、これからも…ずっとお前に隣で笑っていて欲しいと、そう思っているのに。
だが、夏樹は弱弱しく首を振った。
「だって…変われないんだっ…。折角、清香先生に服…借りたって…。こんな服着てたって、オレ…何も変わってないっ…」
そう言うと、ずっと大事そうに両手に握っていたものをそっと開いた。
(それは、俺があげた…)
夏樹の手の中にあったのは、あの…お揃いのマスコットだった。
「折角…雅耶にも、お守り貰ったのに…っ…。オレ…全然ダメで…。…ごめん…っ…」
まるで、その手の中のマスコットに謝罪をするように目を閉じると俯いた。
「…夏樹…」
そんな夏樹を見ていて、雅耶は堪らなくなった。
『夏樹が新しい環境で充実した学校生活が送れる為のお守り』
そう言って俺が渡した物。
だけど、それは…こんな風にプレッシャーを与える為じゃない。
雅耶は小さく息を吐くと「…馬鹿だな…」と、優しく微笑んだ。
「そんな風にすぐ自分を追い込むのは、お前の悪い癖だな…」
そうして、マスコットを持っている夏樹の両手に自分の右手を添えるように乗せた。
「これ、持ち歩いてくれてるんだな。…ありがとな。でも、これがあることで、お前がプレッシャーを感じることはないんだ。そんなつもりで俺はこれを夏樹にあげたんじゃないよ」
そう言うと、夏樹は視線をこちらに向けて来た。
涙に潤んだ瞳。
戸惑うように揺れるそれはキラキラしていて、とても綺麗だと思った。
そんな泣き顔さえも愛おしいと思う。
胸が熱くなるのを感じながら、雅耶は優しく言葉を続けた。
「これは…そうだな…。あくまでも…離れている時でも、少しでもお前の傍に居たいっていう『俺の気持ち』そのものなんだよ」
「雅耶の…きもち…?」
そう言葉を反復しつつも、言葉の意味を理解出来ずにいた。
そっと添えられている雅耶の大きな手が温かくて。
そして真っ直ぐに見つめてくる、その優しい瞳から目を逸らせなくて。
雅耶は小さく頷くと。
「そう、俺の気持ち。まぁ…女々しく言っちゃうと、『離れてても俺のこと忘れないでね』っていう俺自身の夏樹へのアピール、だな」
そう言って、悪戯っぽい表情を浮かべた。
「あとは…他の男達が夏樹に寄り付かなくなるっていう、俺の呪いが込められているかも知れない」
その思わぬ冗談に夏樹が目を見張ると、雅耶は可笑しそうに笑った。
「何にしても、俺自身の自己満足なんだ。だから、これがあることで夏樹が変に焦ったりプレッシャー感じる必要なんてないんだよ。それに、無理して変わることなんてないと思う。俺にとっては、冬樹だった頃のお前も今の夏樹も何も違いはないしな」
雅耶は宥めるように優しく言うと、夏樹の両手に添えるように乗せていた手に僅かに力を込めた。
だから「大丈夫だ」と言うように優しく握ってくる、その大きな手の温かさも。
自分へと向けられる優しい瞳も、以前と何も変わらない気がするのに…。
「それでも、どうしようもなく…不安になるんだ…」
「…不安…?」
親友である冬樹なら、余程のことがない限りその関係はどこまでも揺るぎなく続いてゆく気がした。
でも、夏樹に戻ったら、今まで感じたことのないような不安に駆られてしまった。
「いつか…雅耶の隣にはいられなくなるんじゃないか…って…」
不確かな立ち位置。
綺麗で可愛い女の子は世の中に沢山いて。
雅耶の隣にも、きっと…そんな女の子が似合う筈で…。
「オレは、唯花ちゃんや…早乙女さんみたいな女の子には、到底…なれそうに…ないから…っ…」
「…ちょっ…、待てよ。夏樹っ…」
どうしてそこに『唯花ちゃん』や『薫先輩』が出てくるんだ。…とのツッコミを雅耶が入れる前に、夏樹が畳み掛けるように続けた。
「雅耶の隣にずっといたいけど…っ…。オレの居場所…っ…もう、どこにもない気がしてっ…。そう思ったら、胸が痛くて…っ…苦しくてたまらなくなって…っ…」
再び、小さく肩を震わせながらも、その胸の内を語る夏樹に。
雅耶は信じられない思いで、その瞳から溢れ落ちる雫を呆然と眺めていた。
『雅耶の隣にずっといたい』
雅耶の頭の中では、その夏樹の言葉だけが何度も繰り返しリピート再生されていた。
夏樹がそこまで自分を想ってくれてるということが、正直驚きで。
嬉しさの余り、すぐに反応出来ずにいた。
だがそんな間にも、目の前で涙を零し続ける夏樹に。
「俺も、お前も…考えてることは同じなんだな…」
相手を取り巻く環境の中に己が入り込めずにいる疎外感。
今まで近くにいた分、会えない時間が増えれば増えていく程、不安は募っていって…。
「でも、夏樹…?お前は大きな勘違いをしてるよ」
雅耶は小さく息を吐くと、立ち上がった。
すると一瞬、夏樹の肩が怯えるように僅かにビクリ…と反応する。
そうして、ゆっくりと不安げにこちらを見上げてくるその濡れた大きな瞳を雅耶は眩しげに目を細めて見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「俺が、どれだけ夏樹のことを好きか…夏樹は分かってない」
「………」
夏樹はただ、瞳を大きくしている。
「俺達は、物心ついた時から兄妹のように過ごして来たよな?夏樹は俺にとって初めて出来た女の子の友達で、一番身近な…特別な女の子だった。自分でも、いつから…なんて分からない位、気付いたら好きになってた…」
――その眩しい笑顔が、大好きだった。
「でも…八年前、あの事故があって…。永遠にお前を失ったと知った時、俺は凄くショックで暫く立ち直れなかった。すぐには信じられなかったし、諦めきれなかった。ずっと…お前が帰って来るのを待ってたんだ」
願っていれば必ず戻って来ると、信じていた。
「でも、どんどん時は過ぎていって…。もう、諦めなきゃいけないのかもって思い掛けていたんだ。そんな簡単なモノじゃなかったけどな…。でも、そんな時――…お前が現れた」
今とはまた少し違う、傷付いた様な冷たい瞳で。
「その時、お前は『冬樹』だったけど、でも…俺の中では夏樹の姿とダブっていて…気付いたら、お前ばっかり見てたんだ。そして『冬樹』が実は夏樹だったんだと知った時…。俺がどれ程嬉しかったか…。お前に分かるか?」
「……っ…」
そこへ再び強い風が吹き抜けていく。
木の葉が舞い散る中、だが二人は微動だにせず見詰め合っていた。
昔から変わらない、真っ直ぐな瞳。
(感情が昂るとすぐ泣いちゃうのも、昔から…だよな…)
雅耶はフッ…と、小さく笑うと、言葉を続けた。
「もう二度と会えないと思っていた、あの絶望を思えば…。お前自身がこうしてここにいる…、存在してくれていることそのものが、俺にとっては本当に奇跡なんだよ」




