‐2‐ あいつの涙
「夏樹かっ?良かった…。やっと繋がった…」
雅耶は思わずその場に足を止めてホッとした様子を見せると、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「今、何処にいるんだよ?ずっと連絡取れなくて心配してたんだぞ?」
そう言いながらゆっくり歩き出すも、電話の向こうの夏樹の反応が返って来なくて再び足を止める。
「…夏樹?…聞こえてるか?」
『………』
(…電波の調子が悪いんだろうか?)
耳を澄ましながらも、そんなことを考える。
だが、まるきり音が聞こえないという訳ではないようだ。
周囲に人のざわめきなどは聞こえないが、ガサガサという音が聞こえてくる。
(これは…風の音…?)
「夏樹?…もしかして、今外か?もう帰ろうとしてる途中だったりするのか?」
そう言いながらも、とりあえず一階へ降りようと足を進める。
すると…。
『…まだ、いる…よ…。…いるけど…』
小さな、少し掠れた声が聞こえて来た。
その普段と違った夏樹の様子に、雅耶は再び焦燥感が増して来る。
「夏樹…?…何かあったのかっ!?今どこにいるんだっ?すぐに迎えに行くから場所を――…」
そこまで言い掛けた時、雅耶の言葉を遮るように再び小さな声が聞こえて来て、慌ててその声に耳を傾ける。
夏樹のその些細な言葉さえも逃さないように。
だが…。
『ダメ、だよ…。来ないで…』
思いも寄らない言葉が返って来て、再び雅耶は足を止めた。
「…何でだよ、夏樹…?」
その一言に思いのほかショックを受けていた雅耶だったが、再び思い直すと、ゆっくり歩き出す。
すると、再び夏樹の声が聞こえて来た。
『…何も、あるワケないでしょ?…気にしすぎだよ…』
先程よりは、幾分か明るく元気そうな声色だった。
(でも、無理してるのミエミエなんだよ…)
だが、夏樹は平静を装って話を続ける。
『ただ…懐かしさに浸って静かなトコに移動しただけなんだ。その内戻るよ。だから…気にしないで…』
語尾が小さくなっていく。
「まぁ…何もないなら、それが一番なんだけどさ。でも、それなら…せめて今何処にいるか位は教えてくれてもいいだろ?」
『………』
「…夏樹?」
僅かな時間ではあるが、無言の状態が続く。
そして、再び電話の向こうから聞こえてきた夏樹の声は、小さく掠れて震えていた。
『ごめん…。少し…一人にしておいて…』
「…夏樹…」
今にも泣きそうな声だった。
いや、もう既に泣いているのかも知れない。
何があったのかは分からない。
実際、何もなかったのかも知れない。
でも今、夏樹の気持ちが沈んでいることだけは判る。
(…全部、俺のせいだな…)
今朝会った時の綺麗な笑顔が、今涙に濡れているのかと思うと雅耶は胸が締め付けられる思いがした。
楽しみにしていると言っていた学園祭。
でも、不安も沢山あると言っていた。
それを分かっていたのに…。
「…ごめんな?俺、急な仕事が入ったとは言え、お前との約束破る形になっちゃって…。でも、お前を一人にするつもりなんてなかったんだ。ホントごめん」
一般公開されていない棟の、人気のない廊下に雅耶の声だけが響き渡る。
『…謝らなくて良い…。そんなの仕方ないでしょう?そんなことで、怒ったりしない』
「でも…じゃあ、何で泣いてるんだ…?」
すると、電話の向こうで夏樹が息を呑むのが分かる。
『……っ…。泣いて…なんか…』
「俺が気付かないとでも思ってるのか?」
『………』
ふと、裏庭を見渡せる廊下の窓から外を眺めてみると、他に人気のないその場所に一人の少女が花壇に腰掛けて俯いているのが見えた。
『でも…じゃあ、何で泣いてるんだ…?』
その突然の雅耶の指摘に、夏樹は思わずドキリとした。
雅耶に全てを見透かされているような気がして。
弱い自分も…。
心の奥底に渦巻く、醜い想いさえも――…。
「……っ…。泣いて…なんか…」
咄嗟に否定を口にするも、自分の意志とは裏腹に余計に涙が零れて来て嗚咽を抑えることだけで精一杯だった。
『俺が気付かないとでも思ってるのか?』
責めるような、諭すような…そんな雅耶の声。
(そんなの…分かんないよ。分かんないけど…)
携帯を持っていない右手の甲で溢れてくる涙をひたすらに拭う。
「今の自分を…見られたくないんだ…」
何とかそれだけを言葉にすると。
夏樹は、自らの口元を押さえて声を押し殺して泣いた。
自分でも、もう何が悲しくて泣いているのか分からなかった。
未だに変われずにいる中途半端な自分に、ただただ不甲斐なさを感じるからなのか…。
雅耶の横に寄り添って並び立てる綺麗な彼女に、途方もない劣等感を感じてしまうからなのか…。
そこから生まれる、胸を刺すような痛みが苦し過ぎるからなのか…。
あるいは…。
電話の向こうから聞こえてくる雅耶の優しい声に。
苦しい程に切なさが込み上げてくるからなのか、さえも――…。
雅耶は携帯を耳に当てたまま、急ぎ足で昇降口へと向かって階段を駆け下りていた。
裏庭に居た少女は夏樹だ。遠目に見てもすぐに分かる。
あんな所で一人で泣かせてしまっている自分に、とにかく無性に腹が立った。
自分が泣かせている…と思うのは、ある意味傲慢かも知れない。
夏樹の気持ちに、そこまで自分が影響しているのかどうかは分らないからだ。
だけど、こんな状況を作ってしまったのは確実に自分のせいだから。
(そんな所で、一人で泣くなよ…)
本当は、いつだってあいつの笑顔を護りたいと思っているのに…。
電話の向こうでは、夏樹が恐らく泣きじゃくっているのであろう嗚咽が絶え間なく聞こえて来ていた。
「…夏樹、そんなに泣くなよ。今の自分を見られたくないって、どうしてだ?泣くからには、やっぱり…何かあったんじゃないのか?」
必死に足は前へと進めながらも、出来るだけ優しく静かに言葉を掛ける。
とりあえず、先程から声を掛け続けてはいるが夏樹からの返事は聞こえて来ない。
だが、電話を切られないだけマシだと思っていた。
そのまま電話を繋いだまま雅耶は昇降口まで辿り着くと、急いで靴を履き替える。
ここは人が多く賑やか過ぎて、電話の向こうの様子が聞き取りづらいのだ。
雅耶は慌てて人のいない裏庭の方へと足を運んだ。
相変わらず声を押し殺して泣いている夏樹に。
その必死に堪えるように震えている小さな肩を想像して、そして聞こえてくるその微かな息遣いに胸が痛んだ。
夏樹は声を殺して泣く。
それを知ったのは、彼女がまだ『冬樹』であった時だった。
もともと、小さな頃の夏樹は泣き虫だった。
いや…泣き虫というよりは、いつだって感情表現が豊かだったのだ。
楽しい時には表情豊かにコロコロと笑い、悲しい時には涙を流す。
それは分かりやすい程に、素直に。
だが、八年振りに会った『冬樹』は別人のようであった。
基本は無表情で、何事にも動じず、いつも何処か冷めた表情をしている。
だがそれは、あいつなりの本来の自分を押し隠す常套手段なのだということに気が付いた。
それは夏樹が『冬樹』である為の、ある種の防衛本能から生まれたものだったのだ。
笑顔は勿論、人前で涙を流す事などなかったであろう『冬樹』。
だが、自分に心を開いてくれた後、あいつは俺の前で何度か涙を見せた。
だが、それは昔のあいつからは想像もつかない程に静かなものだった。
表情はそのままに、大きな瞳から音もなく涙が零れ落ちていくのだ。
勿論、子どもの頃と同じ泣き方である筈がないとは思う。
だが、あいつの…夏樹の泣き方は、何処か寂しく切なさに満ちたものだった。
あいつの過ごして来た八年間という長い年月が、どれだけ孤独で辛いものだったのか、俺には想像もつかない。
だけど、そのせいで自分のこととなると何でも我慢して抑え込んでしまいがちな夏樹に、いつだって『泣きたい時は思いきり泣けばいいんだ』と言ってやりたかった。
だけどそれは、こんな風に人知れず泣くという意味じゃない。




