第五章 脱出
犬のいる広場に来たが、犬も見当たらなかった。
「ワサビのKitKatあげた事、謝りたかったんだけどね」
「ははは。じゃあ子供たちに言付けしておきましょう」
それからまた腹ばいになって細い部分を抜け、階段のある所まで来た時に、異変は起こった。
突然ゴーっと低い音がし、地震のように地面が揺れる。あせりまくったが何をどうしたらいいか分からない。そして次の瞬間、バキバキという木が折れる音がし、それがらガラガラガラガラというものすごい音がして竪穴に組み上げられていた木の階段が一気に崩れ落ちた。竪穴の入り口に埃が立ちこめ、木の破片が広場の方に飛び散り押し寄せてくる。翠が私を抱いて木の破片が当たらないようにかばってくれた。
私はしばらく呆然としていたが、やがて翠が言う。
「困りましたけど、しばらく待っていれば上にいる者が気がついて助けにくると思います」
「やっぱりお宝を取ったからかな?一つは残して置いたのに。……それとも階段の手すりの木を引き抜いたからかな?ははは」
「ちょっと様子をみましょう」
「でも、上の人がいつ気がつくか分からないじゃない」
「あの、私が海から出て行って助けを呼んで来る事もできますが、そうするとその間、千方さんはここで一人っきりになってしまいます……」
「そんなのだいじょうぶだよ」
「え……」
「お願い。早く呼びに行って」
「……では。そうしましょうか……」
翠は一旦、水溜りのすぐ側まで歩いていったが、何か考えているようで、しばらくうつむいて立っていた。それから私の方に引き返して来て言う。
「……やっぱり、二人で一緒に海から出ましょう」
そして私の手をとり水溜りのすぐ側まで引っ張ってくる。
「えええ?そ、それは翠はいいかもしれないけど、私は出られないよ」
「問題ありません。水に潜っている間は三分ぐらいですから」
「ムリムリムリムリ。そんな三分なんて絶対無理」
「え?人間でも三分なら大丈夫だって書いてありましたよ?」
「え?どこに?」
「シャーロック・ホームズ……かな?」
「うそ。そんなの。海女さんとかなら三分ぐらいいけるかもしれないけど。私は一分が限界」
「大丈夫ですよ私が引っ張っていきますから」
「じゃあ、翠の力で水をどけてよ」
「無理です。すみません、海ですから。こっちで水をどけてもどんどん流れ込んできますから」
「だから流れ込んで来ないようにすればいいじゃない」
その時、水溜りの水面がガバっと二メートルほど下に下がったが、すぐに元に戻ってしまった。翠が水面を押し下げてみたのだろう。
「う~ん、ちょっと無理です」
「……」
「大丈夫ですよ。水の中なら僕が引っ張っていきますから」
「え……」
私が躊躇していると、翠は私の真正面に来た。そして両肩に両手を置き、私の顔をじっと見て言う。
「千方さん、私が絶対あなたをお守りします」
「え?」こいつ、さっき私がやった事を真似してやり返しているな、っと思うが翠の眼を見た瞬間、いやおうなく顔が火照るのが分かった。翠が続ける。
「じゃあ、深呼吸を早めに何回もしてください」
私は言われたとおりにした。ハイパーなんとかって言ったっけ。
そして翠は私に懐中電灯を渡し、左腕を私の背中に回してぐっと私の身体を引き寄せた。翠の胸が私の胸にくっつき翠の鼓動が伝わってくる。脈拍が速い。結構、緊張しているんだなあ。
「じゃあ、行きますよ。私がなんとかしますから千方さんは何もしなくていいです」
そう言うと翠と私は水溜りの中に倒れこんだ。
一瞬どっちが上だか下だか分からなくなった。ブクブクという音が聞こえる。水はすごく冷たかった。そして翠は私を左腕に抱えたまま、岩を掴んで半分泳ぎ、半分歩きながら進んでいく。水鬼とはいえ、すごく早く泳げるわけではないようだ。そうだ、早く泳げるのは水鬼ではなく河童だった。
しかししばらく行くと私は息が苦しくなる。ここで息を吐いてしまったら後で余計に息が続かなくなる、と思って必死で我慢していたのだが、何十秒か経ってついに我慢の限界に達した。私はゲホっと咳き込み、それが引き金になってゴホゴホと肺の空気を全部吐き出してしまった。あと我慢できるのはあと十秒が限界だろう。その後は海の水を吸い込んでしまうに違いない。まあ、溺れても翠が私の身体を陸まで運んでくれるだろうけど……と色々な考えが頭を駆け巡る。そして私が苦しくてばたばたし始めると翠が左腕を離して両手で私をしっかりと抱きなおした。さすがに落ち着いた顔をしている。そして私の顔を両手で持って、自分の顔を近づけた。ああ、そういう事かって思った。翠は自分の口を私の口に重ね、息を私に吹き込んだ。空気が私の肺に入ってくる。
ぜんぜん楽にはならなかったが、もう手足をばたばたさせる事はできないな、と思った。身体と命を翠に預けるしかない。
それから数十秒して私たちは海底洞窟から抜け、日本海の海の中に出た。それから翠は泳いで海面まで浮き上がり、私を抱きかかえて私に息をさせた。
「ぷっはー」必死で呼吸をする。ああ、なんとかなった。上を見ると夕焼けが終わって灰色のような紺色のような重くのしかかる空が見えた。
二人が海岸の岩場に泳ぎ着くと、翠は私の手をとって引っ張り上げてくれ、人の作った路らしき所まで私たちはなんとか到着する事ができた。もう体力の限界。
「ああ、帰ってきた。翠、ありがとう」
「大丈夫ですか?千方さん」
「うん。私はだいじょうぶだよ。宝は無くなってない?」
「はい。大丈夫です。じゃあ家まで帰りましょう」