第四章 のっぺらぼう
猫の広場の終端の部分は狭くはなっていたが這って通るほどではなかった。私たちはかがんで歩き、次の広場に出た。
「どう?何かゲットした?」
「はい。剣です。見えませんか?」
「いや、見えない。まあいいよ。それで何ができるの?」
「この剣で地面や壁を切り裂いて、そこから水を出す事ができるようです。やってみましょうか?」
「いいよ別に。今、敵に手の内を見られたくないでしょ」
「そうですね。次は何でしょうかね?」
「犬、猫、ときたから今度は猿じゃないかな」
「そ、そうですかね?……」
そう返事をした時、先を歩いていた翠が急に立ち止まったので、私は翠にぶつかってしまった。ふと前を見ると白い着物を着た髪の長い女の人が壁を背にして立っている。私は思わず背筋がぞくっとした。やっぱり人間の幽霊、それもメイドインジャパンの幽霊の怖さは半端じゃない。顔を見ると、そこには眼も口も鼻も無かった。のっぺらぼうという奴だ。私はラフカディオ・ハーン先生がのっぺらぼうは狢が化けたものだと書いていたのを思いだした。
「ねえ翠、猿じゃなかったよ。あれは狢だ。……よーし、分かったぞ。これは四つ足動物の妖怪の系列だから最後は狐だ。ははは。」っと怖さを紛らわすような事を言ってみたのだが、翠の反応は全く私の想定外のものだった。
翠は立ち止まったまま、のっぺらぼうから眼を離さずにぼそっと言う。
「お母さん」
「へっ?」
翠は今度はのっぺらぼうに向かって真顔で呼びかけてる。
「お母さん」
さすが狢だ。心理戦か……。
「翠、お母さんに見えるの?」
「はい」
「私にはのっぺらぼうに見えるんだけど」
「十歳の時に亡くなった母です」
「……」
私はどうしたらいいか分からずに黙って翠の様子を見ていた。しかし翠がのっぺらぼうに向かって歩き出そうとしたので、私は翠の手を握って引き止める。のっぺらぼうは全く動かず、じっとこちらの様子をうかがっている。
「ちょっと危ないかもしれないよ」
「……そうですね……」
「……」
「千方さんはのっぺらぼうに見えるんですね?千方さんの眼は騙されないんですよ、きっと。千方さんが見ているのが正しい。私に見えているのは幻影なんだと思います。心を試されているんですね。……きっと」
「うーん、そうだと思うよ」
「分かりました。母が生きてこんな所にいるはずがないですからね。行きましょう」
しかし私は気が進まなかったので翠の手を握ったまま立ち止まっていた。翠が振り向いて言う。
「千方さん、もう大丈夫です。これは幻影で、私の心が試されているんです。一気に駆け抜けましょう。襲ってきたら棒で……」
しかし翠の顔が苦しさをこらえているようだったので、それを見た私はどうしても動く気になれなかった。
「ねえ翠、ここはだめだよ」
「え?」
「もうあきらめよう」
「え?せっかくここまで来たんじゃないですか。千方さんだってさっき全部取ろうって言ってたじゃないですか」
「ごめん。私はもう行けない」
「え?私は大丈夫ですよ。あれは幻影です」
私は翠の肩に手を掛けた。翠が完全に私の方を向いたので、私は両手を翠の両肩に置いて、まっすぐ翠の顔を見て言った。
「ねえ翠、たしかに翠が見ているのは幻影かもしれない。私たちの心が試されているのかもしれない。しかしね、もしそうだとしても、翠がお母さんに見えると言っている人を、私はぶったたけないよ」
「…………」
「ごめんね、翠。悪いけど私の力はここまで」
「……」
翠はしばらくだまっていたが、眼から涙がこぼれてきた。泣きながら翠が言う。
「千方さん、あなたに出会えてよかったです。あなたが啓主で本当によかった」
「……」
翠の泣が止まらないから、私は翠を引き寄せ、その華奢な体を抱きしめた。そして翠の肩越しにちらっとのっぺらぼうを見ようとしたが、もうそこには何もいなかった。
「さあ、帰ろう。さっさと引き返した方がいいよ」
「はい」
二人で入り口の方に向かって歩きだした時に、翠がふいに後ろを振り返って返事をする。
「はい。お母さん」
「え?お母さんが何か言ったの?」
「はい。『いい人が見つかって良かったね』って言われました」
そして二~三歩、歩くと、また翠が言った。
「あの千方さん、鏡を手に入れました」
「へ?」
「結局、あの対応で良かったのかもしれません」
「え、そうなの?」
「さすがです千方さん」
* *
私たちは洞窟が狭くなっている部分を屈んで通り、猫頭のいた広場に出た。恐々と辺りの壁を見回したが、今度は猫頭は現れなかった。帰りはフリーパスのようだ。ちょっとだけリラックスできる。翠が立ち止まって言う。
「あの千方さん、最初の犬のところでは攻撃一辺倒ではなく懐柔作戦が取れるような心の広さが試され、猫の所では恐怖心に打ち勝つ勇気が試されたんですよね。そしてお母さんの所、いや狢の所では道義心が試されたんだと思います」
「まあ、それで正しかったのかどうか分からないけどね。それで?」
「狢の所での対応が正しくて鏡を入手したんですから、もう一つ行って最後の鈴まで取りに行ってもいいのではないでしょうか?やはり伝承は正しいんですよ。啓主を得れば鬼宝が取り戻せるんです」
しかし私はくびを横に振って言った。
「いや、行かない」
「え?どうしてですか?」
「だって、お母さんの所で『もうここであきらめる』って決めたから。いまからそれを変えてはいけないよ」
「……」
「もうここであきらめる、っていう事で鏡をくれたのかもしれないよ」
「まあ、そうですけど」
「ねえ、千年も埋まっていた鬼宝を掘り出すと何かが起こるよ」
「へ?何がですか?洞窟が崩れるとかでしょうか。まあ、そんな映画を見た事がありますけど」
「四つの宝のうち三つを取ったんだよ。後の一つは子孫に残してあげなよ」
「え?」
「いい?翠や翠の子孫はその宝で大変な力を持ったんだよね」
「はい。まあそうです」
「代々そういう力を持っていて、何も生きる目的が無かったらどうなる?」
「え?……」
「何か良からぬ事に使って、世の中のバランスが壊れるかもしれないよ。犬と猫と狢はそうならないように持ち主を選ぶ役目をしていたんじゃないかな?もちろん翠は大丈夫だと思うけど。四つセットで子供に残さないで、子供たちにも挑戦する事を残しておいて、洞窟の洗礼を受けさせなよ」
「う~ん、なるほど……分かりました。千方さんの言うとおりだと思います」